あたしは根に持つと徹底的にやるほうだ。
日蓮の名の下 大規模になって派閥あちこちあるようだが、その中に白装束隊も
別所で出てくる。
パナウェーブ研究所もスタンバイしてるが 覚悟はいいんだよな?
昔 テレビで有名になったキチガイ白装束隊がみんな死んだのか?
死ぬわけがない。
年寄りたちは 小娘程度に思ってんだろうが、天皇って役職はそこが思ってるより、はるかにすごいんだが
さんざん過去ブログ見てたらヤバいのわかるだろう
あたしの実物見て そう思えないんだよ 大半が。
そして、あたしの言ってる事わかる連中は そこが思うよりはるかに頭がいい
一部は刑務所あがりもいるだろう
ああいうのは刑務所の中でひたすら勉強してる
そういうのは、さらにすごい
日蓮だと言うからずっとあんなものかなと思ってたけど やっぱ自分の感覚では違う気がしたから調べた。
その結果 福島の一円寺は日蓮本宗と出てきた。
ウィキによれば、今の日蓮宗は山梨南臣摩郡身延町の久遠寺が総本山に
されてる(南部都合/開基が南部実長とされてるがこれは今の組織会都合)
富士大石寺を中心とする日蓮正宗・創価学会や顕正会は全く別の系統とある。
つまり南部は岩手・青森をまたぐ南部は戸籍泥棒だけでなく宗教も破綻させて
乗っ取りしてるという事だ うちにしたら。
坊さん社会では知り得る事ができない情報だ 全国一斉に関心がある。
その手前で 福島がどういう事をやってきたのか出すんだ。
日蓮のこわい人達が本気を出す。
南部が戸籍泥棒に関与してるのはこの事から全体像が見えてくるから。
あたしはいつだったか 何で山梨なんだ?と書いてただろう?
ほんと その通り
今調べたら、山梨開基が南部実長とされてるがこれは昔作ったんだ
そして嘘ではないんだろう 読めばただ門下だったからとされてる
つまり弟子をかたり 山梨で開業した。こういう話だ。
南部伯爵という存在あるだろう?この立場を使いだす前に南部は浪岡御所という運営にも関係し、顕家の第三子をかたり青森で領主から藩主になったのは
顕家の子だというのがそこの流布。流布メンバーは他にもいるが。
この南部は南部伯爵という地位で靖国神社にも関係してる。
この南部は霊山記略において、顕家の傘下として入ってた。
つまり相当前からうちに関与してた。
南部、結城、伊達、あともう1つ。
これが小高の廣橋経泰と日野との接点で廣橋経泰は久慈で戦記録を出してたようだが、これは南部との貸し借りで作った捏造だ。
その記録をいつ作ったか 吉良が飯野 小高 相馬をまわったというあのタイミング以降だ。顕家死んで、顕信が戦やってた頃か顕信が死んだ後。
顕信らは九州で死んでる、何人もだ。
顕家が京都にいる頃 顕家の取り巻きは今の天台宗ではない。
当然顕家が東北に来た時だって天台宗の東北本部を作ろうとしてたというのも
、中身は今の天台宗ではないから。
後醍醐天皇が戦の合間に護摩焚きしてたなら 中身は不動明王や藍染明王
をベースの日蓮寄り祈祷で、山王権現は後醍醐天皇の傍にはなかった。
山王権現と熊野権現は顕家の守護仏として渡されたものだ。
後醍醐天皇は藍染明王の仏を持ち歩きしてた。でもそれは島流しされて
脱出する時、命の恩人と思った相手に御礼と報酬の意味であげてしまった物。
そして顕家が東北にいる間、まわりにいたのは武将だけではない。
修験者もいた。だから山岳への道開きと道先案内人による助っ人が動いた。
それも文献では出てこない、名もない人が浮かばれないまま今日に至るが
よくよく考えたらそういう人はいた。
日蓮寄りだったから今の宗教団体と違うもの。
立子山の説法石はとても大きい、輝宗の墓石より大きい。
これ 大石をそこから切り出して運び、そこに置いてる。
その立子山の地でどれだけその地域へ恩恵与えたのか
それだけでなく 大石寺の元となる場所がそこだ。
大きい石 説法石 これが元で日蓮の中で大きい石の存在と名が
大石とされた。
顕家の息子 顕成が玉野式部だ。
移動範囲は京都 福島県が主体だろう。
その息子が長慶天皇だ。
顕成が説法石の主役だ。
顕成が日蓮の弟子というより 布教主と言っても過言ではない。
700年の歴史ある寺だと嘘をついてまったくわからない人達
なのに違う話を流布しうちに代々言いがかりをつけ 他所をゴチャゴチャにした。そこ日蓮なんだろ? 日蓮の坊さん何万人いる?
そのうちの1人が何万人も騙せてたわけだ。
千葉では営業特権を主張したいから日蓮は千葉生まれと主張する
鎌倉時代の人だからと言えば 鎌倉の名に包まれて鎌倉一族がそこに混ざる。
山梨南部テリトリーで山梨が本山だと言い張るから山梨が出てくる。
日蓮正宗と日蓮本宗から京都と静岡が出てくる。
これは今の上級国民の元になってる1つ。
その当時の天台宗は確立されていない。
その名だけ有名になって その中身は南北朝天皇の戦のかなり後だ。
そして当時 不動明王も使ってた。
坊さん達より命がけだからその時代の戦は。
なので1つだけ掴んでたわけじゃない。
立子山の大きい石 伊達輝宗より大きい理由は説法台として大きいものが
使われた。輝宗の墓石と説法石には形も類似性がある。
これは当時切り出し運び設置をした人達が同じ連中だったという事だ。
現在の順位
14357位
糞小ばかにしたそこの一円寺のヤツ いかにうちがそこに物言える立場か
どれだけ頭から火を噴き出してるか 知るがいい
個人情報うんたら あたしに言った事
日蓮の坊主らが 怒る
知り得ない事をあたしは知ってる あたしの家が欲してた情報をそこのエリアは隠してた
坊主らが怒る
千葉で日蓮が生まれたと言っても布教の土台は一部しか出てないだろう
本人より こっちがそのベースの一部を作ったとあたしは思ってるから。
当時 相馬と殺し合いしてた顕家の息子が千葉に警戒すると思わないか?
相馬は千葉・茨城の派生だ。
千葉で昔 相馬としての身分をこっちへかぶせ日蓮の宗教の元を奪って
他所と分け合いっ子したのでは?
あたしは自分の勘から水に関する場所 不動 日蓮
よく書いてたでしょ? 勘なんだけど当たってるだろ?
あたしが顕家の末裔なんだから
だから日蓮の坊主で一部はあたしに寄ってくる
その人達も同じく勘であたしに日蓮の何かを察するわけ
不動についてもそう
ただ日蓮の組織の中 その派閥自体がある時期上級国民によって組織化され
その下でつとめてるから そこを出れない形になってる
そんで山王権現と熊野権現もあった
これは顕家が持ってたもので 顕家本人はこれを宗教化せずに
守り仏としてのポジションに置いてたから存在が薄いだけ
だから、仏はあった でもあった事しか話として残ってないね、、となる
霊山地域に仏を置いた
これ 多賀国府・霊山に移した国府へ置くものとしての役割だったら
それにちなんだ神事の伝説があって当然なの
でも神事の伝説ないでしょ? 顕家の守護仏だから大勢での神事がないの
霊山で神事にやってたのは顕家の舞 太鼓でしょ?
仏はあった でもなくなった ここのなのに!!とならない理由はコレ
霊山城にいた時 日枝神社とどこ? 山王権現と熊野権現置いてたって
場所の話
自分のテリトリーに置く神殿あれば置くでしょ
庭先が広ければ 家の中とは限らない そういう事だ。
霊山を吉良・相馬・斯波が攻めてきた
松代は子を抱き脱出した その時守護仏も一緒につかんで脱出した理由
顕家の守護仏だからだ。
もし守護仏でなかったら松代が窃盗犯になる
もしや松代を窃盗犯の目で見てた人いないだろうな?
今じゃ仏ある場所は大半が寺だ だからあたしが当初言い出してた内容が
理解できなかっただろう。でも その時代の殺し合いの中
そういう背景だとわかれば納得するだろう?これは子孫でないとわからない。
では後醍醐天皇でもなく村上の皇子でもなく なぜ顕家があの仏を持ったのか
顕家が位高かったからだ
何年も天皇という存在の血統や霊山記略の中身を調べて出している
かなりの人がわかったはずだ
第12皇子とか そういう記述あるのは我が子じゃないんだ
単に息子や娘ポジションで 子を入れた 養子を迎えた
あるいは上司の子を我が子の身分に混ぜた
あるいは配下の人間の子を我が子に足した
こういう状態が見られる
あとは、夜這い文化からひっきりなしに子供が出来てた時代性も条件に足す
そうすると顕家の父は親房ではなかった可能性もあるということ
夜這い文化を調べてたら ある情報では地域ボスが最初に女の処女を
奪って孕ませ 試し腹という文化があったと発覚した
顕家の母が位の高い人の子を身ごもって生んだ場合 親房の子とされても
父が違う場合 その環境に合わせた待遇を受ける
そこを疑ったのは 顕家がやたら幼少時からエリート教育受けてた感じ
がある為だった
これはだいぶ前に書いてる。
うちの父親はきょうだい皆 違う血統まざってたようだ
ずっと知らないできた
そういう事をアキヒト一家はやってる その前にもあの界隈はやってる
これはある特定の人達がやってきた事のようだ
福島の一円寺は京都の寺 京都・要法寺関係
京都と福島の一円寺 1つの線 そこに青森浪岡御所関係者
さらに山形と繋がる 南部を経由して
山形の山寺に清和天皇の墓を置き 松尾芭蕉と曽良の像が置かれてた
松尾芭蕉自体は、全国まわった俳句家として名が有名
ずっと徳川密偵と言われてた
これがもし 福島市から出た松尾だったなら?
松尾芭蕉の放浪費は誰が出した?
曾良という人物は松尾芭蕉の弟子だとされてた
もしこれが尊良天皇の子孫なら?
疑ったのは最近 霊山記略に尊良親王という名があった
印刷上か 字が似てる
この人たちは石巻の手前 松島まわり、富山まわりもしてる
うちにその版画が残ってる
その版画に 枳風キフウという名がない
でも流布されてる内容では弟子とされてたんだよな?
うちがそこへ金出してただろ?と言ってたんだ
だから放浪記の俳句メンバーに名がないんだ
これ疑った理由は直感で、直感が当たってるのか うちには北海道をまわった
地図がある。地図?地名書いた図面
これ うちが金出してる。戸籍泥棒達が言って作った図面だ
頼まれた事やってきました、、という雰囲気のもの
でも、頼まれたのではく うちの人間と勘違いしちゃうような物
でも名前にピンとこないからずっと疑っていた
でも大日本帝国の地券(当時この国で金なくて地券を発行し、現金化できるのは相当後になるような権利書)に書かれてる人の名も、んん(。´・ω・)?
ってなる名だ 只野由五郎ってされてる
吉左衛門はいたのに それ差し置いて由五郎って誰?
こういう事されてきたんだよ うちは
他人が あたかもうちの人間のように混ざって
お前んちは唯野だとか言われて
これ 立子山の寺で知ってるよな?
そのグループの匂いがする
立子山の方面 大昔からいる人達ではない
青田や西と同じ匂いがする
鹿島の墓地登記に 疑わしき名がある
只野重五郎
只野伝次郎
相馬藩家臣として出てくる名に只野の名がある
手代 只野甚五右衛門
手代 只野五兵衛
もしこの連中がうちの人間なら うちにこいつらの物が残ってていいはずだ
こいつらの名が出てくるようなものは請求書領収書
さらに北海道調査についての図面と封筒だ
そいつらが うちの墓石も窃盗させたり壊したりする側にいる
この菊の墓石 うちのだったんだよな?



古くは天台法華宗のオリジナルで 不動と日蓮初期あたりのものを使って
だんだん戦争で他の宗派が金や勢い増して消滅させた側にあったように思う
うちが。でも宗家として大規模にやってないから他所がわからない。
忙しいから宗教で生きてなかったんだ たぶん。
そう思えば山神の生贄伝説とか うち知らないよって言うのは辻褄あう。
山神崇拝天台宗日枝神社は、ある時期からああなってるから。
日枝神社は猿?ピンとこない でもこれに関係してるのは栃木。
消滅した原因に南部は相当関係してる。
南部と一円寺は霊山記略の分で関係してる。
山寺の松尾芭蕉と曽良の像は 福島松尾と尊良親王の子孫が組んでた事を
表しているものだと思っている。
数日前 顕信の子孫を称する血統が福島へ入ってるという文章を見つけた。
それは中野不動尊に関係し 真言宗の方面だ。
顕信の子孫が青森?山形? 忘れたが福島に移動したと見た
これが 顕家の子は天童丸だと騒ぎ 「相馬親王」という存在作った連中
相馬親王はいない
松代が霊山脱出した女で日野じゃないから
さらに子の名は顕成だ 天童丸の異名ついた? いいやこれは別人。
あたしんちは証拠隠滅され続け 何人騙され一生送って死んだか
わからない
日蓮 福島 そこ関係してるぞ 一円寺
あの近所 大河内と佐久間
松尾ではなかった
では松尾がいるのか? いた 福島市に7件ある。
枳風は松尾芭蕉の弟子でなく 使った側だ 推測出すが
徳川サイドが 松尾芭蕉を使った事にしてるだけだ 金がうちだったから
徳川が松尾を保護して見せ うちに金出させた
その後 枳風が弟子だとされたら 松尾芭蕉側が世間には偉く見える
そして尊良親王の子孫だと見た場合 曾良と言う名で芭蕉と国内探遊
俺は村上天皇の皇子の子!!と言えば 金を顕家の子に出させようとか
言い出しかねない
その根拠を示すが その子孫たちは放浪についての関連書物をどれだk
遺品として保存してる?
うちにある版画は松島と富山って2つのエリア分だ
それに加え うちには当時の世界地図もある
金は顕家に出させよう
はい村上皇子
こういうやり取りしてたなら その延長で北海道調査は起きて
うちに地名書いたものだけ残る
委託された事やってきました はいこれですって、文章を渡してお金受領
みたいな
そのイメージで言ったら うちの人間じゃないぞ そいつら
伏見と村上は血が混ざっただけでなく そういう立ち回りする側にいるんだ
親ぶった詐欺師 子供ぶった詐欺師
上から命令でカツアゲ 下から相続品よこせとマーキング
これらの関係から 上級国民層はできた
700年だの1000年だのかたる連中は信用ならないし
こういう因縁ある人側は 高慢態度でくる
そいつら的には こちらが村上天皇の子って言い分なのかもしれない
松尾芭蕉に金出してたのがうちで 徳川は松尾芭蕉を擁立したら
金出したうちが抹消され 芭蕉の弟子って立場で見下された?
曾良の像? 尊良親王の子孫の事だろう
尊良親王の子孫の側近です 松尾です松尾山です?
豊臣秀吉の家臣 福島正則から福島の字をとって福島県にしました
福島市にしましたとなれば 豊臣秀吉の覇権エリアであって
豊臣秀吉 徳川の松平藩はそこだ 福島市
まだ調べてる事たくさんあるから とりあえず今日はこれだけ
それでは
そして翌日だ 追記でいく
袋叩きのフラグだ
日蓮の坊主は南部の傘下になってた 事実上
これは岩手・青森の南部の直参となってた事を意味する
それは南部犯罪者がやってきた一部だ
坊主と言われてカチンとくるものは 犯罪者側なんだ
まず霊山記略
この原稿元は一円寺と松尾を称する連中
①法華経本門の正法を伝授す これは当時の法華経がまだ確立されてない状況での顕成が考えた独論で、今の日蓮と日蓮本人とは別のもの
そして、それを言ってるのは顕成でなく松尾であって、松尾は日蓮本宗の傘下、さらに諸国教道12ケ年間新学弘通36ケ寺とあるが、自分はその根拠が不明であって松尾サイドで言ってるならまわってないと思うから消してる
自分らがひろめた寺が36か所あったのか、仲間が36ケ寺出来たという意味なのか 原稿元の松尾側が弟子のような言い方でいる為 自分達の立場をふかす為に顕成がやったように書いたと思ってる、だからその最初が当寺だというのはここから弟子が出たというつもりだろうが、玉野式部という名もある通り
実際は筆甫寄りだったとあたしは考える
だから筆甫とそこも行き来してるし、それ以外の地域も坊主としてでなく
行き来して場所により服装や態度を変えてるだけだ
よく見て欲しい 松尾は山の一部を提供したと言ってるが、開山は日尊だと言うじゃないか んじゃなぜ日尊とならない?原稿元の都合だ
だから、ここに墓あるのはおかしい感じがしてきた、そもそも松尾が顕家に従事してたか?息子がわからない?それで霊山の家司?おかしい
ここの場所でこういう原稿使ってたせいで筆甫がここにこういうのがあると
言えないできたのでは?ほんと丸森の奥地を省いてるよな
玉野の国道沿いに顕成いられると思ってんのか?💢
②水色で囲った年齢は照合した 合ってる
つまり松尾サイドがうちの古文窃盗者とつるんでた証拠だ
どういう計算方式か書く
あたしは何度も顕成が落城前に産まれた子だと書いてた
世間が信用しないのは、インチキを作って土台にした犯罪者出世組のせい
松尾原稿「延元3年に2歳」 延元3年は1338顕成出生年1336年 合致✅
松尾土湯で遭遇「康安元年」 あたしの計算上1361年だからここで25歳✅
松尾がいう死亡日「応永5年」あたしの計算上1397年でこの時61歳✅
それ把握するのは顕成の子だ 本当だったら
何で他人が俺の事のように正確情報出せる?ということは、原稿もとで
部分、用語入れ替えがある
③立子山の七面大明神も日尊の守護なり?松尾が勝手に言ってるだけだ
七面大明神はうちには遠い 知らない 関係ない
そこに置き去りにするわけもない つまり、「彼の守仏を持っている寺」として売名されてたという事
※霊山町史にうちに関係してるものが載ってるから出しておいた
➃700年を誇ってる一円寺が嘘と工作員の場所だったのがはっきりした
二度と行かないし 日尊としては筆甫方面のほうが濃厚
ただ そこにある説法石だけは本物

霊山記略 原稿元は山形勢と福島の一部と石巻 あと一円寺
①山形楯岡城主の子孫と言ってる連中は顕成を長男だとはっきり出してるが
それ以外に顕家に2男2女がいたと書いてるがそれは捏造だ 楯岡💢
福島市の一円寺では顕家の3男と出してる これが松尾であって日蓮本宗の
一円寺だ 原稿が己ら都合の改ざんと嘘を混ぜてある悪質犯罪的しろもの
この原稿もとを作ったのは、日尊死後からだろう
700年とか 本当、嘘の因縁つけてた事がよくわかる
顕成とわかっていて、顕成の名にふれず別名を使ったやり方で、本人の情報は正確なんだ 嘘と真実を混ぜて全国に流布してた事になる
②葛西一族 日野侍従光顕 中御門中納言藤原宗明 この3名は顕信寄り
さらに護良親王の子孫をかたる楯岡一味はうちに対し 俺が村上天皇の皇子だという態度でくれば1万年でも上司ぶってくる
これが畜生達のマウントの1つの手法
日蓮の坊さんと不動の坊さんが悪霊的因縁を断ち切るべく遠隔お祓いやってる
同じ日蓮同士で 日蓮がいかに怖い事やってたか いずれわかる
一円寺にある大明神はうちのではない だから守られる事もない
やっちゃいけない事をやってた人に限って うちの物を欲するのは弾除けにする為。 それ違うから覚えとけ!こういう事あるから他所には出せない。
日蓮の坊主達は意味がわかるはずだ。

霊山町史 2ページくらいしか資料ない 捨ててしまった
これ百科事典なみの分厚い本だった わかる通り、ゴチャゴチャにされたせいでいくつもの資料を保管してた この本は光爺が買ってたようだが血が血だ わかるはずもない
霊山記略編集者と松尾は原稿受取側と原稿求めた側、、の関係性がある
霊山町史には霊山記略と同じ家司や寄合衆が載ってた
そういう部分は借りたんだろう
こんな事になるならまだ捨てずにとっておけば良かったか
ほんの一部しか関係する記事がないから そこだけとって捨てた
ここには開山日尊上人とある 霊山において開山主とは顕成1代目の事だ
日尊は玉野の人尊門流?の開祖
この台座はそちらで思ってるものより古い
現物を確認したいぐらいだ
日尊の顔は不明だから こういう感じで作られたのは参考例だろう
その日尊の下にある仏が何なのかわからないが うちにあっただろう熊野権現の顔と作りに似てる
これが何なのか調べたいが出ないだろう

とあるページに顕信の子孫だったか
護良親王の子孫が福島にいると書かれてた
ゴチャゴチャ混ぜられて生涯滅茶苦茶にされた代々のうちの人が浮かばれない
顕信方面とはご縁切りたい 八幡平にロスチャイルドを召喚させてまで
顕信方面は動いてるようだが、その方面というのは日野と南部以外に
山形・福島も遠まわしにかんでいる
石巻松島の版画 富山の版画あるが顕信と護良親王の子孫がうちに名義だけ
出させて全部乗っ取りしてる
松島は顕信のほうだろう キフウはまわったかもしれないが名も出ず
金だけ出して道楽楽しんでたのは そっちだ
顕信のとこをまわっても 顕信のとこがやったように作られてしまう
そういう事をしてるエリートが多いんだ 末端は関係ないのにな
エリートだけでなく エリート達が入れた朝鮮移民があちこちの大株になって
畜生行為を従業員使ってやらせるんだ
そのカスがこっちを監視のぞき 盗聴まがいやって畜生達と情報共有し
悪態ついてきたんだ
ゲス老害の工作員 刺し殺されず何人も分担作業やってたわけだ
その上にはアキヒト達
その中間が移民入れた人間手配師のヤクザと公務員
半々でヤクザまがいと公務員をやってんだ その連中
霊山記略
結城宗広 源頼朝時代に白河結城が相馬中村領を拜したと言う
熊野堂城は玉野地区にはない 玉野熊野堂城主
結城宗広の一族中村六郎道俊の居城?霊山記略で
捏造やった中村
伊達行朝 拠点が茨城になってる時点で架空の可能性あり
1291-1348?1336年に常陸攻めがあるが名前が
出てきていない 霊山記略P117
伊佐城戦あり、行朝確認P125
58歳で死亡とは記載ありP127
伊達宗遠 石母田、宗遠は国見
葛西清貞 南部と日野と藤原に通じ石巻と廣橋経泰に通じる
南部信良 南部の名で日蓮の本部を仕切り靖国を仕切り
顕成が顕信の子と混ぜた組織の一員
常陸介念西朝宗 梁川城主・梁川に間野地名あり 間野と真野は別
一円寺のそばに梁川姓あり
廣橋経泰 小高と天台宗の間で工作やってた工作員
懸田治郎大輔定元 藤原秀郷の後裔で白河結城の分系で高松を称す
相馬中村領白河結城がわからないが、これは高松
が断絶し誰かが乗っ取りしてるのでは?
後村上天皇(義良親王) 顕成1代目と年の差3歳
義良親王1339 顕成1336 顕成2代目が長慶天皇
義良親王側で親ぶって吸い上げてくる
後亀山天皇たぶん顕信の子 継いだと言ってタカる
後亀山天皇は長慶の弟扱いされてるのはこのせい
相馬親王という人物は架空で作られて、実際これは
顕成2代目の事 このせいで相馬藩主が天皇ぶる
長慶天皇(熙成親王) 顕成2代目 仮1354年誕生
顕成1代目の子 1368年即位仮14歳(~1383年29歳まで)
顕成1代目(顕国・玉野式部大輔)の子1336年生まれで、ネットに出てる長慶天皇の生まれが1343年とあるがこれは間違い。玉野式部大輔が7歳で子供作った事になる。摂津村上方面で別人の生年月日を使ってたと思う。
あたしの推測計算だと顕成1代目(顕国・玉野式部大輔)が18歳で作った長男が
仮1354年生まれ。1368年で即位すれば、仮14歳で即位長慶天皇という形。仮29才で後亀山に次の天皇職を譲渡。
あたしの推測計算だと顕成1代目(顕国・玉野式部大輔)が18歳で作った長男が
仮1354年生まれ。1368年で即位すれば、仮14歳で即位長慶天皇という形。仮29才で後亀山に次の天皇職を譲渡。
後亀山天皇(熙成の弟という漠然とした書き方霊山記略)
1383年人皇第98代長慶天皇仮29歳御譲渡、後亀山天皇御即位
ウィキペディアでまた工作やってる宮内庁犯罪者
ーウィキー
①熙成親王と後亀山の皇太子時期の空白をすり替えてる
①ー1 長慶天皇が熙成ではっきり書かれてる霊山記略に
それをウィキペディアでは寛成と書いてるだろう?
この寛成の実態が霊山記略に載ってない それと熙成を交換して書かれてる
②熙成親王(長慶天皇)の時に九州仕置きがあった
顕信達が多く九州で死んだ 熊本細川でてこずったのは顕信達
長慶天皇が熊本細川に仕返しされた?そんで顕信達多々死んだと?
③南朝関係史料の少なさ←乗っ取りして資料を操作してたからだろ💢
生い立ちは不明な点が多く、親王宣下の後に陸奥太守に任じられたらしいが[注釈 2]、立太子に関しては確証を得ない[注釈 3]。
追号諱
(長慶天皇) |
南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、1911年(明治44年)3月に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されない
ー霊山記略ーP135~
1373年細川氏春等京都吉野吉野行宮を犯す←細川は九曜紋の本体
1376年菊池武朝、貞成親王を奉じて今川貞世を追討す
1377年菊池武朝、今川仲秋と肥前に戦う、大内義弘と肥後に戦って敗績、菊池武義・菊池武安・阿蘇惟武・植田宮等多数戦死す←肥後は熊本細川
1378年菊池武朝今川貞世の軍を破る・光明上皇崩御
1379年山名氏清来たり犯す←山名は相馬神社宮司
1380年贈従1位右大臣前陸奥守鎮守府大将軍北畠顕信卿筑紫で死す(51歳)
1380年小山義政上野に挙兵、宇都宮基綱を下野に破る
1380年橋本正督、山名氏清と戦い戦死す
1381年菊池武朝、今川仲秋と戦い利を失う、楠正儀帰順す /改元
1382年北朝後円融天皇御譲位、皇弟後小松天皇御即位※円融は北朝でなく南朝
1382年楠正儀、山名氏清と戦い敗死す←相馬神社宮司の戦勝記録か?
1383年前征西将軍懐良親王、筑紫の任地において死す(55歳)
1383年北畠前右大臣源顕能卿筑紫において死す
1383年長慶天皇御譲渡、後亀山天皇即位
まるで熊本細川が天皇のようだ ウィキの捏造しかり
熊本細川 細川顕氏とは戸籍泥棒した集団だろう 名前に当時顕がつくなら
細川護熙の熙の字は長慶天皇の別の名だから細川護熙が乗っ取り勢にいるんだ
