https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%87%E3%83%8E%E6%B5%A6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
これで配置図を見て、滅亡とされた結果を平家と源義仲と見た場合に
こんな謀られた戦は実に馬鹿くさいと断言しよう。
一抜けした頼朝と桓武平氏が組んでたわけだから。
ここまでの間合いの近さになれば、一瞬触発になる。
そこまで引き寄せての、一抜けした頼朝と桓武平氏が あたしの血の仇なのは決定してんだ。
安徳天皇ってまだ子供なのにな。かわいそーに。
定義で坊主が拝んでるから。
安徳天皇の仕分けでは百済になってしまうけど、百済の都合によって殺害されそうになった。
それが安徳天皇。百済で安徳天皇邪魔だったんだろうな。
んじゃあたしの思考的には。安徳天皇に恨みはねぇーよ。
桓武平氏が台頭するために邪魔だったから消された これは完璧な謀の作戦ですよ。
そんな安徳天皇は、源義仲と一緒に沈めたかった 消したい存在だったんだな。
南無南無
こういうが実際に起きてるんだから出雲も伊勢も許さないって言ってるんだ。
あと天台宗も真言宗も。
あと頼朝が使った浄土宗
あと当時の朝廷が一揆を起こさせた犯人 一向宗 浄土真宗
どれもこれもカルトじゃねーか!
ほんとクソすぎて言葉になんねぇー
カルトと戦争してるって言うのに、カルトにハメられて兵隊まで失うってか??
この壇ノ浦の戦いがとどめで、ペルシア系平家と八幡軍勢 潰されてしまったわけだよ。
痛くもかゆくもないのは、当時の朝廷。
あと、それを利用した頼朝を動かした百済と、桓武平氏(百済)
いかに新羅が百済と繋がったら 嫌気がさすか わかるだろうが。
あとこの源義仲が現役で天台宗の寺を焼き討ちしてんのは、このせい。
カルト大嫌いだから。
人食いカルトがシャーマン工作員で各地に渡り 住み着いて住民をそそのかす。
そんで一揆も起こす。
祟り起こしてるのは当時の朝廷なのに、なんの価値もない百済移民の血を守ろうとしてる
カルトサイコパスに利用されて、日本人をどんどん失っていく。
人食い祈祷師だ。今 あたしがはっきり教えてやる。
人食いの祈祷師 あるいは自称預言者 あるいは自称神の子
こういう連中が金を貢がせるために、たくさん工作しかけてきた事だ。
こんな事情だったのを知らんで、あたしの敵側につくのは、カルトサイコパスをかばってる
ことになるから、さっさとそのサイコパスに食われて死ねって言ってるんだ。
食われるの 身売りしたヤツは。さっさと死ねばいいのに、長らくサイコパスに利用されて
さんざん足引っ張りをするんだ。んだからさっさと死ねって言ってるんだ。
身売りした段階で もう 結果は出てんだ。そこで助けてって言われても、手遅れなんだ。
馬鹿としか言いようがない頼朝。うちらの兵隊をみんな潰して、潰しに働いた義経を使い捨て
最後は追い詰められて北条にすっかり持っていかれる。その北条が百済だって。
頼朝は百済に身売りして、とことん使われて後根絶やしにされたんだ。
人食いに身売りしたヤツは、とことん有利なわけだ。一抜けたぁ~って情報源はつかんで
逃げていくんだから。安徳天皇の仇だぞ 頼朝は。その頼朝の家臣のように取り付いたのが
島津一家よ。アキヒトたちの一族の祖だ。何から何まで百済なんだよ 今の天皇家って。
しかし、大衆に刷り込みしただけの大間違い。正統は三韓征伐の血で合ってるわけ。
んだから、その正統の血をさんざん潰してきた連中は、あたしは許さないからって言ってる
わけ。何千年も人食いと戦争してるって言ってるのはそういうわけ。
あとあたしは八幡 相手は百済
今 新羅が新羅として百済だの高麗だのって出てくるとややこしい事になるからって
提示してんだ。
一部の新羅は倭になっても、一部は新羅から秦韓へ 馬韓へ ほんで百済になってるの
だから。
源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。
河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。
伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。
弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。
建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。
これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。
頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
高徳院
高徳院は、神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院。本尊は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる阿弥陀如来像。山号は大異山。詳しくは大異山高徳院清浄泉寺という。開基と開山はともに不詳である。Wikipedia
これ 韓国の歴史研究家に言わせると「百済仏」なんだそうだ。
あたしもただ 色々調べてるわけじゃないから。
なんで百済仏なのか。百済仏ならば百済で引き取ってくれと書いた事もある。
そんだけ百済アレルギー起こしてんだ。
百済仏だと調べだした途端に ウィキが変わっていく・・・
高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷(はせ)にある浄土宗の寺院。本尊は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる阿弥陀如来像(国宝)。山号は大異山。詳しくは大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)という。開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳である。
歴史[編集]
高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間(1711年 - 1716年)に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである。
『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の寛元元年(1243年)に開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、仁治3年(1242年)、完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。
一方、『吾妻鏡』には、建長4年(1252年)から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である。
なお、前述の1243年に開眼供養された木造の大仏と、1252年から造り始められた銅造の大仏との関係については、木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説とがあったが、後者の説が定説となっている[1]。
『吾妻鏡』によると、大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BE%B3%E9%99%A2