2013?年あたりから2015年までの間に
自分は郡山の多田野まで調べに行ってる
多田野神社は1回 他所見て回るのに数度郡山まで行ってる
まあまあ遠い
ちょうど鹿島の「杉の阿弥陀堂」に設置してある阿弥陀が気になって
タダノ城を出そうと思ってたとこだった
結論言うと お前んちは多田満仲の子孫 タダノシンパチの子孫だって
洗脳されてた結果 その当時誰かが書いた系図もこっちにあんの
証拠として出せるけど
実際そのタダノシンパチはメトロパチンコ屋なの
まったく違うの
んで多田満仲の子に吉左衛門がいるような本まで発行されて売られてたの
でもその本って あたしんちの話を混ぜこぜにしてある他人どもの売名本なの
そういう流れで苦労してきてる
そしたら杉の阿弥陀堂の阿弥陀が 多田満仲の息女の守り仏って書かれてるじゃないか
最近発見してんだ
それをまた出そうと思ってたついで 霊山記略のタダノ城についても
出そうと思って
その場所は城なんかないんだ
調べだした当時はタダノ城の跡形もなかった
2018年あたりに タダノ城について記事書いてる人がいたのを今日発見し
位置も含め出す
その人のブログ内容だと本宮から来た只野(多田野)氏で只野十郎が移ってきたと書かれてる
たぶん、この名前だと後から入った人だと思われるが 只野十郎 只野一郎
繋がっていても不思議はない
多田野地区の爺婆でこの阿弥陀に見覚えある人はいないか?
あるいは聞いた事があるという爺婆はいないか
黒塗りされてるのは何か証拠隠滅性もうかがえる
地域に返すというのは 満仲の息女の血統の人を差し置いて失礼になると
思うが 満仲の息女の子孫なんですなんてたくさん出てきても
そうなり得るぐらい 古い時代の人だ
あと これから「斎藤」の名前もバンバン出る
青田は当然
この人達
社会党が支援母体だった今野繁の周辺メンバー
只野一郎の家が自民党支部みたいになってたようだが 上が一緒だから
斎藤邦吉だけでなく 斎藤勝雄 斎藤勝利も出る
二宮尊徳使って 幕末あたりに相馬史作ってたって?
一人は斎藤の名でなく富田姓で
奥相秘鑑の原本
https://www.city.soma.fukushima.jp › rekishi_shiryou『奥相秘鑑』は1731(享保16)年、藩主相馬尊胤の命により、藩の学者富田高詮(とみたたかあき)が著したもので、10巻から成っています。また、この本は、富田高詮の ...
C20-47nyo 新編 奥相秘鑑/森鎮雄 平成4年 相馬藩 相馬氏
aucview.comhttps://aucview.com › ... › 人文、社会 › 歴史 › 日本史『C20-47nyo 新編 奥相秘鑑/森鎮雄 平成4年 相馬藩 相馬氏』はヤフオク!で308(100%)の評価を持つWS-azuyuGHqhから出品され、1の入札を集めて7月 26日 16時 24分に ...
自分思い出した 今野繫時代 800万以上もの損失を相馬市役所から
押し付けられてたって事を
2兆の金を天皇家という組織が払わないのは こういう畜生達へ支援に金を
まわしてるからだ
但野正の子孫 但野が多田野へ養子に入って分家作った?
そんなの関係なんだわ
だからこの連中は一人筆頭に但野但野ってウジャウジャいて
一部は只野に養子よって只野只野って
それと別に唯野新八は多田満仲の子孫だ お前んちは唯野だって
メトロパチンコ方面がウジャウジャといるんだろうが
全部切腹してくれ
シベリアで強制労働させられてた人達じゃないだろ?
シベリアで強制労働させられたって人達は ロシアでなくその傘下でやってた
人間たちをなぜ恨まない?
どうもシベリアは俺達のエリアだって言ってる層がロシアを仇と位置づけ
自分らの矛先をロシアに向けてるように見える
刺身は日本伝統って流布されてるが ロシアのシベリア方面じゃ古くから
魚の冷凍方法を確立しててそこから魚をおろす 刺身風にして食してた
雰囲気あるが 本当に刺身は日本伝統と言えるのだろうか
そして郡山と仙台には朝鮮総督府の出先があるように思うんだが
それは諏訪の件でも明らか
静御前(しずかごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性白拍子。母は白拍子の磯禅師。
源義経の妾。
静は義経の子を妊娠していて、頼朝は「女子なら助けるが、男子なら殺すように」と命じる[注 3]。閏7月29日、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。
9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は不明。
静御前伝説[編集]
美女池は静御前伝説の残るところである。源義経の奥州下りの跡を慕い、従者小六、乳母のさいはらとともにこの地までやって来た静御前が、小六の死と平泉までのあまりに遠い道のりへの落胆から、乳母のさいはらと共にこの池に身を投じたとされている。
北畠顕家の子顕成は多田野という苗字を使った
これは多田野美濃守源辰から出てる話 さらに多田野を継いだと言われてたようだが、こういう条件つけてたからこそ 本当を話したと思う
こういう層は自分らのメリット掴んだ状態で 本当を一部話するようだから
だからこそ多田満仲の息女の守り仏が鹿島に流れてる
郡山は鹿島部落なんぞ 知らんわ!!と言えない理由
そして郡山をかませる理由
その土地かませないと 本当が見えない 情報遮断と洗脳は長い間行われてる
顕成が多田野と交わう理由としたら
1,霊山落城の際 松代をかばって同行したメンバーに多田野がいた
2,顕成が多田野という苗字を使って顕家の子だとバレないようにカモフラ
した
3,江戸初期ー中期にうちへキフウが入った
(このキフウは多田満仲の子ではないと、あたしが言ってる)
では多田野村と書いてしまうが、そこの神社で鎌倉五郎に合わせてきたのは
いつからなのか
確かに逢瀬町へ行く途中 伊豆神社みたいな所があった
でもそれは多田野村から離れてた
頼朝の名前言い出すとしたら、そこしかないと思ってる
その当時さらっと見渡した感じ そこは鎌倉くさいと思ったけど
多田野村方面から町へ移動すると静御前風な感じはあった
頼朝より義経みたいな
ただ 美女池に入水自殺したのは静御前か美女丸か 定かじゃない
ただ その美女池には立ち寄ってる
鹿島にある黒塗り阿弥陀が美女姫のものと書かれた文献がある以上
死亡した美女の遺族か側近が持ち込みしたと考えられるから
美女池からの阿弥陀仏流れはなんとなく辻褄があう
一瞬 旧猪苗代湖の時代にそっちでやったものを 美女池方面でパクったか?
と思ったりもしたが、なんせ猪苗代湖か美女池で死んでるのは間違いないと
思う。
何なら美女姫か静御前は猪苗代周辺に滞在してた
その時代か 多田野庄とされてたなら うちで見てた可能性だってある
だから北畠顕成は多田野吉左衛門って名前使ってただけだと
言ってるじゃないか
そこをみてた時期にそこのエリアで遭遇する女性が日野の娘だったと
それで日野と結婚したと言うなら 結婚したのは顕成か その子供になるが
そしてその頃にそのエリアへ熊野権現にまつわる何かが残されたりしたなら
それも雰囲気的にはあう
でも顕家の守護仏って熊野権現と阿弥陀 他2体だからな?
桑折サイドで中館に山王大権現安置した みたいな話は嘘
だって松代が生きてるんだから
松代が持ってる計算なのを どうやって桑折が安置したと?
しかも、桑折町から鹿島の中館へ運んだような話にされてる
佐須を通って真野に落ち延びたって只野一郎の家で言ってるのに
只野一郎の家では嘘と本当を混ぜて喋ってくる
だからその中から本当を選ばないといけない
さらに桑折が山王大権現を安置したと板に墨で書いて置かれてる仏は
熊野権現 これがあたしの騒いでる安倉観音堂
桑折だけで2つここで嘘がある
そういう嘘が盛り込まれているのが「霊山記略」
最近まで「霊山略記」と思ってた
んで唐突に出すと鎌倉幕府 室町幕府という時代についてのワード
これ実は人名
鎌倉の子孫にあたるんだろうか 宮内庁勤めだった「鎌倉節」という人物がいる
室町というワード 今ぱっと出ないが官僚か議員に室町という苗字がいた
その時にこのカラクリをわかった
猪苗代の付近 異常に神社が多い
昔からなのか 明治前後からなのか
まさかだけど ここが多田野城だったんじゃないだろうな?
多田野館は郡山 安積向けの出先で
相模のうんたら 鎌倉と一緒だ
鎌倉都合
どう見たって公家色出てるのに幕府の栄華衰退に巻き込まれたのなんて
室町以降からだろう
ちなみに伊達側の主張でも幾分 嘘を発見してる
当然 蘆名も一緒だ
この人 公卿守ってたんじゃないのかな
頼朝嫌い 会津嫌い いい性格だ
佐原 義連(さわら よしつら[1])は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
治承・寿永の乱では一ノ谷の戦いで源義経率いる搦手軍に属し、「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け下りた武勇が『平家物語』に描かれている。1672年に刊行された『会津旧事雑考』によれば、義連は文治5年(1189年)7月の奥州合戦に従軍し、その功により、陸奥国会津四郡(会津・大沼・河沼・耶麻[7])を与えられたとしている。
文治5年(1189年)の北条時房の元服の際、頼朝の命により烏帽子親となる。
猪苗代城(いなわしろじょう)は福島県耶麻郡猪苗代町にある日本の城。別名、亀ヶ城。福島県指定史跡[1]。
ちなみに会津盆地を治めていた蘆名氏も佐原義連の血統で、猪苗代氏とは同族である。猪苗代氏は本家・蘆名氏に対しては、反逆と従属を何度も繰り返し、最終的には、天正17年(1589年)の摺上原の戦いの直前に、当時の当主・猪苗代盛国が伊達政宗に内応し、蘆名氏を滅亡に追い込むこととなった。豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達氏が会津を離れると、盛国も猪苗代を離れ、約400年にも及ぶ猪苗代氏の支配が終焉した。
👈猪苗代を離れる覚悟で伊達に頼んだようだ
慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際、母成峠の戦いで西軍(薩摩藩・長州藩など)が東軍(会津藩・新撰組など)を破って、会津領へ侵入すると、当時の城代・高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退し、建物は全て失われ、ここに猪苗代城の城としての役割は終わった。
👈なぜそこについてくる薩長大江 うちに関係してそうなとこばっかり
伊達とか出てくる
これ あたしの遠戚だって自負持ってる人達
どれだけ迷惑かけてんだ 憎たらしい
盗んできたものはこっちが持ち主のように見せかけしてたんじゃないのか?
その仏像
あたしんちが多田満仲の子孫だって流布される事で
盗んできた阿弥陀をあたしんちの所有物かのように エリア一体で思わせて
こっちは そんな物知らない!!!って事すら言えないようにされ。。
※だってそいつらしか知らないんだぜ?鹿島のその界隈しか
それで 「あそこの家が多田満仲のだから」とか影で言って
鹿島に置く理由にしてたんじゃないのか? あたしんち利用して
うちに阿弥陀2つ置くわけないでしょ
古い物は念や不浄仏が伴う 2つがどういう障り起こすかわからないだろ
2つ持ってる訳がない
さらにうちに熊野権現があった最後は 鹿島大火起きた江戸末期頃だ
顕家の幟旗もあった
火事語って火事場泥棒をした相馬藩
幟旗はたぶん 本当に焼失したんだろうかと思ってるが
これ1つだけでも 但野呪わしい
海老原 あとどこ?
もっと昔は桑折も? そんなの知ったことか
インチキデタラメのオンパレード
どれもこれも 己らが手前でむかついて 遠くに依頼してみんなすり替えした
それをこの国は待遇つけてきた
本当の高松が真野だった場合 今の高松宮とかは死んだ存在使って浮上した
、そのエリアごとに立ててきた存在だ
さらに日露戦争を理由に猪苗代へロックフェラー財団が金を出してる
猪苗代より多田野村のほうなんだが 猪苗代に公卿生存してた香りがする
ところがこの国の公卿として出てるのは三韓たちだ
あたし金なくて 本当迷惑なんだがさっさと支払いしてもらわないと困る
アキヒトら周辺の人身御供精神が
面倒みてあげましょう みたいな上っ面偽善で盗聴盗撮を当たり前だと思ってる
これがこの国の畜生人間たちのやってる事だ