わたしんちの医学革命と雑多な情報

「医学革命」とは薬からの解放への「個人の気づき」の事である。雑多な情報も「取捨選択」&「鵜呑み厳禁」はセルフサービスにて

「錯覚の医学と錯覚のにんげん」 を錯覚のワタシが読む

2019年02月25日 | 医学と健康

じんるい皆きょうだい♪

そして、じんるいは皆さっかくだ~~~!  

なんて叫びたい今日この頃でございます。

 

 まあ、自分自身が錯覚しているのか、他人が錯覚しているのか?

そんな見分けもつかない錯覚にんげんとしては、どれがどれだか~~

 

そんなアナタに「エビデンス(科学的根拠)」というダンスのネタを贈りましょう。

 そうか~~、科学的根拠・・・エビデンス・・・・心地よい響き♪

でも、その「科学的根拠・・・エビデンス」にも妖しいものが多いというから、もうアタシどうすればイイの~~


 

 他人様のふんどしから

読書録より

ーーーーーーーーーー以下転載ーーーーーーーーーーーーー

錯覚の科学

錯覚の科学 クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ著 木村博江訳

ある認知心理学の実験が行われた。白と黒のシャツを着たチームがバスケットの試合をする短いビデオを学生に見せ、白チームだけパスの数を数えるよう指示し、パスは空中で受けてもバウンドでもカウントし黒は無視するよう頼んだ。学生はほぼ正確に数を告げたが、実験の本質は別のところにあった。ビデオの途中、ゴリラの着ぐるみを着た女子学生が登場し、選手の間に入り込み、カメラに向かい胸を叩きそのまま立ち去った。およそ9秒間の出来事であったが、パスの回数を聞いたあと「他に変わった事がなかったか」を質問した。驚いたことに、およそ半数の学生がゴリラに気づいていなかった。本の副題はThe Invisible Gorilla(見えないゴリラ)と書かれている。この実験は条件や参加者も変えて行われたが、結果はいつも同じで約半数の人がゴリラを見落とした。

この見落としは、予期しないものに対する注意力の欠如から起きる。そこで科学的には、非注意による盲目状態と呼ばれている。

ゴリラが見えないのは、視力に問題があるからではない。目に見える世界のある一部や要素に注意を集中させているとき、人は予期しないものに気づきにくい---たとえそれが目立つ物体で、自分のすぐ目の前に現れたとしても。

さらに興味深いことには、ゴリラを見落とした人たちが、見落としを知った時の驚愕ぶりだった。なかには「絶対にゴリラは見なかった」と言い張る人や「テープがすり替えられた」と非難する人まで居た。手品や魔術師のトリックも錯覚を利用するものが多く、私達はタネ明かしを知らないまま驚き楽しんでいる。錯覚で楽しむだけならまだ良いが、失敗や事故に結びつくようであれば事は重大だ。たとえば自動車対バイクで考えてみよう。自動車のドライバーはバイクの前を横切って左折したり、路地から出てきたバイクや車線変更時にバイクと衝突する。事故の後、「よく確認したのに、まったく見えなかった」といい、バイクの被害者は「車のドライバーはこちらを見ていたのに急に目の前に飛び出した」という。車のドライバーは自動車の動きに注視するあまり、バイクや自転車や人など予想外のものを見落としがちだ。ゴリラの実験と同じことがここでも起こり注意を促しても、バイクの色や運転手の服の色を目立つものにしても変わらなかった。一時的に注意はしても緊張は続かず圧倒的に車が多く、バイクが少ないパターンに慣れてしまう。逆にバイクや自転車、歩行者が多い場所では事故の割合は少ない。不案内の道を標識や信号を気にしながら運転したり、慣れた道でも考え事などしていると、ゴリラの実験に参加しているような状況に陥る。歩行者や車、バイク、ときには信号さえ見落としかねない。即事故に直結しないのは、ドライバーや歩行者が互いにミスや不注意をかばいながら動いているからだ。注意の錯覚は日常身辺に起こり、飛行機や列車、機械の操縦や医療ミスなど命に関わることがある。ゴリラの実験は視覚的なものであるが、視覚に限らず五感すべてに当てはまる。

ゴリラの実験が示したように、人は自分が予期するものを見る。同じように、人は自分が予期するものを記憶することが多い。期待が、ある場面に意味を与え、その解釈が記憶に色をつける。それが、記憶を決定してしまうことさえある。

見聞きしたものを疑いもなく記憶に焼きついたと思い込む。ところが事象の周辺のざわめきで攪乱され間違ったものが焼きついてしまう。その記憶に自信をあたえるのが、自信の錯覚である。私達は2重3重の錯覚で歪んだ認識を事実だと信じて疑わない。自信の錯覚には感覚の他、自己の能力不足が関与するという。好成績を収めれば自分が優秀だと思い、失敗すれば調子が悪かったと考え、明らかな能力不足の証拠を無視する。能力が不足しても自信ありげに振る舞えば、周囲は有能だと騙されてしまう。

患者は医師が正しい判断をするものと信じ込むことが多いものです。そしてその気持ちが、科学的な現実を超えることもあります。患者は医師の決断を、自分自身の決断以上に信じるようになる。そこが問題なのです。相手の気持ちにうながされて、医師は自分にわかることとわからないことについて、正直でなくなる。

ここからは医療に限って話を進めるが、医師ないし治療家は個人商店の社長のようなもので、一定の裁量を与えられ批判も少なく自由度が高い。自信の拡大は連鎖的に続き、それにつれ患者は神のごとき明察力をもつ聖職者として敬うようになる。医師の振る舞いはますます錯誤の世界に迷いこんでいく。危険なのは自信が知識や能力を上回ったときだ。医師は事実を冷静に真摯に見つめる姿勢が要求される。知らないことや出来ないことを認め、できることの限界を学ぶ必要がある。錯誤を克服する一つの有力な方策は根拠に基づく医療(EBM)と呼ばれるものだ。EBM以前は治癒例を根拠にした医療が行われ、常識的に至極まともで間違いないものと考えられた。しかし、治癒例から導かれる根拠には原因や因果関係の錯覚が潜んでいる。体裁良く言いかえればパターン認識と呼ばれるもので、多くの仕事に要求される大切な能力の一つだ。医師は症状から処置の決定と経過を予測し、カウンセラーは思考や行動のパターンから対処の手がかりをつかむ。株のトレーダーは株価の動きなどから自らの取引パターンを見出す。これはスポーツ、商売、生産などあらゆる分野に及ぶ。

私たちは実際にはないパターンをあると思い、実際にあるパターンをないと思ってしまう。くり返しのパターンが実際に存在するかしないかは別として、パターンの存在を感知したとき、私たちはそこに因果関係を読み取りたがる。私たちの記憶は、自分が記憶すべきだと考えるものにあわせて変形する。そして、自分があらかじめ期待していないものは、目の前のゴリラであっても見落とす。同様に、周囲のことがらに対する私たちの理解は、無作為なものに意味を求め、偶発的なものに因果関係を求める方向で、ゆがむことが多い。そしてたいてい、自分ではそのゆがみにまったく気づかない。

医療に於いて先人たちの膨大な経験や意見が診断・治療の礎とされてきたが、ここには多くの因果関係の錯覚が溢れていた。漢方を例にとれば、錯誤と倒錯の積み重ねが理論の構築を支えた。体が大きく暑がりで食欲もあるので実証で陽性、体は小さく寒がりで食欲はないので虚証で陰性と、見た目と問診で分類し実証には瀉剤を虚証には補剤を与える。偉い漢方医は証が合えばすべての病が治ると喝破する。漢方薬の症例では「薬を投与した、治った、だから効いた」と言う「三た論法」がまかり通る。前後に起こったことや、同じ動作で似たことが続いて起こることで、因果関係の錯覚を起こす。もっともな論文であっても、比較すべき対照群に欠け本当に有効かは解らない。効かなかった多くの症例も検討しなければ公平ではない。漢方に限ったことではなく仕事に一定の自信を得た治療家は、自らの経験と判断力を頼りにパターンを作り上げる。私たちは医師が多くの選択肢の中から適切な診断を下すものと思っているが、実は不適切な診断を排除する能力が求められる。医師は自分の予測パターンと合致するかどうか検討するわけだが、それが有益に機能することもあるが、予測のレンズを通して見ることで理に叶った予測も、予期しない原因によって裏目に出ることがある。

私たちは挨拶代わりに天気が悪いので頭痛がする、関節が痛むなどの言葉を交わす。このパターン認識は正しいのだろうか。1972年に行われた研究では関節リウマチの患者8~9割が、気温も気圧も低く、湿度が高いときに激しい痛みを訴えたと報告された。以前の医学書には一章を費やして気候と関節炎の関係が記述され、温暖な乾燥地帯への転地を勧める医師もいた。しかし、本当に気候が影響を与えるかどうか、別の研究ではまったく因果関係は認められなかった。このことが明らかになった後でも雨の日が痛みが増すという人が絶えない。天候の良し悪しと体調を関連付ける錯覚によるものではないかと考えられる。ジンクスと言われるものに原因の錯覚を端的に見ることができる。パターンから相関関係はありそうに思えるがここに因果関係を見出す唯一の方法は実験しかない。たとえば疫学調査で野菜を食べている人の健康状態を調べ、いつも野菜を食べている人のほうが、食べていない人より健康だという結果が出た。これはあくまでも野菜を食べることと健康との関連性を示すもので、野菜を食べれば健康になるという証拠にはならない。健康を維持するには野菜を食べること以外の多くの要因が関っているからだ。研究結果が未消化のまま大衆受けする話題に味付けされることがしばしば起る。意図か錯誤かテレビの番組や雑誌では○○で長寿とか○△で病気が治るなどと、まことしやかに騒ぎ立てる。正しく因果関係を検討するには、無作為という厳密な条件下での実験を必要とする。では正しい結果が分かれば錯覚は起こらないのだろうか。ゴリラの実験で明らかにされたように、それでもなお錯覚から逃れえない。

ある薬が有効だという仮説を研究者が試す。無作為に抽出したグループにその薬を投与し、もう一つのグループには偽薬を投与して、結果を計測する。問題が生じるのは、人びとが結果について考えるときだ---科学を信じるか、誤りの多い自分の直感を信じるか。あるいは、自分のほうがよくわかっていると思い込むか。

ここでは医療に関していくつかの例を取り上げたが、本では6つの錯誤実験(注意・記憶・自信・知識・原因・可能性)が書かれている。いままでもこれからも錯覚の連続であり、錯覚から逃れえないだろう。話は大袈裟になるが世界は実像と錯覚しつつ、自分の都合で成り立つ幻影かも知れない。

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

「ニセ医学にだまされないために」(笑

目くそ鼻くそを笑う

のたとえ通り、どうやら我々は錯覚人間としての自覚が消滅しているために、

「科学的根拠」という言葉についついだまされてしまうのではなかろうか(笑

 

 まあ、思い込みこそ、人間がこの世で楽しむための必須アイテムなんかな~?

 

  絶対的科学的根拠など、かなりあやふやな思い込みが含まれているのかも

そうなると、ヒカガクテキ分野も怪しさいっぱいながらも同質なのかもしれないですゾ~~~

  トンデモ論も実は未来の科学的根拠・・・エビデンスになり得る可能性も含まれている   

かも知れない

 

 

かも知れない?

 

 

 

 

 

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