「私は面白いと思う」は、あくまでも主観的な判断ではある。
なので、”それ”を他者に強要すると、他者にはストレスに成る。
毎度の話、「ゼビウス」は最初、どういう企画だったか?ではある。状況の再認識、「王の権威」昭和天皇、それの”意向”或いは同意が無いと、創作は利益性を持てなかった。良くも悪くも”それ”に近い立場であれば、創作でのヒットが可能性としては有った、訳だが。
という状況で、その「オーダー」が下りてくる。ガンダム「逆襲のシャア」でもあるが、サイコミュのテクノロジーがなんか資材課あたりから流れてきた、みたいなニュアンスで、「誰の創案?」かは解らない感じで、”それ”は現場に齎される。「スペースインベーダー」も結論ではそんな感じだ。が、その時、その現場的には反発があって。
要求は、「潜水空母計画」その実現性について、ではある。
オーダーの期待としては「無理」そんな絵が望まれてはいたが。
ゲームとしてデザインするなら、残機は無し、一発被弾でゲームオーバー、ではある。
面白いか?
と、現場は判断した結果で、今のデザインになったが。その時、テーマは全くの真逆を向いてしまった。「戦争なんてこんなもんよ」バカバカしいだろ?授業料だ。それに対して、「3回まではチャンスあるから」それでは、冒涜でさえある。
現場のデザイナーとしては道理の上での話だ、ユーザーの為にはそっちの方が良い筈である。100円投入して10秒後にゲームオーバーでは笑い話にも成らない。せめて3回は挑戦できるのがゲームとしては道理と言う物ではあるまいか?上の方は現場の事を何も解っていない!
…と言う改変は、現在の個人的把握では「上手く行かなかった」事には成る。現場的には「天皇陛下に逆らっても」に成った結果、是が非にでも売れた事にしないと困った、と言うかの結果で、無理矢理売れた事にしてしまった、が。その実感的な感覚が、昨日の「FLICKY」にも出てる、感じがある。
流石にか、”これ”に対しても「大ヒットしました!」は、言えなかったと言う事は有るだろうか。重い喪失と後悔と疑問と憤慨を残して、ゲーム業界はこの辺から、「天皇陛下に逆らう連中」と言う様な、何かの重い混沌を背負う事には成って行った訳で。
結論で言えば、今の衰退は「だから」では、ある。
とは言え一般論としても、「天皇陛下の意向に逆らったから」では、ちょっと今の時代、面倒を抱える事にも、成る訳で。
自分の現状では、昨日の「FLICKY改」は自作できない、という部分はあって、どうにも色々「では実証しよう」が出来ない現実は重い。個々の”実感”だけで、それは説明できるモノか?だ。この辺にある障壁を何とかしないと?表側に「面白い」を持ち込みにくい訳だが。
格差も或いは広がっている。
その辺も、重い壁だ。
カウンタ制御は今、果たして是か非か。