寛文(かんぶん)は、日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1672年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。
寛文期におきた出来事[編集]
寛文2年(1662年)寛文京都地震が発生
寛文3年(1663年)有珠山噴火
寛文4年(1664年)八戸藩が置かれる
寛文5年(1665年)英蘭戦争
寛文5年(1665年)- 寛文9年(1669年)寛文検地
寛文6年(1666年)英国でロンドン大火。江戸幕府が山川掟(河川への土砂流出を防ぐための法令)を定める。
寛文7年(1667年)東大寺二月堂が修二会における失火で失われる。
寛文11年(1671年)仙台藩で伊達騒動(寛文事件)が勃発。
誕生寛文2年(1662年)徳川家宣(江戸幕府第6代将軍)
寛文6年(1666年)荻生徂徠(儒学者)、天英院(徳川家宣正室)、間部詮房(江戸幕府側用人、老中格)
寛文7年(1667年)浅野長矩(播磨国赤穂藩主)
寛文8年(1668年)雨森芳洲(儒学者)
寛文9年(1669年)水野忠之(江戸幕府老中)
死去寛文2年(1662年)酒井忠勝(江戸幕府大老)、松平信綱(江戸幕府老中)
寛文6年(1666年)千姫(徳川秀忠の娘、豊臣秀頼の正室)
寛文12年(1672年)保科正之(徳川家光の異母弟、会津藩初代藩主)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%96%87
徳川家綱
徳川 家綱は、江戸幕府の第4代将軍である。 父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。Wikipedia
後西天皇
後西天皇(ごさいてんのう、寛永14年11月16日(1638年1月1日) - 貞享2年2月22日(1685年3月26日)、在位:承応4年11月28日(1655年1月5日) - 寛文3年1月26日(1663年3月5日))は、江戸時代の第111代天皇。幼名を秀宮、諱を良仁(ながひと)という。花町宮。花町殿。
はじめ高松宮初代好仁親王の王女を娶って高松宮第二代を継承して花町宮(花町殿)(はなまちのみや)と号した。即位の前年には兄である後光明天皇の名代として江戸に下っている。後光明天皇が崩御した時、同帝の養子になっていた実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく他の兄弟は全て出家の身であったために、識仁親王が成長し即位するまでの繋ぎ[注釈 1]として、1654年(承応3年)11月28日に即位。
1663年(寛文3年)1月26日、10歳に成長した識仁親王に譲位。
もっぱら学問に打ち込み、『水日集』などの著作を多数残している。和歌の才能もあり、古典への理解も深かった。治世中には伊勢神宮・大坂城・内裏などの炎上や明暦の大火、地方の地震、水害などが多発したため、当時の人々は天皇の不徳を責め、これをきっかけに譲位に至ったと伝えられている(『翁草』巻19「新帝践祚の事」)。また、中御門宣順の『宣順卿記』寛文2年9月23日条・壬生忠利『忠利宿禰記』同日条にも徳川家綱の使者である吉良若狭守(高家吉良義冬)が女院(東福門院)に譲位を申し入れたとする伝聞記事を記している[注釈 2]。これらの記事を前提として天皇に譲位を促させた勢力として、後水尾法皇説[注釈 3]・江戸幕府説[注釈 4]が挙げられ、更に有力外様大名(仙台藩主)の従兄という天皇の血筋が問題視されたとする説がある[注釈 5]。ところが、近年これに対して譲位はあくまでも後西天皇の自発的意思であったとする説も出されている[1][注釈 6]。
貞享2年(1685年)、崩御。47歳。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%A5%BF%E5%A4%A9%E7%9A%87
霊元天皇
霊元天皇(れいげんてんのう、承応3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日))は、江戸時代前期の第112代天皇(在位:寛文3年1月26日(1663年3月5日)- 貞享4年3月21日(1687年5月2日))。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)。「仙洞様」とよばれることが多い(退位後の期間が長いため)。歌人、能書家でもある。
承応3年(1654年)、長兄後光明天皇の崩御以前にその養嗣子に入り、儲君となる。当時、後光明天皇が余りにも急な死に方をしたために毒殺と噂され、天皇による高貴宮(後の霊元天皇)の養子縁組の意思表示の有無が疑問とされたが、後光明天皇の側近らは天皇が高貴宮の誕生直後より万一に備えて縁組の意向を表明していたと主張している(『宣順公記』承応3年10月17日条)。また、高貴宮の生母が後光明天皇の母方の従妹であることや当時目ぼしい親王が全て宮家を継承するか寺院に入ってしまったために唯一将来が定まっていなかった男子皇族が高貴宮以外にいなかった事から、高貴宮が養嗣子として将来の皇位継承に備えるのが当時としては一番妥当な判断であったと考えられる。万治元年(1658年)1月に親王宣下をおこなった。寛文2年(1662年)12月に元服し、翌3年(1663年)1月、兄の後西天皇から譲位されて践祚した。
治世の最初は父である後水尾法皇が院政を行っていたが、延宝8年(1680年)、後水尾法皇の崩御後は直接政務を執った。霊元天皇は父の遺した路線を一歩進めて皇室再興と独自の政策展開を目指したために幕府と距離をとることが多く、この時代、「親幕派」と認められた公卿は徹底的に冷遇された。また、性格的に奔放な部分があり、側近の若い公家たちとともに問題行動を起こすこともあり、これを諌めた公卿が勅勘などの処分を受ける事例があった。寛文9年(1669年)には武家伝奏正親町実豊らの排除を画策し(翌年蟄居)、寛文11年(1671年)には側近とともに宮中で花見の宴を開いて泥酔する事件を起こしている。天和元年(1681年)、法皇の遺命により儲君に内定していた第一皇子の一宮(後の済深法親王)を強引に出家させ、これに反対する一宮の外祖父小倉実起を佐渡に流刑にする「小倉事件」を引き起こす。次いで同2年(1682年)、鷹司房輔が関白を辞した際には本来の順序ならば左大臣である近衛基熙を関白に任じるべきところを、霊元天皇は彼が小倉事件における自分の措置に対して批判的であると睨んでいたため、これを無視して右大臣の一条冬経(兼輝)を越任させるという贔屓の人事を行って、京都所司代稲葉正往を驚愕させた。同3年(1683年)には、意中の皇位継承者であった朝仁親王(後の東山天皇)の立太子礼が行われ長く中断していた皇太子の称号を復活させた。ただしこの時期の将軍であった徳川綱吉は朝廷尊重を掲げていたため、朝幕関係は比較的安定していた。
貞享4年(1687年)に朝仁親王(東山天皇)へ譲位した後に仙洞御所に入って院政を開始し(以後仙洞様とよばれるようになる)、その年には同じく長年中断していた新天皇の大嘗祭を行う。これは関白及び禁中並公家諸法度を利用して朝廷の統制を図ろうしていた江戸幕府を強く刺激した。院政は朝廷の法体系の枠外の仕組みであり、禁中並公家諸法度に基づく幕府の統制の手が届かなかったからである。実は先代の後水尾法皇の院政にも幕府は反対であったが、幼少の天皇が続いたことに加えて、2代将軍徳川秀忠の娘である法皇の中宮・東福門院がこれを擁護したために黙認せざるを得なかったのであるが、霊元上皇が同様のことを行うことを許す考えはなかった。直ちに幕府は院政は認められないとする見解を朝廷に通告するものの、上皇はこれを黙殺した。
だが、朝廷内にも強い反対派が存在した。左大臣近衛基熙である。彼は幕府と連携してこの朝廷と幕府の決裂という事態を防ごうとしたが、上皇にはこうした動きをする基熙を「親幕派」とみなして激しく嫌った。だが、元禄6年(1693年)に一条兼輝が辞任すると、後任関白の候補は近衛基熙しかおらず、やむなく基熙を関白に任じた。だが、将軍徳川綱吉もまた個人的に基熙を嫌っていたために霊元院政に代わる近衛基熙体制も容認しがたく、幕府と関白が連携して院政(仙洞御所において行われる政治)を抑えるまでには至らなかった。
元禄7年(1694年)、東山天皇の成長を理由として政治の実権を天皇に移すことを宣言する。だが、東山天皇は今まで上皇が全てを握って自分が無力であったことに不満を抱いており、近衛基熙の補佐を得て親政を開始して幕府との関係改善をはかった。一方、幕府もこの動きを歓迎して天皇親政の支援に動き出した。それは綱吉が近衛基熙を嫌う一因となっていた徳川家宣(綱吉の甥で基熙の娘婿)と和解して自己の後継者に指名したことで拍車がかかった。一方、霊元上皇も近衛基熙に不満を抱く他の摂家と連携してしばしば東山天皇、またその後の中御門天皇の治世に掣肘を加えた。また、従来の反幕府の態度を一転させて皇女八十宮吉子内親王と将軍徳川家継の婚約を実現させて中御門天皇と近衛基熙を出し抜いて幕府との連携に転じるが、こちらは家継死去のために挫折した。後水尾天皇と並んで長期に亘って院政(仙洞御所において行われる政治)を行い、朝廷政治に重きをなした。正徳3年(1713年)8月に落飾して法皇となる。法名は素浄。享保17年(1732年)8月に崩御、78歳。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%85%83%E5%A4%A9%E7%9A%87
伊達なんちゃらと出てくるのは この時代の頃なんだな
あ、これ うちの蔵から出てきた書物の一部