我ら日本人には自由がない と智惠子は言った。
そう、日本には医療選択の自由がないのだ。
どうしてそうなったのか?
それを旗本退屈男が紐解いてみよう・・・
って、自分がやったわけじゃないか!
で、世界は西洋医学だけではないという事と日本だけはなぜか西洋医学一偏頭という記事でした。
その辺の事情は、アル股、じゃないか!アルマ・アタ宣言で理解されたと思いますが・・・
先回のbaka解説で、アルマ・アタ宣言を歪曲するような事を書いてシマッタ!のですが、
かいつまんで見ますと、世界は人口比で言いますと、西洋医学(日本では「科学的現代医学」としている様ですが)は少数派なんですね。
ただ、世界の先進国(お金のある国ね)達がそろって採用しているということで、国連WHOとかいう機関もあるし、まあ、医療の世界支配と言えば聞こえは悪いでしょうが、牛耳っているということでしょうね。
そのWHOは世界の医薬産業からの寄付金(まあ、言い方は寄付だけど、黙ってカネ出す奴居ないね、しかも営利企業だし)を貰っている事実。
いまや予算の七割だと言われ、増え続けているわけそのうち、八割にもなれば、もうリッパな営利団体ですよね。幹部さえどうこう出来ると後は上から下へ・・・と。
企業でも五割以上の(株)を所有できたら、もう「われのもんじゃい!」ってなるんじゃないの?
そして、下請け企業の新聞屋さんとかテレビ屋さんとか、諸々の情報産業を傘下に入れてしまえば、もう占めたもの。
しかも学者(御用専門)なども多く抱え、この娑婆は思うまま、そして、かかるお金は国民税金とくれば、団扇片手に鼻ホジホシしながら、せんべいかじっている(って、おい奧さん、怒るぞ)
もっとも、現代はエアコンかけて、ソファ~で横になってか・・・・
「ねえ~アンタ、茶碗洗ってくれた~~?」なんてドス声で声かけられた日には・・・
あ、脱線自己
ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー
松本英聖著 「医学と生命」 (1995年刊)より
210P
医療選択の自由権
「みんなで渡れば怖くない」、最近良く耳にする言葉だが、日本人の集団行動心理を見事に言い表している。弥生以来の農耕稲作民族が四つの島でひしめき合って暮らして来た日本人は、皆と同じ行動パターンをすることが習性であり、それがまた安心感に繋がるわけだ。
お上が西洋医学と言えば一斉に従い、戦争となれば一億玉砕を本気で信じ、戦後は官民一体となって経済大国へと狂奔する。兎に角、良きにつけ、悪しきにつけ、一億が一体になって行動するという不思議な民族である。
だから世界人口の七三%が今なおそれぞれの民族固有の伝承医学を頑なに守り続けていると聞いてもピンと来ない。むしろ「古臭い伝承医学やいかがわしい民間療法が未だに行なわれているのは、彼等が貧しく、教育や文化水準が低いからだ」と見下して受け取りがちだが、これは日本人特有の集団意識によって、自分達がやっていることは世界中に通用すると思い込んでいるだけ。
昨今、ー日本の常識は世界の非常識とよく言われるが、その通りである。
しかし、世界には三大伝承医学を初め、様々な伝承医学が現存しているのだから、これらの医学を謙虚に認めて尊重し、それらの医療を受ける権利を保障することが大切である。その意味で〝医療選択の自由〟は、〝信教・思想の自由〟と同じ基本的人権の一つであって、何れの医学を選ぶも個人の自由であることを、決して忘れてはなるまい。
現代医学を選ぶのも自由、東洋医学を選ぶのも自由、そして医療を拒否することも自由であって、こうした〝医療選択の自由〟を保障する社会こそ真の意味での民主国家である。
ともあれ国際化時代を迎えた今、世界の医学は多極化時代に向けて大きく前進していることを強調して置きたい。
アメリカの教訓
医療選択の自由権に関連して、アメリカで実際にあった事例を紹介して置こう。
かってアメリカで脊椎矯正法(カイロプラクチック)が公認されていなかった頃(一九四〇年代)の話である。
当時カリフォルニア州ではプラクチックが禁止されていたにも拘わらず、約六百人のカイロプラクター(整体師)が潜(もぐ)り営業をしていた。ところがある年一斉手入れがあり、四五〇人ものカイロプラクターが偽医者として逮捕投獄されるという事件が起こった。
この時である。彼等の患者達が続々と刑務所に押し掛け、「どうしても彼の治療を受けたい。何とかしてくれ。州政府は我々を見殺しにするのか」と強硬に迫った。驚いたのは当局で、施術者は捕らえたものの患者達の要求を無視することも出来ず、さりとて法を曲げるわけにも行かない。すったもんだの末、ついにカイロがカリフォルニア州を皮切りに合法化され、この流れはやがて全米各州に波及し、一九六〇年代には全ての州で合法化されるに至った。
こうした当局の弾圧に対する民衆の抵抗運動によって、漸く〝医療選択の自由〟が基本的人権の一つとしてアメリカで確立するのである。つまり医療を選ぶ権利は何人も、仮え国家権力と錐も犯すことの出来ない基本的人権であって、国家はこの権利を尊重し保護する義務があるという考え方である。
では、日本はどうか。
日本ではアメリカの占領時代(一九四八年・昭和二三年)に、占領政策の一環としてカイロを含む全ての民間療術は一方的に禁止(当時はアメリカでも禁止時代)され、それ以来、今日まで(四十年間)民間療術は一切認められていない。
ところがこの間、一九六三年(当時アメリカではマサチュウーセッツ州以外は全ての州でカイロは合法化されていた)に最高裁が《有効無害な療術行為(カイロも含まれる)は無罪》との判決を下しているにも関わらず、当局は未だに療術を公認しようとしていない。
しかし、現代のように民間療術を望む人が増えている時代では、その人たちの医療選択の自由を保護することが民主国家の務めであり、世界の大勢でもある。
国民は黙ってスッコンでおれ、と言われて泣き寝入りしているようでは自分の健康は守れない。
ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー
ところが、知ろうとは黙ってスッコンでおれ! と一括されて
キャイ~~~~ンと逃げて来た和紙としましては・・・
恥ずかしい話で。
それよりも、まわりの国民から非国民よわばりされてしまうのが一番怖いのであります。
「あのシト、あたま変よ~」とか「気がおかしいね・・」とか
とにかく、村八分になるのが怖いんです~~♪
だから、猿になった。三猿主義を貫き通すだけ。
だいたい、猿たちばかりの村で人間になったら大変。猿の惑星じゃないけど「人間のくせに」などと囃される?
まあ、最近は少しばかり良くなってきたけどね。
それでも未だ未だこの日本猿、じゃない!日本人社会は、西洋医学だけが正統医学だと思い込んでいる。
それは明治維新の時、薩長連合が西欧にflattery(おべっか)使って、とにかく西洋、西洋、西洋となんでも噛んでも西洋が一番としたときから始まったのです。
ま、明治、大正時代の映画見ていても、上流階級のシンボルとしては、食事の場面ですね。
まあ恥ずかしくも、テーブルと椅子が必ずセットされてね、いかにも西洋風の食事となるわけ。
今でもそういう欧米か!現象は続いているわけで、パパ、ママ~などと呼ばせて悦になっている猿、じゃないか! ニッポン人なんでしょうから、医療もはやり最高は欧米か!というわけで、科学だ科学だと囃し立てて、進歩駄進歩だと囃し立て、かねだカネだ湯水の様に使いっぷりのよい粋な姿を自慢しつつ、ついにはガン大国まで作りだして、まだまだこれからだ~~!と鼻息も荒く・・・
ところが、菜っ葉に塩菜、ナメクジに塩か
悄悄(しおしお)し出してきたのが、つい最近の模様。
それもこれも日本人には基本的人権「医療の選択権」が無い という事から始まっているのでしょうか?
しょうか?って
そうなんだよ~~! と強く言わないところが逃げ腰のところだが・・
「茶碗あらってこよ~~~~♪」
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