”世間”が求めているのは、安倍首相の様なリーダーシップ、ではある。
ただ、その帰結が今回の様な結末になるのも、或いは予定調和でさえある。
安倍元首相、応援演説中に凶弾に倒れる。高橋和希氏に対して「平成の成功者にはどうも暗い影が」とか書いた、直後の惨劇ではあり、いささか動揺の様なものは、ある。戦争中でもあり、何かの無理、それを強要する雰囲気、それが増しているのも実感はする。そして、同じくその反動もまた、物理的事象として…それは一つの結末ではあって。
アベノミクスは何を残したのか?我々の生活が困窮しているのは何故か。そもそもこの主張は一体、何を目指していたのか?
結果的に言えば、アベノミクスは失敗した、のだが。”世間”は次を求めているに過ぎず、方向性を変えよう、という事には…今も成ってない。そもそもその”世間”とは、一体何か。或いはビル・ゲイツ氏でさえ止められない”何か”は今も、利益を否定し、虚構へ向かって突き進み、悲劇を量産はしている。
単に、因果の結果、だろうか。平成の成功者の多くは、何らかの問題を抱えている。”それ”を放置して、その先に進むことは出来ない、そういう。それらは多く、アベノミクスも結果的にそうだったように、生贄を必要とし、それを美化し続けた、それへの応報を無視するのは、確かに道理には反する。
責任を取らさねばならない、生贄はただ生贄になった、”喰われた”だけだ。社会的な成功者のお面を被った彼ら食人鬼らを罰しなければ、倫理は先へ進む事は出来ない。
それはそれで、道理ではある。
ただ問題の多くは、「自由にやりたい」その、或いは民主的な衝動、その結末にはあるのだが。
「それは出来ません」人は社会性を持って人たり得るのです、他者の存在を無視しては何もかも邪を纏い歪んでいきます。法に則り遵守し、その上で知恵を駆使して努力し研究し、そうして利益を出さねば健全な成功は得られないのです。あなたはもっと学ばなければならない。
ああもう、うるさい。
その、原始的な感覚はでも、死を前にした病人に対しての、医者の存在意義、その感覚からかもしれない。”相手”の要求には或いは無理がある、医者は神ではないしかし、では自分は、何の為にここに居るのか?集う全ての願いを託されて、”それ”を具現化出来ない?という、それは許される事か。
真摯な善意の先にはでも、「私は神だ」そんな、タブーの入り口はある。
…結局この先、私見での、「邪が助かってしまう」そんな絵は有るのかもしれない。そんな、神を名乗り始める医者の元で、「出来ません」を言う、”それ”がタブーになっていく先に、物理的な破綻と、そして或いは変質がある、それは誰の責任か?だ。皮肉的に”それ”は、「それはやっちゃいけない」タブーへ踏み込んでいく事になったのか。「出来ない」を否定する先にあるのは、理想とは異なる”そういう絵”、かもしれない。極論化の先に居るのは、王に対する皇帝だ。
或いは、アフガニスタンを「治そう」とした中村哲医師はでも、最後は対立の狭間、銃弾に倒れた。病を治す事は出来ても、衝突する紛争の解決、それは独裁性では逆効果にはなる。そして、超えられなかった。
些細な対価?で、”元凶”が活路へ逃げていく様が…或いはある。
庵野秀明氏もまた、何かの復活に至ってしまってはいる。
その後ろに数多の、平成の英雄ら、その死体を置いてだ。
”彼ら”は結局、その元凶を殺せなかった、訳で。
就職氷河期世代、それはいったい、何に巻き込まれたのだろう。