狭間が必要だった、と言うのはある。
太陽信仰、それは世界に富を齎してくれる太陽を絶対の神とする思想な訳だが、リアリティはしかし、貧富の差を許容してしてしまう、太陽からの恩恵を得られる者と、得られない者、だ。太陽が強すぎても弱すぎてもダメで、”適当”で適時なパワーで照らしてくれて、初めてその場の植物他は健全に育つ。それが無い地域は富が得られず、そしてそもそも土地が無い物に、この恩恵はほぼ無関係だ。
土地なき者に、この信仰は冷たかった、訳で。
放浪する民が辿り着いた?のが、或いは黄金信仰?ではある、金本位制。万人が求める物、金と言う安定と価値、”それ”を持ち、上手く使う事で、富を得る事が出来る。ここに太陽の存在は無意味だ、そして土地も、だ。彼らは或いは、必然的に「黒」闇を崇める様になった、対抗する様に、そして或いは、そこに「ユダヤ教」それがある。
長い対立かの歴史を経て、一種、アメリカと言う大陸で、太陽信仰と金本位制、”これ”は何かの共存をしている…訳だが。両者は今、共に両者を必要とはする。太陽による富も、換金しないと現在の世界では意味が無い。逆にお金だけ持っていても、太陽の恵みは手に入らない。プラスとマイナス、その融合?と思いきや、或いは失念がある。
土地もお金も持ってない者は、どうすれば。
両者は、両者とも、この狭間に対して返答を持たない。「あっちへいけ」言う事は両者”同じ”だ。両者から放逐されたそこは、第三の思想を?しかし、或いはアメリカにそれを許容する場が無い、と言う事だろうか、アメリカは二大政党制ではあり…システム的にはこれは失念に近い、そう言う何か、かもしれない。
「労働が出来ない」感覚が残るのかもしれない。働くにも土地が無い、何かを買うにもお金が無い。意外と、奈落へ落ちて行った、それはそこで、両者共有の脅威、それとなったのだろうか。
「人力発電機」その存在は、逆に金本位制に、何かの妥協を与えはする。体一つあれば?技術は要らず、お金を得る事が出来る。これがある場所に、切り捨ては基本的には無い、が。世界の殆どは、太陽信仰を軸にしている、のだ、物理的に。その時、「土地を持たない」という存在は、その世界に居られないのか。
恐慌はある、金本位制によって、人が太陽信仰からどんどん離脱してしまう。が、その結果、太陽信仰による生産物は無くなって行き、金本位制、それが如何にお金を出しても買えない、と言う状況を創る。太陽信仰の場で、土地を持たない人々が、或いは土地を、太陽の与えてくれる富を、享受する方法とは?体一つで、この場で何が出来るのか。土地は無く、お金も使えず、その上で、太陽の与えてくれる富を享受する、その術。
夫婦の話にするなら、「料理を作ってやるからこの土地に住まわせろ」それはある。
しかしそれは、思想の話に繋がるのだろうか?土地を持つ人々であっても、料理は作れるのだ。「土地を持つ人々には出来ない事」で、その上で?太陽から得られる富を得られる、何か。
太陽信仰は、「太陽は等しく万人を照らしてくれる」その富も、だ。それは理由に成るのだろうか?太陽信仰の場なら、”生きているだけ”で、それは最低限の生命維持は、保証されるのだ、そうで無ければ成らない。
「ベーシックインカム」と言う、財源の重そうな話、それへの奇妙な執着の、これは起点?
人本位制にとって、「生きてるだけで良い」”それ”は意味のある話、だ。一人の同意で1円、である。それを形成する人は、多いほど良い。死よりももちろん生を求める、人は少ないより多い方が良い、その感覚の、原理的な起点ではあり。
それは今の時代、何として有るのか。