アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

【タイ】タイで干ばつ被害←今後一週間は雨降ります 貯水を。

2015-08-25 23:38:25 | 自然と天災

http://www.tenki.jp/world/4/80/48456.html


【タイ】タイで干ばつ被害、バンコクの水道水は1カ月で使い果たすか[07/07] [転載禁止]©2ch.net

1 :虎跳 ★:2015/07/07(火) 20:39:48.00 ID:???

タイで干ばつ被害、バンコクの水道水は1カ月で使い果たすか

バンコク水利局によると、干ばつによる水資源の枯渇、海水の河川浸入を受け、バンコクの水道水は1カ月で使い果たす可能性があるという。
「中央社」が7日に伝えた。

タイは10年ぶりの最も深刻な干ばつに見舞われ、政府は何とか各州の農業用水と生活用水の供給を確保し、2014年10月以降、政府は水稲栽培の停止をアピールした。 様々な措置を講じていたが、三大ダムの水位は依然として警戒線を下回る。ダムの貯水はバンコクの二大水源地の1つであるチャオプラヤー川からだ。

バンコク水利局の局長によると、三大ダムの正常の貯水量は80億立方メートルだが、2014年11月のそれは50億立方メートル、現在は6億6000万立方メートルに過ぎないという。雨が降らなければ、ダムの貯水量は30日間の需要を満足できるだけだ。

雨水とダムはシャム湾の海水の浸入を阻むことができるが、干ばつ期間中に海水が上流に浸入し、チャオプラヤー川の水もしょっぱくなった。

タイ水利局は60キロリットルの飲用水を貯蔵し、用水を節約するよう呼びかけた。

新華ニュース
http://www.xinhuaxia.jp/social/74276

東急東横線 トラブっちゃってるの?? これってJR?? じゃなくて東京急行電鉄な ※10時15分全線再開

2015-08-25 22:54:50 | 自然と天災

東急東横線運転見合わせ>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>台風15号 [転載禁止]©2ch.net [699332515]

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW c58e-ObTZ):2015/08/25(火) 22:04:44.96 ID:

東急線で大規模トラブル 全線運転見合わせ

東京都内と神奈川県内を結ぶ東急電鉄で25日夕方、踏切などに信号を送る保安装置のシステムに大規模なトラブルが発生した。
東急電鉄の東横線・目黒線・多摩川線全線では現在、運転を見合わせている。

東急電鉄によると、25日午後6時半頃、踏切などに信号を送る保安装置のシステムにトラブルが発生した。
このため、都立大学駅と自由が丘駅の間の踏切があがらなくなったり、多摩川駅周辺を走る車両に故障ランプが表示されたりするなど、複数の異常が起きたという。

このトラブルで、東急電鉄の東横線・目黒線・多摩川線全線で一時運転を見合わせた。
多摩川線は25日午後7時18分に運転を一時、再開したが、再び運転を見合わせ、東横線、目黒線、多摩川線全線で運転見合わせとなっている。

東急電鉄によると、運転再開の見通しは立っていないという。

http://www.ytv.co.jp/press/mainnews/TI20183786.html


→ブレーカー落ちてたって??

漏電とか??

寛文 1661年~1972年 江戸初期

2015-08-25 15:46:46 | 日記

寛文(かんぶん)は、日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1672年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。


寛文期におきた出来事[編集]
寛文2年(1662年)寛文京都地震が発生
寛文3年(1663年)有珠山噴火
寛文4年(1664年)八戸藩が置かれる
寛文5年(1665年)英蘭戦争
寛文5年(1665年)- 寛文9年(1669年)寛文検地
寛文6年(1666年)英国でロンドン大火。江戸幕府が山川掟(河川への土砂流出を防ぐための法令)を定める。
寛文7年(1667年)東大寺二月堂が修二会における失火で失われる。
寛文11年(1671年)仙台藩で伊達騒動(寛文事件)が勃発。
誕生寛文2年(1662年)徳川家宣(江戸幕府第6代将軍)
寛文6年(1666年)荻生徂徠(儒学者)、天英院(徳川家宣正室)、間部詮房(江戸幕府側用人、老中格)
寛文7年(1667年)浅野長矩(播磨国赤穂藩主)
寛文8年(1668年)雨森芳洲(儒学者)
寛文9年(1669年)水野忠之(江戸幕府老中)
死去寛文2年(1662年)酒井忠勝(江戸幕府大老)、松平信綱(江戸幕府老中)
寛文6年(1666年)千姫(徳川秀忠の娘、豊臣秀頼の正室)
寛文12年(1672年)保科正之(徳川家光の異母弟、会津藩初代藩主)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%96%87



徳川家綱

徳川 家綱は、江戸幕府の第4代将軍である。 父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。Wikipedia




後西天皇



後西天皇(ごさいてんのう、寛永14年11月16日(1638年1月1日) - 貞享2年2月22日(1685年3月26日)、在位:承応4年11月28日(1655年1月5日) - 寛文3年1月26日(1663年3月5日))は、江戸時代の第111代天皇。幼名を秀宮、諱を良仁(ながひと)という。花町宮。花町殿。

はじめ高松宮初代好仁親王の王女を娶って高松宮第二代を継承して花町宮(花町殿)(はなまちのみや)と号した。即位の前年には兄である後光明天皇の名代として江戸に下っている。後光明天皇が崩御した時、同帝の養子になっていた実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく他の兄弟は全て出家の身であったために、識仁親王が成長し即位するまでの繋ぎ[注釈 1]として、1654年(承応3年)11月28日に即位。

1663年(寛文3年)1月26日、10歳に成長した識仁親王に譲位。

もっぱら学問に打ち込み、『水日集』などの著作を多数残している。和歌の才能もあり、古典への理解も深かった。治世中には伊勢神宮・大坂城・内裏などの炎上や明暦の大火、地方の地震、水害などが多発したため、当時の人々は天皇の不徳を責め、これをきっかけに譲位に至ったと伝えられている(『翁草』巻19「新帝践祚の事」)。また、中御門宣順の『宣順卿記』寛文2年9月23日条・壬生忠利『忠利宿禰記』同日条にも徳川家綱の使者である吉良若狭守(高家吉良義冬)が女院(東福門院)に譲位を申し入れたとする伝聞記事を記している[注釈 2]。これらの記事を前提として天皇に譲位を促させた勢力として、後水尾法皇説[注釈 3]・江戸幕府説[注釈 4]が挙げられ、更に有力外様大名(仙台藩主)の従兄という天皇の血筋が問題視されたとする説がある[注釈 5]。ところが、近年これに対して譲位はあくまでも後西天皇の自発的意思であったとする説も出されている[1][注釈 6]。

貞享2年(1685年)、崩御。47歳。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%A5%BF%E5%A4%A9%E7%9A%87


霊元天皇



霊元天皇(れいげんてんのう、承応3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日))は、江戸時代前期の第112代天皇(在位:寛文3年1月26日(1663年3月5日)- 貞享4年3月21日(1687年5月2日))。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)。「仙洞様」とよばれることが多い(退位後の期間が長いため)。歌人、能書家でもある。

承応3年(1654年)、長兄後光明天皇の崩御以前にその養嗣子に入り、儲君となる。当時、後光明天皇が余りにも急な死に方をしたために毒殺と噂され、天皇による高貴宮(後の霊元天皇)の養子縁組の意思表示の有無が疑問とされたが、後光明天皇の側近らは天皇が高貴宮の誕生直後より万一に備えて縁組の意向を表明していたと主張している(『宣順公記』承応3年10月17日条)。また、高貴宮の生母が後光明天皇の母方の従妹であることや当時目ぼしい親王が全て宮家を継承するか寺院に入ってしまったために唯一将来が定まっていなかった男子皇族が高貴宮以外にいなかった事から、高貴宮が養嗣子として将来の皇位継承に備えるのが当時としては一番妥当な判断であったと考えられる。万治元年(1658年)1月に親王宣下をおこなった。寛文2年(1662年)12月に元服し、翌3年(1663年)1月、兄の後西天皇から譲位されて践祚した。

治世の最初は父である後水尾法皇が院政を行っていたが、延宝8年(1680年)、後水尾法皇の崩御後は直接政務を執った。霊元天皇は父の遺した路線を一歩進めて皇室再興と独自の政策展開を目指したために幕府と距離をとることが多く、この時代、「親幕派」と認められた公卿は徹底的に冷遇された。また、性格的に奔放な部分があり、側近の若い公家たちとともに問題行動を起こすこともあり、これを諌めた公卿が勅勘などの処分を受ける事例があった。寛文9年(1669年)には武家伝奏正親町実豊らの排除を画策し(翌年蟄居)、寛文11年(1671年)には側近とともに宮中で花見の宴を開いて泥酔する事件を起こしている。天和元年(1681年)、法皇の遺命により儲君に内定していた第一皇子の一宮(後の済深法親王)を強引に出家させ、これに反対する一宮の外祖父小倉実起を佐渡に流刑にする「小倉事件」を引き起こす。次いで同2年(1682年)、鷹司房輔が関白を辞した際には本来の順序ならば左大臣である近衛基熙を関白に任じるべきところを、霊元天皇は彼が小倉事件における自分の措置に対して批判的であると睨んでいたため、これを無視して右大臣の一条冬経(兼輝)を越任させるという贔屓の人事を行って、京都所司代稲葉正往を驚愕させた。同3年(1683年)には、意中の皇位継承者であった朝仁親王(後の東山天皇)の立太子礼が行われ長く中断していた皇太子の称号を復活させた。ただしこの時期の将軍であった徳川綱吉は朝廷尊重を掲げていたため、朝幕関係は比較的安定していた。

貞享4年(1687年)に朝仁親王(東山天皇)へ譲位した後に仙洞御所に入って院政を開始し(以後仙洞様とよばれるようになる)、その年には同じく長年中断していた新天皇の大嘗祭を行う。これは関白及び禁中並公家諸法度を利用して朝廷の統制を図ろうしていた江戸幕府を強く刺激した。院政は朝廷の法体系の枠外の仕組みであり、禁中並公家諸法度に基づく幕府の統制の手が届かなかったからである。実は先代の後水尾法皇の院政にも幕府は反対であったが、幼少の天皇が続いたことに加えて、2代将軍徳川秀忠の娘である法皇の中宮・東福門院がこれを擁護したために黙認せざるを得なかったのであるが、霊元上皇が同様のことを行うことを許す考えはなかった。直ちに幕府は院政は認められないとする見解を朝廷に通告するものの、上皇はこれを黙殺した。

だが、朝廷内にも強い反対派が存在した。左大臣近衛基熙である。彼は幕府と連携してこの朝廷と幕府の決裂という事態を防ごうとしたが、上皇にはこうした動きをする基熙を「親幕派」とみなして激しく嫌った。だが、元禄6年(1693年)に一条兼輝が辞任すると、後任関白の候補は近衛基熙しかおらず、やむなく基熙を関白に任じた。だが、将軍徳川綱吉もまた個人的に基熙を嫌っていたために霊元院政に代わる近衛基熙体制も容認しがたく、幕府と関白が連携して院政(仙洞御所において行われる政治)を抑えるまでには至らなかった。

元禄7年(1694年)、東山天皇の成長を理由として政治の実権を天皇に移すことを宣言する。だが、東山天皇は今まで上皇が全てを握って自分が無力であったことに不満を抱いており、近衛基熙の補佐を得て親政を開始して幕府との関係改善をはかった。一方、幕府もこの動きを歓迎して天皇親政の支援に動き出した。それは綱吉が近衛基熙を嫌う一因となっていた徳川家宣(綱吉の甥で基熙の娘婿)と和解して自己の後継者に指名したことで拍車がかかった。一方、霊元上皇も近衛基熙に不満を抱く他の摂家と連携してしばしば東山天皇、またその後の中御門天皇の治世に掣肘を加えた。また、従来の反幕府の態度を一転させて皇女八十宮吉子内親王と将軍徳川家継の婚約を実現させて中御門天皇と近衛基熙を出し抜いて幕府との連携に転じるが、こちらは家継死去のために挫折した。後水尾天皇と並んで長期に亘って院政(仙洞御所において行われる政治)を行い、朝廷政治に重きをなした。正徳3年(1713年)8月に落飾して法皇となる。法名は素浄。享保17年(1732年)8月に崩御、78歳。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%85%83%E5%A4%A9%E7%9A%87






























伊達なんちゃらと出てくるのは この時代の頃なんだな 

あ、これ うちの蔵から出てきた書物の一部

幕末 嘉永6年から嘉永7年 1853年~1854年

2015-08-25 14:56:25 | 日記

嘉永(かえい)とは、日本の元号の一つである。弘化の後、安政の前。1848年から1854年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。


嘉永期におきた出来事[編集]

安政伊賀地震、安政東海地震、安政南海地震は嘉永期の地震で本来「嘉永の大地震」であるが[1]、これらの地震や黒船来航、内裏炎上などの災異が多発したことにより同年中にも安政へ改元されたため、嘉永7年を安政元年と解釈し「安政」を冠して呼ばれる[2]。


嘉永6年(1853年) 2月2日(3月11日): 小田原地震。小田原城大破、小田原で大被害。
6月3日(7月8日): アメリカの東インド艦隊ペリー提督が4隻の黒船率いて浦賀沖に到着。
7月18日(8月22日): ロシア大使プチャーチン、開国通商を求めて長崎に来航。
江戸幕府(老中首座阿部正弘)、朝廷を始め外様大名や市井を含む諸侯有司に対しペリーの開国通商要求に対する対応策を下問。
江戸幕府、英語・米国情報・造船・操船・測量の生の知識を得るため、中濱萬次郎(ジョン万次郎)を招聘して直参旗本の身分を与え、江川英龍の配下とし、軍艦教授所教授に任命。
ペリー来航を期に品川に砲台を築く工事を開始、翌年に完成。お台場と呼ばれる。


嘉永7年(1854年) 1月24日(2月21日): 一朱銀を通用開始。お台場銀とも呼ばれる。
3月3日(3月31日): 日米和親条約締結。
4月6日 : 京都大火(御所焼け)。
6月15日(7月9日): 伊賀上野地震(安政伊賀地震)。
11月4日(12月23日): 安政東海地震(東南海地震含む)。
11月5日(12月24日): 安政南海地震。東海地震の32時間後に発生。
11月7日(12月26日): 豊予海峡地震。


誕生[編集]
嘉永2年(1849年): 西園寺公望(第2代立憲政友会総裁、第12・14代内閣総理大臣)
嘉永3年(1850年): 清浦奎吾 (枢密院議長、第23代内閣総理大臣)
嘉永5年(1852年): 寺内正毅(第18代内閣総理大臣)、明治天皇(第122代天皇)、山本権兵衛(第16・22代内閣総理大臣)
嘉永7年(1854年): 高橋是清(第4代立憲政友会総裁、第20代内閣総理大臣)

死去[編集]
嘉永元年(1848年): 土生玄碩(享年86)、八重崎検校
嘉永2年(1849年): 葛飾北斎(享年89)
嘉永3年(1850年): 高野長英(享年46)、国定忠治(享年41)
嘉永4年(1851年): 水野忠邦(享年57)
嘉永5年(1852年): 遠山景元(享年61)
嘉永6年(1853年): 徳川家慶(享年60)
嘉永7年(1854年): 永樂保全(享年60)



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E6%B0%B8






孝明天皇 (北朝血統)

孝明天皇1867年1月30日)。諱は統仁。光格天皇の孫にあたり、明治天皇の父に当たる。Wikipedia

天保2年6月14日(1831年7月22日)仁孝天皇の第四皇子として誕生。煕宮(ひろのみや)と命名された。傳役(養育係)は近衛忠煕が就いた。天保6年6月21日(1835年7月16日)、儲君となった。天保6年9月18日、親王宣下により統仁親王となった。天保11年3月14日(1840年4月16日)、立太子の儀が行われ皇太子となった。弘化3年1月26日(1846年2月21日)、仁孝天皇が崩御。2月13日、践祚した。

8月29日、幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。翌4年3月9日、学習所(学習院)の開講式が行われた。4月25日、石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈った。9月23日、即位の大礼が行われた。同月27日、将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代の酒井忠義と参賀した。代始の改元は、弘化5年(1848年)2月28日に行われ、元号は嘉永となった。

嘉永3年(1850年)4月8日に「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺へ命じた。嘉永6年(1853年)、徳川家定の将軍宣下の勅使として下向した三条実万は阿部正弘より叡慮があれば幕府が沿うようにすると説明を受けた。嘉永7年(1855年)3月3日、日米和親条約が締結された。同年4月6日、内裏が炎上した。同年11月27日、黒船来航、安政の大地震、内裏炎上と続いたため、元号を安政と改元した。

近衛忠煕って近衛文麿のじいさんだろ??

近衛(近衞)家(摂家) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~
reichsarchiv.jp > Top > 家系リスト
生没年:1143-1166; 父:摂政関白太政大臣 藤原忠通: 号:六条、中殿、摂津摂政: 1150 正五位下: 1150 左近衛少将: 1151 従四位下: 1151 ..... 近衛忠熙. 生没年:1808 -1898; 父:左大臣 近衛基前: 号:翠山: 1816 従五位上: 1816 従四位下: 1816 正四位 下: 1816 左近衛権少将 ... 生没年:1915-1956; 父:内閣総理大臣 近衛文麿: 陸軍少将 ; 妻:大谷正子1924-(父:本願寺管長事務代理 大谷光明): 1939- (養子)忠; 女:: 東 隆明.






その頃 うちのじいちゃんは・・・



 嘉永六年1853年 地球儀

 嘉永六年1853年 地球儀

 嘉永六年1853年 地球儀


 嘉永七年1854年

 嘉永七年1854年

 嘉永七年1854年