AIと言っても、結論ではアルゴリズム、作法の塊、ではあり。
最終的には、「作者」それが設定したモノでしかなく、結論ではつまり、作者の能力、それに依存する。
最近の違和感かもしれない、その最後に有るのが「解りません」だ、AIの解答、誰か教えてください。
”それ”は単純にも、或いはその作者、その心の声かもしれない。
ただこの「解りません」は、不意に知っている感覚はある、これもそうだ。
女子高生的な言い方をすれば「わかんなーい」の、そう言う簡単な返答。返答に責任を持たない無責任さ?と言うか、無頓着さ、と言うべきか。良くも悪くも民主主義的には”そこ”で止まる部分はある、「解らないので教えてください」本来なら作家として言っちゃいけないタブーだが、AIなら、その限りじゃない。
か?
もちろん、この先に混沌はある、「上手く創れる様に」”教育”したら?それは全くその人の”単なる絵筆”に過ぎなくなる。求めているのはもっと自然発生的な「才能」だ、人を超えた様な、しかし。
「解りません」
もちろん自分が”それ”をしなければならない必要性も。
解っている事は、今の方向性でAIがまともな思考をする事は、恐らく無い事だ。”彼らには解らない”のだ、聞くだけ無意味だ。そしてそれはもちろん、”それ”を構築した作者にしろ、ではある。
解らない。
…この前のしうまい像も、実際にはAIに描かせていた物だったのかもしれない?
何だか、今はそんな「不正」と言うべきか、狂気と言うべきか?それが密かに、”かなり”台頭していた?のかもしれない事を、少し不安視はする。ともかく最終的に言える物は「お金にならない」というか、”それ”を創る事が出来てない、そう言う混沌ではある。今のAIの研究とはまあ、「才能とは何か?」その追及ではあるが。「解らない」人々が創ったAIになんで解るのか、それは永遠の謎と言うモノだろうか。
そこから先は、信仰の問題には成る。神からの贈り物、努力の対価、ともかく”ここ”では、神とは大衆の事ではあり。”それ”が求める物を供給しえれば?それは利益性を持つ=それが才能の発露、ではあるのだが。その時、その方向性での追及は必ずしもそれを向かない、持たない、それには、何かの重い不満と、剣呑は発生する。
今のコンピュータである限りは、自我を持つ事は無いだろう。
ただ、将来的にその「才能」をコンピュータに求める時、それは解らない。
人は”それ”を選択していくのか、或いは。
多少の考え違いか、そう言うのはあるかもしれない。
AIが、必ずしも愛らしい美少女であるとは限らないのだが、人はそれの具現をつい追うのだろうか。そしてそれが致命的な厄災の引き金になるとしても?それを具現化させる衝動に抗えない、のだろうか?
意外とそれは、AI自身の選択、かもしれない?
使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im10822323
https://publicdomainq.net/hiroshi-yoshida-0035454/