やっぱり黒木家でうちの源孫を殺し 前司の娘と他人の子どもを一緒にさせてうちに災難を全部背負わせてたんじゃないかな
前司の名前はこの先出てくる
福島市 佐藤工業 ここは顕信側で立ち回ってる
福島市に顕信側のあれこれいる
だからそれらは戦後待遇が良かったんじゃないかと思うが
あたしはそれわかったら無理だ
それと相馬の剣道杯で佐藤博信って名前と阿部三郎って名前が大会の名前で
使われてた この2名は警察だ
どのくらいうちに関係してたのか 絶対この人たちは宮内庁傘下で動いてた
出世した人は実績 中身が工作員側で優秀としてまつりあげられてる
相当 うちに不利な事した人達が出世してる
そういう人達が指導者として舎弟がたくさんいたとなれば
それは組織としてかなりの人数で助け合いやってた
こんな卑劣な事ない
その子供らをあたしが見つけて突っつくようになる
付き合いできる訳なかったんだ
そこで得た情報を公で管理してるような国になってたんだ
霊山保原でかなり相馬藩の人間から誤情報出されて 勘違いしてたと思う
相馬顕胤は北畠顕家の子 相馬顕胤なんていないの
これその時代 室町期に検断奉行語って相馬勢がうちの家に土足できて
んの
これは恐喝まがいで古書や古文や系図を「貸せ!」「持っていって調べる!」
とかやってるはずなの
それは顕胤とされた人物の戸籍に関するそれより古いものとかだ
つまり 相馬藩記録で顕胤とされた顕成〇代目が
相馬領主で亘理 岩城 中通りとの戦で成果あげたのは
他所地域との付き合いで起きてる実績で
苗字が相馬じゃないんだから 相馬一族として動いた結果ではないの
顕胤とされた人物出てきてるのが1500年代で
顕家時代が1300年代 顕家生年が1318年
熙成親王として長慶天皇生まれを仮で1354年としてる
そしたら顕胤とされた顕成まで146年とか開きある
これで何人間に入ってるか
村上達は自分達を宮という立ち回りで子供を増やし俺達が上司という自称
立ち回りをしてたら、集団で嘘の恐喝強行してくるのが「私達が朝廷です!」と自称してるエリアな訳
今起きてる未払い社会と同じ事を その連中は当時からやってた
長慶天皇としてうちは後亀山から取り上げる立場にある
継いだと自称してた後亀山勢には千種含めた名古屋勢もいるが
大元は摂津だ
長慶天皇だと昔 保原でうちに書面書いた人がいる
残ってる うちが長慶天皇だ
これに合わせて村上達は 後村上天皇だった義良親王の子どもに
作ってたんだ この流れで顕成が長慶天皇の父親
村上達はそれを誤魔化してきた
義良親王は別にいた 当時は顕家が仕えた形にされてる
よく考えてみてほしい
後醍醐天皇に仕えたはずが なぜ義良親王に仕えた事にされてるのかを
伝記上 顕家は後醍醐天皇に糞みそ書いた書面を送り付けた
その状態から朝廷側が顕家を敵視し 阿倍野で殺した
顕信を重宝したのは顕家みたいな事をしなかったからだ
ではなぜ顕信の立場がうやむやな状態で顕家のものと混在してるか
顕信は伊勢国司もやった 伊勢国司を息子の守親が継ぎ、その子
顕能も継いだ
その中から後亀山の影武者か本体が出た
後亀山が小松へ神器を返し 南北朝戦が終焉したとされてるが、嵯峨寄り
だったこの人は工作員だと昔書いた事がある
それ 伊勢側が仕組んだ 伊勢国司側の終わらせ方で伊勢都合だったんだ
南北朝戦とは神器争奪戦みたいなもの
源平合戦とは本質が違う
霊山在御は明治頃に作られてる
霊山記略は昭和10年だ
そしたら霊山在御の中に当事者達が書かれてるはずだ
今調べてる
浪岡系図で顕成が息子だとはっきり書いてる これは顕家の子
他所で天童丸だと流布してるのは、顕信の子だ 顕信の子が霊山落城の
時の子だと流布してる組織がいる
天童とは地域を指し苗字を指す
青森と山形で戸籍の出目を主張してる事になる
考えてみてほしい 霊山にいたのは大江松代であって日野ではない
松代の子は顕家の子だ
これが顕家の子で顕成なのに 顕信の子を天童丸として落城の時の子だと
作ってる犯罪を
そうなった時の 相馬に稚児石というのは犯罪だ
そこらにいる日教組や坊主 神社 こういう組織があたしの家に何て事を
してるのかを
天童丸と言う名は 顕信の子に付いた名前
顕成の別名称で天童丸と作った集団は 顕信の子を顕成にかぶせた
相馬市民全部死んでもいいぐらい
天童丸はいない 顕成は鹿島に松代と避難した
その鹿島で相馬軍の賊に捕まって鹿島で殺されてる
だから鹿島に顕家の石棺という流布がある
中野の場所に天童丸の稚児石があると流布してるのはそのエリアに住む
捏造集団 その場所は初発神社にされてる
つまり田代誠信の商売道具にされているんだ
この連中は汚い事に顕成とは書かず、最初から天童丸と決めつけ
天童丸は顕信の子かもしれない こう出しているんだ
下の画像だと「初穂神社」とされてるが地域にいたら
そこが「初発神社」とされてるのがわかる
このインチキを紙芝居使って子どもに読み聞かせすると言うんだ
この人殺し地域は
相馬の「さとばたけ」という施設
相馬藩の家臣と自称してた「畠中正一」が運営に関係してるが
子ども達がこのインチキを子供時代から聞かせられたら
将来 あたしの言ってる事が間違いだと認識する
47都道府県ある中で相馬のそこからひろめられた嘘が
47都道府県のここで根っことなって他所へ伝承ひろがるんだ
処刑されるべきだろう?
通常の育ちなら学校へ行っていなくても あたしの言う事がわかる
障がい者枠だと あたしの言う事がわからない
そういう層をターゲットにしてる そこの連中
痴呆症の老人や まだ小さい子を
そしたらあたしが老人イジメ 子供イジメしてると先々言われる事になる
デタラメを流布し あたしに罪をかぶせる為に痴呆症老人や子供を利用し
わざとうちの歴史を使ってる
これ処刑対象だよな? これを広島の民間企業が流布してたというのは
今後延々と出るんで忘れないでくれよ 当時、あれだけこれは違う!と
書いてるのだから。
自分 昔は天童の大名しょう油を好きで使っていたがこの件でもう無理だと
思った。どういう経緯で使ってたか、ある取引業者からもらって使ったのが始まりで、味付けが好きだったから後に取引先へ大量購入し よく発送した。
お歳暮やお中元にかなり使った それこそ大きい企業や重役へ送られてる。
発送がうちだ。
でもそれは、あたしんちが天童の住所でない事はみんな知ってる。
自分の家で食べるのに取り寄せ使ってた以外、大量に購入してたのは
これでいいか? これ使うか 毎回 そのパターンになったからだ。
そもそも 取引先からもらって食べたら好きだったから使ってただけだ。
その経緯知らないかつての受取先が あたしんちを天童丸の家?って
勘違いしてたなら これは昔もらって使いだしてたのがきっかけだから。
ただそれだけの事だった。
あの大名しょう油と天童丸が天童市だから あたしの家が顕信にされても
困るんだが、これよりもっと昔から天童丸の流布されていた。
これ流布してた「さとばたけ」の畠中正一は浄土真宗だ
相馬市中野に住んでいて 森伊織から先生と呼ばれる畜生は皆原
皆殺しって言ってるだろ 証拠がなんでうちにあるのか
几帳面でうちではとっておくんだ 古い家だからね
山王宮ご祝儀帳簿 ※これは山王宮ご祝儀帳だ 與惣治の時のもの
大正13年5月31日執行
霊山在御の出た後にこれが行われ、その後に霊山記略が出てる
中通りでこれに対し言いがかりつけてる物がいる
※相馬〇胤はうちでやってないから相馬と見ないで欲しい
※北畠顕信の子で始まってないから相馬エリアで混ぜないでほしい
うちが挟まって福島と相馬の緩衝材に使われた可能性がある
緩衝材に入れられた?相馬と中通りで意図的にやってた
それを引き算すると何が見える? それが本当の事なんだ
そうなった時福島方面はあいつは顕信の子だと言い
相馬エリアでこいつは相馬(千葉)だと言う
そうすると顕家の子が宙に浮く 顕家のモノを顕信方面と
相馬一族方面で操作して食い物にしてた
それを保原桑折方面で あそこの家は顕家の事に関係してないでしょ
いやタダノの家でしょ?と言う
いや桑折だ 桑折の派生だと言う
ただのきわこはあの世で首絞められて泣いている その顔が見える
今から700年はそうなる
ただのきわこの家は 但野の家だ その家がうちの仏についてかなり
情報を持ってた 森鎮雄 森伊織達は昔から知ってた
ただのきわこはあたしに言った
昔から何度も出ては戻ってきてる物だからと
出先でその家に不幸起きて戻ってくるんだと
あんたんちが選ばれてたようだと
たぶん もっと知ってるんだ なのに教えない
だから聞き出すのが出来ないできた 小さい頃から教えるべき事を
そこの馬集団は隠して知らんぷりしていた
よしお叔父が横浜まで持ち出したらしいが これも紛失したとされていながら
戻ってきて、かなり後謎死する
よしあきが311以降仏をがんじがらめにして隔離してた
そんで糞のように死んだ
ただのきわこ方面はみつあき側について何十年もあたしの家に必要な事を
教えなかった みつあきは源孫の子ではない
他所でこんな事知らない こっちも言えるわけないから、他人に聞かされた事は ああそういう家なんだ?と思うぐらいだった
そしてあらゆる事を知っていながら黒木の家の娘と源孫を一緒にさせた
おそらく外野がそう仕向けた 当時の黒木タツの家は小高だ
もっと昔 いつ小高に移動したかはわからない
そして黒木一族は何度も昔顕家の軍に殺されてるから源孫を殺す
顕家の子じゃないと洗脳しておきながら 顕家の子に対する仕打ちを
してきたんだ この畜生たちは
こいつらに日教組がかなり加担してるが あたしは教師側やってる人にも
支持をもらってる そのおかげで一部必要な情報がネットから得られてる
山王宮ご祝儀帳簿 ※これは山王宮ご祝儀帳だ 與惣治の時のもの
大正13年5月31日執行
当時の日本で円がどういう相場になっていたか 他所でわかる
金壱円 森伊織 神官
金五円 只野豊次郎
金壱円 郡源左衛門 ※鹿島の墓地登記と家財焼失と洗脳された時の当事者
金壱円 皆原先生 ※相馬高校にも福島県教育委員にも力あった?
うちの源孫は学校の先生だった 殺した集団に皆原先生いる?
相馬警察署の隣で喫茶店やってた皆原は親族
その喫茶店はエムという発音の店で後に佐伯不動産が入った
佐伯という名は鹿島下町にいて相馬になぜか幅をきかせた
金貳円 若松運蔵 ※なぜか運蔵の位牌がうちにある 鹿島の家の隣だった家
金壱円 鈴木〇兵衛
金貳円 西安治郎 小山田
金貳円 海老原〇〇郎 ※海老原は與惣治の娘虐待事件起こした一家
その後,娘は車でひき殺されたと聞いてるが相馬野馬追幹部の海老原
金貳円 竹内三郎 ※東京帝都大学で仏の鑑定に竹内が動いたのはこの家?
室町期のモノとされたが、藍染明王の仏と同期のものと推測してる
後醍醐天皇が島根の家へ世話賃としてくれたヤツ
竹内文書と流布される家の外戚か?
金壱円 只野〇〇
金壱円 畑山由松
金壱円 榎内子云松
金壱円 渡部長助 ※鹿島の渡長の渡部 若松と挟んで畜生の限りをやった家
子供が厚生省管轄の労働基準局長になれたのはこの組織ゆえ
金五円 佐々木情助 ※鹿島のお浜下りの駒絵を描いた家か?
金壱円 菊池定次郎 ※菊池亀松と繋がってる 鹿島の糞エリアにもいた菊池
ではないのかな 宮内庁の料理人みはらしの家の関係とか
金壱円 石井大燈
金壱円 泉田正 ※相馬一族で相馬として泉田の名前出てるがそれだろう
金壱円 渡辺兼綱
金壱円 星寅次五郎 ※鹿島の糞エリアにある大きな敷地 星酒屋の関係?
金壱円 〇〇廣〇
金貳円 金子惟三 ※鹿島の金子医院の関係だろう
金貳円 木村忠太郎
金貳円 西川〇 ※銀行と書かれてるがどこの銀行か
現在の順位
13432位
不都合記事だされると急に10000台にされる 盗人NTT盗人秩父の与沢
鹿島の糞エリアに秩父の苗字があったのを後で再度出してやる
それが北朝鮮秩父だ さいたまと鹿島は北朝鮮で繋がっている
金壱円 相良純治郎
金五銭 鈴木百之助 ※「いろはや商店」として鈴木直人の名前があった
場所は鹿島の家の迎ではない ただし「いろはや肥料屋」が
鈴木直人の家だった場合、この鈴木は「いろはや」の人間の可能性
あり 磯部の鈴木直人は鹿島のいろはや肥料屋では?
その鈴木直人が警察組織で広島・熊本知事やってるのでは?
その息子が田中直紀で嫁の親が田中角栄なのでは?
金八十銭 朝倉キヨ ※うちに朝倉と書かれた子供の写真がある
金壱円 堀内源太郎 ※堀内の名も相馬一族で出てくるが堀内 これだろ?
鹿島の桜平に堀内の名が刻まれた碑があったが堀内きはちと言う名は
聞いた事あるが 相馬一族にうちの戸籍混ぜた?
金壱円 寺内民三郎
金五十銭 坂口清吉
金壱円 大内光雄 ※大内は與惣治の嫁の家の大内だと思うが東京都中野の
市長だかやった大内というのはこの家じゃないのかな?
とんでもない事やってる
金貳円 清信〇之助 小学長 ※磯部の清信?鹿島にもいた?
へ金銭賃貸書面残ってるんだが学校関係者として君臨してたのか
金壱円 吉井長治郎
金壱円 加藤熊治郎
金壱円 遠藤久八
金五十銭 岩井幸助
金壱円 若松〇吉 ※若松一族
金壱円 只野友助 ※戸籍乗っ取り只野友助 請求書送り付け払わせた他人
但野正が大内使って但野の息子を只野となのらせた事により
訳わからん只野が出てきてる
金壱円 芹沢〇治
金壱円 只野傳八 ※これも只野友助方面 こいつら相馬藩家臣の方
金壱円 只野千力 ※これも只野友助方面 こいつら相馬藩家臣の方
金貳円 岡本未義 ※相馬藩家臣の岡本系列
金壱円 高野義三
金壱円 谷長治郎
金壱円 岡本勣之助
金五十銭 羽根田〇斬 ※医者になる系列になれた理由
金五十銭 荒国松 ※荒専八の関係
金壱円 鳶新三
金壱円 中村丑太郎 ※中村藩って言われてる地域の中村は脳内藩主か?
金壱円 只野一郎 ※うちの墓場を俺の墓場と主張してた問題の只野
この家は但野正と別の血統
金貳円 坂部三郎
金壱円 秡桐堂〇
金壱円 愛岩宥賢
金壱円 松浦孝一 ※霊山神社の宮司松浦方面か?
金壱円 森久四郎 ※森は森鎮雄方面か秋葉神社の敷地の隣の森
金壱円 代芝情
金壱円 森山政七
金壱円 林今〇治
金壱円 大土〇〇
金壱円 北林市治
金壱円 石田や ※どこの?わからないんだが
金壱円 七十七銀行 木村
金壱円 五島治郎
金壱円 鈴木ツル
真野連中 当事者は自分達を結社と言ってたらしい
明治16年まで続いた ※江戸時代の書記改ざんは江戸時代の連中が
またやってる 自分の推測じゃ代官側から下請けで動いてたヤクザ的ものでは?
八俳人
社溟 シャメイ? ※南相馬市原町の人
宋江ソウコウ? ※唯野城助 メトロパチンコの唯野はこの連中
和水ワスイ? ※桑折源左衛門 コオリゲンザエモン
雨琴ウキン? ※郡源左衛門 コオリゲンザエモン
蘿風ラフウ? ※渡部五次右衛門
芳雨ホウウ? ※菊池重良治
如扇ニョセン? ※幾世橋新吉
相馬略史 森鎮雄P3 【蝦夷征伐の失敗】
称徳ショウトク天皇の時(西暦760年頃)蝦夷の鎮定に殊勲があった宇多郡の人
、正六位勲十等吉祢候部石麿キネノキミベイシマロに陸奥宇多連ムツウダムラジの姓を賜り、また行方郡の人、外正六位大伴部三田オオトモベミタ等四人に大判部行方連オオトモナメカタムラジの姓を賜った
また更に、標葉郡の人、正六位上文部賀例怒フミベカレヌ等に姓阿部陸奥守アベムツノカミを賜った。
石麿は黒木(相馬市)に館を作り後に旭長者と呼ばれた。
三田は横手の館(鹿島町)へ移動し真野の長者と言い、後に江垂桜平へ
移った。これらの豪族は着々地方にその勢力をひろめたが、蝦夷の叛乱は
後をたたず、光仁天皇の時には又叛したので大伴駿河麿に平定させ、さらに
出羽の国の蝦夷は下総、上総、常陸三国の騎兵を出して志波に打ち破り、陸奥の兵を派遣して胆沢イザワも征伐した
相馬略史 森鎮雄P1 【みちのくあけぼの】
妃弟橘姫キサラオトタチバナヒメが海神の怒りをしずめるため、海に身を投じたので海はなぎ命ははつつがなく航海を続けて、やがて竹の水門タカノミナト?に上陸した
👈タカノミナトと読むなら多賀国府をかまえた先の船着きできる海岸だ
そんで塩釜神社の前の入江 だからそこが乗っ取られたりする
神社運営側がどちらの人間かによって社会情勢が変わる そういう神社は
ただあればいいのに運営者の人間都合になっている どこもだ
伊勢の都合でかなり情勢が変わる まるでそこの老害がカミサマのようだ
カミサマが守ってくれてると人のせいにして戸籍強奪
人の戸籍を延々と操作して歴史も操作し洗脳 扶余朝鮮人伊勢
あたしはこの事件の当初から黒田清子に似てると何回も書いてた
今 ピンときた
伊勢の闇神事で自分そっくりの女子を生贄に使ったのでは?
自分が伊勢は好かないと言ってた理由は山ほどあるが、供物出したがる
金を払わずににだ しかもあたしの手にも届かない
橘姫が自殺で海をしずめたと書いてるのを見て気づいた
この本作ってる森鎮雄達は伊勢の工作隊だ こういう人の書物から
伊勢で何やってるか見えてくる
国が危険だとこういう人は言うだろうが そもそもやってきた事が間違ってるのに直しもしないでこっちの言ってる事と違う捏造繰り返してる
国が危険ではなく 伊勢が国側としての立ち振る舞いしてる
そこって神社宣伝してるけど 人間が神社としてるんだ
自分らが祈りを仕事としてる立ち回りしてるから、こういう事をする暇があるんだ そこ
顕家が後醍醐天皇に反抗的な文書送り付け 霊山から動かない💢って
やった事を当時の伊勢側は憤慨し 弟を代わりに使って兄を始末しろと
言っただろう? 確か顕家は当時、「船で流されて伊勢に着いたから伊勢に今いるんだ ちょっと来い!」と伊勢に呼び出され、伊勢まわってから
阿倍野で死んでるんだ。近年捏造で伊勢まわった事を消しているかもしれないが調べた時の情報はそう。
それで当時あたしは絶対伊勢は行くこともないと書いている。
従え!我に従え!って思ってんだ 昔の皇族だと言ってる人達は。
我に従え 清子 清算だ
うちが後村上天皇で長慶天皇だ 伊勢は断る
この娘 小倉という名がついてる
小倉宮というのが昔あったようで、それは後亀山天皇の子とされてる
小倉宮がいた方面が うちに祟り封じする為に生きた生贄出したなら
小倉宮がうちの子だと思ったそっち方面で考える可能性ある
あとは、この人たち 自分が窮地にあって自分と似た人間を身代わりに
使って自分に害及ばないように、こういう事をしてたのではないか?
より自分に似てる子を選び 死んでほしいあたしに因果関係ありそうな
後村上と後亀山にまつわる名を選んで
今どきの人は洗脳が溶けて 起きてる事を理解できてる人もいる。
どれだけ老人つかまえて子供や障がい者つかんでも、その人達はこの人達の
洗脳にかかっても健全な脳の人は、それを拒む
10年以上かかってる膨大な事象の処理
菅丞院自在院墓地
郡義軌
戸川勝
伏見又八 ※伏見の苗字が杉の阿弥陀堂のそばにある
唯野新八 ※メトロパチンコ 真野連中
佐藤浮吉
斎藤武八
只野重五郎 ※うちと関係ない 只野一郎側か相馬藩家臣側
高野富治
菊池定次郎
但野留五郎 ※但野正側 ただのきわこの父親側で與惣治の娘の亭主の親側
ただのきわこは但野の苗字なのに親がうちの分家扱いさせた
桑折斉熙 ※桑折源左衛門側でこの名前はうちの戸籍つかんでたな?
ここ数日はじめて熙成がうちだ!!って発見したでしょ?
うちの身の回りで「熙」の字はいないから最初半信半疑だった
けど、見てよ「熙」の字使ってる やっぱ熙成はうちだ
そして桑折がうちの立場を自分の家のように使ってる
桑折与八 ※この桑折は桑折源左衛門の親戚だろう
鹿頭栄助 こういう苗字わからないないね
福島市右エ門 ※福島の苗字が杉の阿弥陀堂のそばにある
若松多四郎 ※若松醤油の親戚か本体
西一治 ※鹿島 西輪店だろうし、スーパー堀川隣だった
西徹雄の出目はたぶんここ 西啓太郎も遠戚だろう
西徹雄は日吉神社のそばに自宅、南相馬博物館館長やってた
西啓太郎は相馬中村一中美術教師で位が高く、中村一中の制服を
西啓太郎の趣味でロシア風?のドドメ色と決められてた
赤茶色
現在各週金曜日の夕方から中村一中そばにて原発反対運動
西啓太郎の娘方面で郡山に親戚いると言ってた事から郡山の
朝鮮総連に関係していると思われる
その娘の亭主が好青年であった為、彼をムコ入りさせたのは
いいがお嬢様育ちだった風で、それが原因か定かではないが
だんだん亭主の家業の問題で離婚※西の朝鮮覇権使えばこの
朝鮮エリアは黙ったかもしれないが、それ以上に加藤建材が
朝鮮だった
その西啓太郎の家のそばに初発神社の田代誠信の住まいが
あった事を最近発見し初発神社の問題はこいつ方面だと認識し
ここに訴える、鹿島の西輪店なら相当昔からうちの事を
ただのきわこ方面から聞いて知ってた計算だ
ただのきわこはうちの仏がうちのだとわかってる
信夫喜三郎 北郷タクシーの隣駄菓子を売ってた店
福島市の信夫話がここから出ていると疑っているんだが
仙台丑蔵 仙台市の元となった仙台四郎の親戚か兄弟だと思うんだが
仙台四郎は仙台市で商売の神様と言われてチンを出した像や絵が
出回っている この仙台丑蔵の家は魚屋
よく、よしお叔父がカツオの刺身を買ってきてた
遭遇する場面ではカツオの刺身を嫌というほど食わされた
星利綱 これは星酒屋しかなく、あのエリアではかなりの敷地を持ってた
菅野国蔵 知らない
堀川民五郎 西輪店の隣にあったスーパーでスーパー佐久間よりは
こじんまりとやってた
斉藤又六 知らない
若松竹治 ※若松醬油の関係
只野伝次郎 只野一郎の関係と思うが
若松運蔵 若松醤油屋 運蔵の位牌がなぜかうちにある
堀川佐五右エ門 スーパー堀川の親戚か本体
森多四郎 この森は御子神社の森かこの敷地にあった森の家だろうと思う
島義助 間違いなく、熊野神社造営と言ってうちの吉左衛門、文四郎、
與惣治、源孫の4代にかけ氏子扱いし金をまきあげた宮司の家
この4人から巻き上げてた当時の宮司側はうちが宮司やる家だと
わかっていてカツアゲしてた そもそも熊野権現はうちのだ
札は4人の名前分あって、宮司に青田か島か森
この連中は組んでいたことがわかる
渡辺音治
馬場八百蔵 相馬藩家臣に馬場の名があり、浪江町町長も馬場で、
この人は数年前に死亡 他に馬場は浄土宗の坊主か いるはず
鹿島で馬場は知らない
只野文四郎 うち 與惣治の親
吉田勘佐エ門 若松醬油屋の向いにあるようだが昔からどういう家か
わからない
アキヒトの娘が何をしようが これは覆る事はない
この残されたものから 教えもしない自称遠戚どもの うちにだけ押し付けは
許されない
この連中はヘラヘラ笑ってるかもしれないが700年問題
さらに顕家の出目を調べだせば1000年は越えるだろう
①村上勢が 北畠は村上だって騒いでも 村上の系図は信憑性が低い
②村上どもが作った霊山記略では後嵯峨天皇を頂上にされている
その枝に伏見、小松方面VS長慶後亀山とされてる
そうだっけ?と思ってしまう
③後醍醐天皇第14代皇子 村上天皇 👈14人目の子?
※つまり長男が国王皇太子とは決まっていない 宇多天皇もそう
➃ 醍醐885年 村上926年 後醍醐1288年
伊勢と京都で系譜の操作できるよね あたしあれだけうちの過去帖ない!!って騒いで吉左衛門のものはゴキブリが自分の戸籍にして売ってたんだけど
➄なぜか霊山記略に後村上天皇まで系譜繋げてないの
これ気づいた人は うちのが使われたって知ってたんだよな?
顕家の孫が長慶天皇になると後村上天皇(義良親王)の存在の枠にうちの物が
使われてしまうの
うまく書けないね 長慶を後村上の後釜にして、これは替え玉ないから
逆にそれに合わせて義良親王を後村上にしてた場所がうちになってしまう
親だと系譜繋げる事で
そうすると、顕成1世は息子のモノを義良親王側(村上勢)に取られてしまい
次の後亀山が天皇を引継いだと言って、その部分だけが強化され
後亀山方面(伊勢北畠?)が、相続者ぶって顕成2世のものを
私物化管理しようとするの
うちの戸籍強奪に村上勢がかんでいるのは、俺達利権を主張し、
こっちを取り上げ対象にして
伏見らと抗争起きないようにしたの
相馬の畜生勢も同じ事やってる 勝手に盛胤というヤツの子どもに繕って
流布し、顕成〇世の時にあちこちで戦する 中通り攻略戦もうちが領主
やってる時にやってる 結局失敗してるのが相馬藩だが
その後に顕胤と言う名で親に繕って、その当時19歳ぐらいの盛胤という
また同じ名で息子を面倒みさせて、それが顕成〇世の実績や権力を相続
したように、繕ってたの この人たち
このやり口は廣橋経泰が伊勢と天台宗との行き来で操作してた
これは小高の間者だ
わかる? この人身御供700年から起きてた意味を
だからうちで三春に義胤が出入りする際 そこをロックさせてるんだ
当然 懸田が殺されたのはこのカラクリを晴宗が気づいたからだ
それで晴宗の息子輝宗が対策考えてると思った二本松勢と小高勢と米沢勢が
ハメて殺したんだ この時期って、長慶天皇終わって205年経ってる
小高の廣橋はそういう環境を作って標葉を殺させ乗っ取りして
標葉の主格として小高間者の身分を隠してたんだ
だから田村月齋はうち側だって書いてる その時田村でうちの関係が
跡継ぎになるか揉めていた その時会津攻略で伊達政宗が動いて
この筋書きは大阪豊臣側で作ってて これは摂津本体に近い