アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

新羅と高句麗、那羅(隋)時代の時代背景

2016-03-26 23:18:51 | 日記

これ高句麗の一部は新羅になって一部は日本に渡り一部は百済や扶余へ、あとは秦へ流れている。

あと大変申し訳ないんだけどこの扶余とかよりも夏代のほうが古いの。

だって三国志記や魏書で建国書かれてるんでしょ??

日本に来てた日本海側の南部は夏代入口にもなってただろうけど楚が入ってるんだよ。

奈良方面に奈良作った那羅で540年代だよ。隋で溜まったのが奈良。

ほんで隋の連中と騙された毛野と安倍が百済難民を助けたいって「白江村の戦い」に船出してるようだけどさ。

難民大国を関西で作ってたんだよ。それがその土地では自称「都」ってわけ。それが百済の難民・中大兄たちと共謀し、日本史を拡散させたわけ。

公家の前身・王族というか豪族みたいなもんが、王様語って全国に拡散したのさ。すごいマスコミ力だな。大昔は情報通信手段が乏しいのに。。。

それに協力したのが出雲と伊勢。だから古い時代の文書に出雲だの伊勢だのと出てくる。





那羅イコ-ル奈良

そうか

奈良時代・奈良県とはこの人から名前をとったんだな。

楊 堅(よう けん、541年7月21日 - 604年8月13日)は、中国の隋の初代皇帝(在位:581年3月4日 - 604年8月13日)。小名は那羅延。諡は文帝、廟号は高祖。第2代皇帝煬帝の父。

そうすると時代は隋じゃないか。


王朝 在位期間 都城 姓・諱 諡号 廟号 生年 没年 父 母 皇后 陵墓 年号

581年3月4日 - 604年8月13日
大興城(長安)
楊堅
文皇帝
高祖
541年7月21日
604年8月13日
楊忠
呂氏
独孤皇后
太陵
開皇 : 581年 - 600年
仁寿 : 601年 - 604年



隋 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/隋 - キャッシュ
隋(呉音:ずい、漢音:すい、拼音:Suí 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝 時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した 。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配す...
歴史-出自-隋の建国まで-南北統一


隋とは-辞書(コトバンク)
中国,古代の王朝 (581~618) 。本来は「随」であったが,宋代以降「隋」の字が用いられる。漢帝国の崩壊後約 400年続いた分裂を克服して再び中国に統一をもたらし,唐朝の前駆となった。-ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

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日本で王族語って作り出したの、中国大陸で王族持ってた連中の血筋だよ。だから日本人は下に見られていたんだ。長い事。

ところがどっこい、そんな破産王朝の血筋は後からどんどか流れてきて住み着いた人達で日本に定住してた人達の文明を横取りして支配しようと

脅して住み着いたのが実態なんだよなぁ・・・。

片っぽで武力で脅し、片っぽでカルトまがいの宮司みたいなもんが「神を信じよ」とか語って、地域住民を脳内ごと食い尽くして生きてたんだよ。

それが殷。洗脳されれば、あとは使われるのみ。

ほんで大昔の宮司たちはキチガイ文明持ってきたんだよ。今の宮司たちは一部知ってるだろ。

御子として若い女を行事に出して町ごとで村ごとで、男衆のガス抜きさせてたんだよ。

イケニエ文化が殷の特徴だからな。すべてに精通する。

ところがあたしはそういうの嫌いなんだ。

別な言い方すれば、集団強姦だから。

それを宮司が神事だと言えば、飢えた男は外に漏らさないよ。それが宮司たちのやってきた事。お~きめぇ~

うちの先祖は宮司もやってた時期あっけど、そんな事やらんよ。

だからカルトまがいなのがとにかく嫌い。

朝鮮人で一部は祖先に高麗の優秀人がいるってなってるのかもしんないが、ほとんどは馬韓や秦韓に食われた血でほとんど日本人に近い人いないだろ。

百済の王朝の血筋だって言われてる横田さきえさんもア-メンクラブだしな。

そんな血の保存にたくさん繁殖して、王族だからって国費を必要として、そのおかげで武将たちが戦に出されて戦争し、宮司が献金待ってるんだから

そんなもんが日本の文明の代表だなんて、よく恥ずかしくなく言えるなぁと思ってるけど。



高句麗

建国神話[編集]

詳細は「東明聖王#建国神話」を参照

『魏書』と『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年に夫余の王族である朱蒙(チュモン)により建てられたという。朱蒙の母は東扶余王の金蛙と出会った際に、黄河の神の娘を自称し遊びに出た先で天の子と出会い軟禁されていたと訴えたが、信用されず東扶余王の元に連れて行かれた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。金蛙は卵を動物に食べさせたり踏ませたりしようとしたが動物や鳥は卵を守ったため卵を母親へ返し、暖めていると朱蒙が産まれた。朱蒙は子供の頃から非常に弓が上手く(朱蒙は弓の名手の意味)、これを危険視した夫余の人々は朱蒙を殺すよう勧めるが王は拒んだ。その後、馬飼いをしていたが策略によって王を駄馬に乗せ自らは駿馬を手に入れると、夫余の人々は再び朱蒙の殺害を企てるが、危険を察知した母の助言により友と共に脱出して卒本へ至り高句麗を建てたという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97


崇神天皇 第10代天皇とされてる記録は 出雲から出されている

2016-03-26 23:10:19 | 皇室問題
崇神天皇 第10代天皇とされてる記録は 出雲から出されている



2016/1/29(金) 午後 10:41

あと崇神天皇っつーのは出雲の天孫族の話から出てると思うよ。

出雲の連中は天皇は同じ血筋で長らくきているとウソ拡散していたが

あの連中は捏造犯罪者だから。もちろん久子の娘も捏造犯罪者。

そう 最近わかったウソホラの天孫族はユダヤ信仰

出雲が出した記録を のちに中大兄が編集したんだろ。

朝鮮半島の偉人を日本の天皇に立てようなんてするから 災い起きてきたんだ。

出雲は義親に切りかかられたというのは被害者的立場で記録出したんだろうがしからば義親の立場は?? 何もなくて斬りかかるわけがなかろうって。

被害者産業の出発点にも見えるわ 出雲は。

崇神天皇というはシャーマン系で作物やってないな。この人は半島人。

あとやたら、伊勢と出雲が出てくる。これはこの人は朝鮮半島だ。

伽耶と任那 あと百済

実在してたでしょ。この経歴は。そんかわり、軍隊思考とカルト思考。

つまり殷系。つまり韓国系。




崇神天皇(すじんてんのう/すうじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)であり、現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。


略歴[編集]

年代は『日本書紀』の編年に従って便宜を図った。

開化天皇10年に産まれ、28年1月5日に立太子、60年4月9日の開化天皇崩御に伴い翌年即位。

崇神天皇3年9月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。

崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。

崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。

天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動したが、垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢)倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬[注釈 1]に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。

崇神天皇7年2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。

祟神天皇7年8月7日、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。

崇神天皇10年9月、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。

崇神天皇11年4月、四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上した。

崇神天皇12年9月、戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と褒め称えられる。

崇神天皇48年1月、豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて熟慮決断した。4月、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。

崇神天皇60年7月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。

崇神天皇65年7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。

崇神天皇68年12月、120歳で崩御(『古事記』は、戊寅年12月崩御、168歳とする)。

『古事記』には、天下を統一して、平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。また、依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などの池溝を開いて、大いに農業の便を図ったと伝えられる。




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87


仁徳天皇ってこの人・・・たぶん魏。いやつまり八幡サイド。

2016-03-26 21:22:34 | 皇室問題




仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。

名は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝(『日本書紀』)・難波天皇(『万葉集』)。



概説[編集]

応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。

人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し[1]、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

ただ一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。また逆に、『播磨国風土記』においては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を一人に合成したとする見方もある。[要出典]

日本書紀の仁徳の条の冒頭では、五百城入彦皇子(成務天皇の弟)の孫となっているが、この記載は古事記応神の条の冒頭にある記事と矛盾する。すなわち、大雀の母中日売の父が、五百木入日子の子品它真若となっていることである(この場合、大雀は五百木入日子の曾孫となる)。古事記と日本書紀の系図どちらが正しいかは不明である。[要出典]

なお、『宋書』倭国伝に記される「倭の五王」中の讃(さん)または珍(ちん)に比定する説があるが、確定していない。[要出典]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

雄略天皇ってたぶん熊

2016-03-26 21:11:09 | 皇室問題



雄略天皇ってたぶん熊

つまり楚

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも。

また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。

『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。

具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進め、さらに雄略天皇の死後には星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧して、ヤマト王権の優位を決定的にした。 『日本書紀』には他に、播磨の文石小麻呂や伊勢の朝日郎を討伐した記事がある。

対外的には、雄略天皇8年2月に日本府軍が高句麗を破り9年5月には新羅に攻め込んだが、将軍の紀小弓が戦死してしまい敗走したと言う(雄略天皇8年を機械的に西暦に換算すると464年となるが、『三国史記』新羅本紀によれば倭人が462年(慈悲麻立干5年)5月に新羅の活開城を攻め落とし、463年(慈悲麻立干6年)2月にも侵入したが、最終的に新羅が打ち破ったと記載されている[1])。

20年に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年、雄略大王は任那から久麻那利の地を百済に与えて復興させたという(雄略天皇20年を機械的に西暦に換算すると476年となるが、『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年(高句麗長壽王63年・百済蓋鹵王21年)9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、同年熊津に遷都している[2])。

この他、呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励したことも知られる。479年4月、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。

雄略22年1月1日、白髪皇子(後の清寧天皇)を皇太子とし、翌23年8月、大王は病気のため崩御した。雄略天皇23年を機械的に西暦に換算すると479年となる。しかし梁書によると、梁の武帝は502年、雄略天皇に比定される倭王武を征東将軍に進号している。この解釈としては、実際の雄略天皇の没年は記紀による年代よりも後であったとする見解と、雄略帝=倭王武の比定が誤っているとする見解がある。

雄略天皇の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女が仁賢天皇の皇后となり、その娘の手白香皇女が継体天皇の皇后となり欽明天皇を産んでいることから、雄略天皇の血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いている。

即位後も人を処刑することが多かったため、後に大悪天皇と誹謗される原因となっているが、大悪天皇の記述は武烈天皇にも見られることから、両者は同一人物ではないかとの説もある。『日本書紀』には、次のようなエピソードがある。



天皇は狩に出かけた際、猪を射殺せない気弱な舎人を殺そうとするが、「陛下、今猪を食したいからといって舎人を斬られますのは、豺狼と何も違いません」と、皇后にいさめられた。

豺狼を残忍な例えとするのは『後漢書』などに書かれており、話自体が後世の創作とも考えられるが、雄略天皇の性格を表した一節といえる。

さらに、前述の草香幡梭姫皇女を始めとして、雄略天皇の皇后、妃は実家が誅された後に決められたものが多い。王権の強化のため、有力皇族や豪族を征伐したのち、その残党を納得させてヤマト王権に統合するために妃を取るということであろう。兄である安康天皇のやり方を見習っただけではなく、雄略天皇の治世では、皇族だけでなく有力豪族にも拡大適用してヤマト王権の強化を強行し、征伐された皇族・豪族からの恨みを買って雄略天皇暴君の記述が残されていると思われる。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E7%95%A5%E5%A4%A9%E7%9A%87