これ高句麗の一部は新羅になって一部は日本に渡り一部は百済や扶余へ、あとは秦へ流れている。
あと大変申し訳ないんだけどこの扶余とかよりも夏代のほうが古いの。
だって三国志記や魏書で建国書かれてるんでしょ??
日本に来てた日本海側の南部は夏代入口にもなってただろうけど楚が入ってるんだよ。
奈良方面に奈良作った那羅で540年代だよ。隋で溜まったのが奈良。
ほんで隋の連中と騙された毛野と安倍が百済難民を助けたいって「白江村の戦い」に船出してるようだけどさ。
難民大国を関西で作ってたんだよ。それがその土地では自称「都」ってわけ。それが百済の難民・中大兄たちと共謀し、日本史を拡散させたわけ。
公家の前身・王族というか豪族みたいなもんが、王様語って全国に拡散したのさ。すごいマスコミ力だな。大昔は情報通信手段が乏しいのに。。。
それに協力したのが出雲と伊勢。だから古い時代の文書に出雲だの伊勢だのと出てくる。
那羅イコ-ル奈良
そうか
奈良時代・奈良県とはこの人から名前をとったんだな。
楊 堅(よう けん、541年7月21日 - 604年8月13日)は、中国の隋の初代皇帝(在位:581年3月4日 - 604年8月13日)。小名は那羅延。諡は文帝、廟号は高祖。第2代皇帝煬帝の父。
そうすると時代は隋じゃないか。
王朝 在位期間 都城 姓・諱 諡号 廟号 生年 没年 父 母 皇后 陵墓 年号
隋
581年3月4日 - 604年8月13日
大興城(長安)
楊堅
文皇帝
高祖
541年7月21日
604年8月13日
楊忠
呂氏
独孤皇后
太陵
開皇 : 581年 - 600年
仁寿 : 601年 - 604年
隋 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/隋 - キャッシュ
隋(呉音:ずい、漢音:すい、拼音:Suí 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝 時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した 。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配す...
歴史-出自-隋の建国まで-南北統一
隋とは-辞書(コトバンク)
中国,古代の王朝 (581~618) 。本来は「随」であったが,宋代以降「隋」の字が用いられる。漢帝国の崩壊後約 400年続いた分裂を克服して再び中国に統一をもたらし,唐朝の前駆となった。-ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本で王族語って作り出したの、中国大陸で王族持ってた連中の血筋だよ。だから日本人は下に見られていたんだ。長い事。
ところがどっこい、そんな破産王朝の血筋は後からどんどか流れてきて住み着いた人達で日本に定住してた人達の文明を横取りして支配しようと
脅して住み着いたのが実態なんだよなぁ・・・。
片っぽで武力で脅し、片っぽでカルトまがいの宮司みたいなもんが「神を信じよ」とか語って、地域住民を脳内ごと食い尽くして生きてたんだよ。
それが殷。洗脳されれば、あとは使われるのみ。
ほんで大昔の宮司たちはキチガイ文明持ってきたんだよ。今の宮司たちは一部知ってるだろ。
御子として若い女を行事に出して町ごとで村ごとで、男衆のガス抜きさせてたんだよ。
イケニエ文化が殷の特徴だからな。すべてに精通する。
ところがあたしはそういうの嫌いなんだ。
別な言い方すれば、集団強姦だから。
それを宮司が神事だと言えば、飢えた男は外に漏らさないよ。それが宮司たちのやってきた事。お~きめぇ~
うちの先祖は宮司もやってた時期あっけど、そんな事やらんよ。
だからカルトまがいなのがとにかく嫌い。
朝鮮人で一部は祖先に高麗の優秀人がいるってなってるのかもしんないが、ほとんどは馬韓や秦韓に食われた血でほとんど日本人に近い人いないだろ。
百済の王朝の血筋だって言われてる横田さきえさんもア-メンクラブだしな。
そんな血の保存にたくさん繁殖して、王族だからって国費を必要として、そのおかげで武将たちが戦に出されて戦争し、宮司が献金待ってるんだから
そんなもんが日本の文明の代表だなんて、よく恥ずかしくなく言えるなぁと思ってるけど。
高句麗
建国神話[編集]
詳細は「東明聖王#建国神話」を参照
『魏書』と『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年に夫余の王族である朱蒙(チュモン)により建てられたという。朱蒙の母は東扶余王の金蛙と出会った際に、黄河の神の娘を自称し遊びに出た先で天の子と出会い軟禁されていたと訴えたが、信用されず東扶余王の元に連れて行かれた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。金蛙は卵を動物に食べさせたり踏ませたりしようとしたが動物や鳥は卵を守ったため卵を母親へ返し、暖めていると朱蒙が産まれた。朱蒙は子供の頃から非常に弓が上手く(朱蒙は弓の名手の意味)、これを危険視した夫余の人々は朱蒙を殺すよう勧めるが王は拒んだ。その後、馬飼いをしていたが策略によって王を駄馬に乗せ自らは駿馬を手に入れると、夫余の人々は再び朱蒙の殺害を企てるが、危険を察知した母の助言により友と共に脱出して卒本へ至り高句麗を建てたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97