理解として「テレビとテレビゲーム、どっちが上?」と言うと、テレビゲームの方が上なのだが。
しかし、実感的にテレビゲームはそれほど面白いか?に関しては、主観の問題でもある。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
ルート分岐は常に人を悩ませる何かではある訳だが
視点では、ともかく民主主義が正しい、とする時、「一人の王が独善的に決める」それと、「少なくとも二人の間の協議で決まる」方、どっち?というと多数決で後者ではあり。その狭間で「どうやって決めるか?」そこに価値観と言うか議題がある、訳だが。”それ”が最終的には紛争解決機構、それを意味する事には成る。問題はそして、その協議、是非、それでは現実的には物理を境目にする事に成る為に最後、”これ”はイデオロギーと言う等価同士の物理的な戦争、という事には成る訳だが。もちろん多数決で、「それは無しで」それは悲願でさえある。
なので、「では物理と等しいモノを審判にしよう」と言う、そこにあるのが紛争解決機構、「大賀さん」それではあるのだった。ともかくこの時点で、最初の「一人の王が独善的に決める」それは消えている。
しかし、テレビの構造的欠陥、というべきだろうか。”それ”は今も、その「少し間違っている」文言をそのまま残してしまっている、のだ、多分。結果、そこには「テレビの王の椅子」と言うのが残ってしまっていて。本来なら”そこ”に「紛争解決機構」それを置くべき所だが、そこに夢を見た奴かが、その座を目指しているか、或いは座ってしまった。
その結果が、あの芦原氏の死、それにも繋がっていく。
戦争の後遺症、だろうか。テレビその物がその時、「反逆者」物理への、それに成ってしまっていた可能性。
打開する術は、ここの視点では一つだ。その「テレビの王の椅子」に、人形というか紛争解決機構、”それ”を置くべきではある、訳だが。ただもちろん、それによって恩恵を受けていた人々、というのも相応居る訳で。その辺、抵抗は世界レベルに成る、特に作家の中では大きいだろう。「俺が神なんだよ!」と、言わんばかりの横暴それが、昭和から続く一つの理想みたいになっていたがもちろん、内田裕也と樹木希林夫妻の様な、それの是非ではある、本人ら?が我慢しようがそこにあるのは無理でしかなく。そして要するに、虐待その原理にも成っていく訳で。
太平洋戦争後にある、一つの些細かの、その時は問題なかった嘘の果てに、今の暗黒はある。是非はある、当時、「アメリカの勝ち」にしていなかったらどうなっていたか?だ。「鉄血のオルフェンズ」にしろ、別のルートがない、訳じゃない。マクギリスの誘いを断ったら結果、鉄華団は再びギャラルホルンの敵には成ってしまう、が。ただその時、戦死した筈のガエリオ・ボードウィンの存在はイレギュラーとして状況は逆転し、マクギリスを追い詰める、可能性は…あるには、ある。ただ当時かのそれは、その選択が出来なかった、その立場では最善の選択だった筈、ではある。
日本はその後、果たして何発原爆を撃たれただろう、それでもその先に勝利が有るとして耐えるべきだったか、だ。
「商業創作に自由なんか無い」それは今、基底にしたいが、果たしてではある。