今回は、「鬼平犯科帳」からはじめるよ。
前回の問題 鬼平死後50年後、「遠山の金さん」が住んでおりました。現在は歯医者さんになっています。
活躍したのは、およそ230年前 11代徳川家斉の時代です。在任期間1787年~1837年
なぜ鬼平はヒーローとして語られてきたのか?
鬼平が務めた「火付け盗賊改」は、現在で云えばどんな役職だったか?
警視庁長官が町奉行ですから、警視庁の捜査一課長のトップ ドラマ「相棒」で云うと伊丹刑事に内藤第1課長かな?
殺人・強盗の犯罪捜査を専門に行うエリート部署です。
これが江戸時代では、火付け盗賊改という名前で呼ばれていた。
時には極悪人の場合は裁判に掛けることなく、鬼平は切り捨てることが許されていた。
007の「殺しのライセンス」みたいなもの。ただそれだけではなかった。それだけではヒーローと呼べない。
1 犯罪をなくすためために日本で初めて「職業訓練所」を作った?
人足寄場 犯罪者を更正させるための職業訓練所
鬼平は犯罪者を捕まえるだけでは犯罪を減らすことが出来ない現実があったのです。
当時犯罪を犯す人の殆どが「失業者」だった。その原因が「天明の大飢饉」1782年~1788年
三大飢饉と呼ばれ中でも最大級の飢饉 人はごはんが食べられなくなり、日本中で失業者が増えた
飢饉で多くの失業者が仕事求め江戸の町に集まって来た。江戸に行くと何とか食べられるんじゃなかろうか?
当然、江戸も不況ですから仕事もそんなにない。失業者が生きるために犯罪を犯してしまう。鬼平は
犯罪が生まれる土壌を変えないと治安が良くならない。それで世の中の問題を根本から変えるために
「職業訓練施設」をつくった。幕府からは相当な反発があった。罪人は打ち首・島流しなど罰を与えるのが当たり前
施設を造るのに莫大な金が掛かったが、鬼平が施設を造ったことで、犯罪が徐々に減っていった。
職業訓練施設を大名が見て全国に広まっていった。鬼平の言葉「罪を憎んで人を憎まず」の考え方現在にも生きている。
犯罪をなくすため現在では当たり前の職業訓練所などの更正施設 鬼平はヒーローとして語られるべき偉業を行っていた
また長くなりました。次回は、「怪盗ねずみ小僧」でも・・ネタがないな~。
「大塩平八路の乱」 乱と云えば幕府に倒される訳ですが、のちに明治維新を開くキッカケをつくった人物
明治維新の先駆けになったと云うことは、いまの研究者は認めている
大塩平八郎の乱 江戸時代では唯一の武士による反乱 反乱は失敗し首謀者の大塩は自害した。
大阪町奉行寄力を務め腐敗役人を成敗 正義感の強い人物で生草坊主を摘発したり身内の悪戯をとりしまったり
している。1800年代中盤 200年前の役人は、賄賂で是宅三昧よく時代劇で登場してきますね。これ当たり前
庶民は倹約令で贅沢を禁止 「天保の飢饉」餓死する人々が多くなっていった。
大塩は民に米を分け与えように幕府に懇願 一切取り合って貰えず 役人の贅沢は止まらない。
このままでは日本は滅んでしまう。考えた末 一向に救済措置をとらない幕府に対して「大阪奉行所の襲撃計画」実行
考え考えて保管されていた米を強奪するしかない それで計画を立てた。
命を懸けてまで守りたかったものは? 知られざるヒーロー新の狙いとは
失敗はしたがもしかするとすべての大塩の計算だったかも?
1793年~1837年 真の狙いは戦いに勝つことではなかった。自分は死ぬこと覚悟していたし
負けることも覚悟していた。本当の目的とは何だったのか? 挙兵した大塩のなかま達は旗に掲げた文字
「救民」だった。民を救わなくてはもう日本は終わりだ。真の狙いは幕府の腐敗を世に知らしめること
この当時幕府に対して反乱を起こすということは誰も考えていなかった。大塩は「幕府」はおかしいと云う
明確なメッセージを掲げた。世直し・民を救う 最初から自分の命は捨てるつもりで旗を掲げたと思う
武士階級に属する人が明確に瀑布に反乱の意志を示したのは最初ですよね。
のちに幕末の志士たちに(西郷隆盛)深い影響を与えた人物 幕府の悪政に苦しめられている庶民を救うために立ち上がる
キッカケになった事件では。大河ドラマになっていてもおかしくない人物
東京新国立競技場は、日本三大建築「南大門」「如庵」「代々木体育館」をヒントに造られた。
南大門からは細い木材を使った質素倹約の精神 如庵では斜めを使った空間の流動性 代々木体育館 その時代に
合った精神 入り口に被災地の木を使っています。北門・東門には東北3県 南門には熊本県の木材を使用。
新国立競技場は日本の三大建築技術が活かされている。隈研吾