ここまで世界中の多数の人たちをコントロールするには、とてもとても・・・トカトントン♪
いや、ここまで見事に世界中を恐怖や不安にさせて、実行させる諸々の政策や法による規制などは立派なものでした・・・
ところが、世界は「気がつく時代」に入っているので、長続きはしない
いわゆる「夜の闇の時代で通用してきた、嘘やねつ造満載中の世界」は
ここいらで、「トカトントン♪トカトントン♪・・」の音がなり始めると途端に夢から覚めるという、まことにゆゆしき時代になってきたようです。
スカス、いまだに夢の中のお化け屋敷の遊戯が楽しくて、楽しすぎるのか「キャ~~」だの「ぎゃ~~~」だのと楽しい叫び声を発している人たちも少なからず(ほとんどだろうが!)居られるようで、時分が怖いからといって他人様にまで「そら、怖がれ、ほら怖いだろ~」しきりに強制するのはいかがなものかなと・・・
そういう人たちにもいずれは・・・トカトントン♪トカトントンの響きが聞こえてくるのが「昼の時代という嘘やねつ造がいやでも白日の下にさらされる」時代なのです。
(オマエのアレも暴露されるなあ・・ギャア~~ 自縛好きもの)
そんな個人的な事はどうでもイイのです!
問題は心の作用がいかに身体に影響されるか!
そこです!! (ふん、オマエのことを隠そうと一所懸命だな・・)
医薬品の4割近くはプラシーボ効果だと言う専門家がいるらしいですが、そんなことがバレたら・・・トカトントン♪
さらに、不思議な事に手術でさえもプラシーボ効果が出たという実験結果まであるのです。(しても、したふりをしても立派な効果が出てシマッタ)
まあ、シマッタ現象はボクたちの日常生活ではありすぎるくらいあるのですが、これが社会全体や人類多数になると、これは怖い。
プラシーボ効果なら良いのです。
が、反対にノシーボ効果というマイナス効果が実に多いのです。
それがありもしないことでも、「不安や恐怖心」で実際に創り出されてしまうという事です。
そのテクニックは古今東西常に使われてきたのですが、いまの新型コロナ騒動もかなりノシーボ効果を利用しているのでないだろうか? と思っているからです。
特に効果を期待するには、事前の準備がかなり長期間かかって植え付けられること。多数の人間に影響を与えるにはそれこそ、小説映画などの物語に仕込んでおき、各国の政府や官僚はもちろん、専門分野の学者たち・・みなトップに位置するひとたちを教育しておく必要があります。
それに従わないとか異論を持つものはあらかじめ、上には立てないようにしておくこと。また出世や権威筋からは遠ざけておく。
そして、最大の宣伝局(洗脳ロボット製作局)としてメディアでしょ♪
ここを押さえておく。
あとは大多数のひとは子供時代からの教育で仕込み、いざというときには即反応する・・・トカトントン♪
まあ、時には生まれながらのイソギンチャク、じゃないな、アマノジャクが居るのですが、こういうのはいざというときには多数に無勢だから、「非国民」にしてしまう(それをするのは一般大衆だから、わざわざ上の方からしなくても、勝手にしてくれる♪)
さて、トカトントン♪トカトントンを鳴らして、この非国民的思考はおわりにします。
Googleの検索にも引っかからないように、セットされているかも知れませんしね・・・トカトントン♪
あ、いつものように、無駄で意味もなんにも見当たらない前書きはおわりですが、ここからが本番ですよ。
(え?誰も居なくなってる・・・・トカトントンの響きあり)
ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー
book「思考のすごい力」より
第三章でお話ししたように、物質とエネルギーは不可分のものだ。ということは、論理的に考えると、心(エネルギー)と身体(物質)も同じように不可分のものだといえる。だが、おそれ知らずの西洋医学は、ここ数百年というもの、この両者を別ものとして分けようとしてきた。
十七世紀、ルネ・デカルトは、物理的な存在である身体に心が影響を及ぼすという考え方を放ほう逐ちくした。
デカルトの概念によれば、物理的な身体フィジカル・ボディは物質で構成され、一方、心のほうは、正体不明ではあるが明らかに非物質的な何かによって構成されている。心とは何なのか、デカルトはついに明らかにすることができなかった。あとに残されたのは、「物質が物質だけに影響を及ぼすのならば、非物質的な心は、物質で構成された身体に、どうやって『結びついて』いるのか?」という解明不可能な哲学的難問である。
デカルトが思い描いた非物質的な心については、「機械の中の幽霊」と呼ばれることがある。これは、いまから六十年ほど前に、ギルバート・ライルが著書『心の概念』の中で用いた表現だ[Ryle 1949]。ニュートン的な唯物論的宇宙を基礎とする従来型の生物医学は、心と身体を分けるというデカルトの考え方を歓迎している。医学的には、身体にちょっかいを出してくる「幽霊」は放っておいて、機械的な身体を治すほうが、遥かに簡単なことだといえる。
しかし実際には宇宙は量子的である。心と身体はデカルトによって分離されたが、量子宇宙によって再び結合されるのだ。
たしかに、デカルトの考えたように、心(エネルギー)は物質的な身体から生じてくる。だが、宇宙のしくみに関する新たな認識をもとに考えれば、どうやって物質的な身体が非物質的な心に影響されるかがわかる。身体の生理的機能は、物質でできた脳によってコントロールされているが、心のエネルギーである思考が、このコントロールの仕方に直接影響を与えるのである。
思考という「エネルギー」は、第三章で説明したように、強め合う干渉、あるいは弱め合う干渉というしくみによって、細胞機能の元となるタンパク質を活性化したり抑制したりできる。だからこそ、人生を変える最初のステップを踏み出したとき、わたしは自分の脳のエネルギーがどこで使われているのか、細心の注意を払って検討した。身体にパワーを与えるのにどれぐらいのエネルギーが費やされているのか精査するのはもちろんのこと、脳が費やしたエネルギーがどういう結果をもたらしたのかをしっかりと見届けることも必要だった。
量子物理学が真実を明らかにしていったのに、西洋医学では心身二元論が相変わらず幅をきかせている。
先に述べた少年のように、科学者は、遺伝子の「指令」による疾患を心の力によって治したというような例を、奇妙な例外として無視するように訓練されている。だが、例外こそ大事にして研究すべきだとわたしは思う。例外には、生命の本質を理解するための、より強力な手がかりが隠されている。例外の背後に隠された原理を見いだせば、それを切り札として、「真実」を打ち立てることができる。
実際、心の力を生かせば、薬(あなたは薬が必要だとプログラムされているかもしれないが)を飲むよりもずっと効果があがる。第三章で紹介した研究によれば、化学物質よりもエネルギーのほうが、物質に対して効果的に影響を与えることがわかっている。
残念なことに、往々にして科学者は、例外を大事にするどころか否定してしまう。心と身体のあいだに相互作用があるという真実を科学者が否定した例を紹介しよう。十九世紀ドイツの医師、ロベルト・コッホにまつわる話で、二〇〇〇年に『サイエンス』の論文で紹介された。
コッホはパスツールとともに細菌説を確立した。これは細菌やウイルスが疾患の主要な原因となるとする説である。
現在ではこの説を修正したものが広く受け入れられているが、コッホの時代には論議の的となっていた。
コッホはコレラ菌がコレラの病原体だと主張したが、それに反対するある科学者は、細菌説は絶対に間違っていると信じて、コレラ菌を入れたコップの水を平然と飲み下してみせた。誰もが驚いたことに、この学者は猛毒の病原体にやられずにすんだ(訳註:自飲実験を行なったのは、当時、衛生学の権威であったペッテンコーファー。化学的・疫学的にコレラを研究し、環境汚染がコレラの主因であるという説をたて、コッホと対立した。綿密な実験計画に基づいて行なわれた自飲実験では、ペッテンコーファーは弟子と二人でコレラ菌を飲んだ。ペッテンコーファーは下痢は起こしたものの、脱水症状は現れなかったので、コレラ菌には感染しなかったと判断される。
ちなみにペッテンコーファーは森外のドイツ留学時代の恩師である)。
『サイエンス』の論文には、この事件について「理由はわからないが、彼には症状は出なかった。だがそれでもやはり、彼は間違っていた」と書かれている
彼は死ぬことなく、しかし、『サイエンス』によれば、彼の批判は〝間違っていた〟。これは、細菌説が満場一致で支持されていることを反映している。だが本当に〝間違っていた〟のだろうか? そう断言するのは大胆に過ぎないだろうか?
ある細菌がコレラを引き起こす、という主張に対し、その細菌によって、自分は病気にならないことを示した人がいる。いったいどうしてその人が〝間違っていた〟ことになるのだろうか? その人がどうやって恐ろしい病にかからずにすんだのかを調べようともせずに、科学者たちは、この事例や、その他、科学の理論をそこなうような〝厄介な〟例外を、無邪気にも捨て去ってしまう。
遺伝子が生物の機能をコントロールするという「教義」を覚えているだろうか? これもまた、自分たちの真実を正当化するのに熱心な科学者たちが、厄介な例外を無視している例の一つである。
問題は、理論というものには例外はあり得ないことだ。例外があるならば、それはその理論が完璧ではないことを意味している。
現実に起こっていることが、確立された科学的な信念に対して異議を申し立てるという例は最近でもある。古代宗教で行なわれる、火の上を歩くという行為に関するものだ。
真理の探究者たちが集つどい、熱く焼けた石炭を敷き詰めた上を歩いて、通念を乗りこえ、知見を拡大しようと努めた。石炭の温度や、足が触れている時間を考えると、医学的には火傷やけどができるはずなのに、数千人もの参加者が無傷でこの行為をこなしている。実は石炭がそんなに熱くないんじゃないか? と思うかもしれないが、結論を急いではいけない。同じ石炭の上を歩いて、ひどい火傷を負った人々も多くいる。
同じような例は他にもある。HIV(エイズウイルス)がエイズを引き起こすことは、科学的に明らかにされている。
だが、このウイルスに感染しても何十年も発病しない人が多くいることについては、なぜそうなのか、科学的にはわかっていないのではないか。
もっと不可解なのは、末期ガンの患者で自然治癒する例があることだ。そういった治癒は従来の科学理論の枠外にあるため、それが起こったことは完璧に無視される。ガンの自然治癒は、現在の知識では説明できない例外、あるいは単なる診断ミスとして片付けられてしまう。
ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー
ウイルス感染 怖い怖いと思っている人
蛇は怖い怖いと思っていると、かえって見てしまう現象が似ているかな?
コップの中の一割を全部に当てはめて考えるひと
恐怖心と実際は密接な関係にある
というのが、精神世界だけの考え方ではなく、いまや量子物理学からも決定されているようですよ。
スカス、意味も知らないで安心という訳にはいかないので、
なぜ、ウイルスは感染して発症する人が居るのか(全体から言えば少数派なのだが、それを全体に当てはめるという愚かな恐怖心が本態なのね)
それを何度も紹介した記事でも探してみてチョ。
まあ、死ぬまで死なない という安心があれば、一切不要ですけどね。
その死ぬをはなっから否定しているから怖いのかも。
え? 人並みに死にたい?
それはむりでしょうなあ~~~トカトントンの響き
次は、
否定的な考えを排除、肯定的に考える
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