今回のまとめは→こちら
「高天神を制す者は遠江を制す」とうたわれた【高天神城】
【歴史】
築城時期は諸説あり不明だが、16世紀初めには今川氏の家臣福島氏が高天神城主になったと伝えられる。その後、福島氏が没落すると、小笠原氏が城主となったが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦い後、今川氏の勢力が衰えると徳川氏に臣従する。高天神城は甲斐の武田信玄の攻撃にも持ちこたえたが、後に子の勝頼が攻め落とし、城を改修して城番を置いた。だが、徳川氏が付城を築いて5年かけて包囲した。最後は天正9年(1581)、城兵は全員討って出て玉砕した。その後城は廃城になった。
【縄張り】
鶴翁山は遠江の小笠山から南東に延びる尾根の先端に位置し、北には掛川城、南には遠州灘があった。高天神城の城域は尾根の鞍部(尾根が中くぼみになったところ)にあたる井戸郭を境にして東峰と西峰に大きく分かれ、一城別郭(二つの曲輪〔群〕が補完し合って一つの城として機能する)と呼ばれる構造を持つ。東峰には本丸や御前曲輪などの曲輪郡が、西峰には西の丸を中心にして、二の丸、袖曲輪、堂の尾曲輪などが配されていた。
、、、続日本100名城ガイドブック(学研プラス)より
【場所】
静岡県掛川市上土方嶺向
県道251号線(掛川大東線)掛川警察署城東駐在所近くに高天神城追手門入り口(南口)があるようです。
自分は駐車場がある搦手門跡側(北口)から登城しました。
工業団地側からの入り口にある案内標識
城址がある鶴翁山遠景
【遺構】
天神山城想像図があったのでわかりやすかったです。
現地案内板より
南北が逆となっていますが、進行方向と同じなのでこちらのイラストマップも便利でした。
現地案内板より
北口駐車場から登り始めてすぐの処にある鳥居、搦手門跡です。
城跡石碑や搦手門案内板が設置してあります。
高天神城の北側の入り口(裏口)。
元亀2年の武田信玄による城攻めの時には250人が守備したところと伝わっています。
ここから東西尾根の分岐に向け舗装された遊歩道(搦手道)を登っていきます。
程なく小さな水溜りが有りました。
「三ヶ月井戸」です。
岩から清水が湧き出しているという場所で、山城では貴重な水源だったのでしょう。
今は金魚?色鯉?が放たれ、小さな水溜りにしか見えませんでしたが一服の清涼剤のような清々しさを感じました。
東西の嶺を分ける分岐点に到着。
右手は西峰に至り、左手は東峰に至ります。
西峰縄張り
現地案内板より
西峰には尾根の北側先端より「井楼曲輪」「堂の尾曲輪」「袖曲輪」「二の丸」といった曲輪が一列に並ぶように配置されています。それぞれの曲輪は堀切・竪堀によって分断され、曲輪の西側には100mにも及ぶ横堀と土塁を築くことで守りを固めています。こうした防御施設が存在することにより、西側から侵入してくる攻め手は、西峰の曲輪に上がることができません。最終的に攻め手は、横堀を通路として使わざるを得ない状況に陥ります。一方で、曲輪の上にいる守り手は攻め手側の頭上を攻撃することができるため、的を絞って迎え撃つことが可能になりました。
西峰は本丸などの曲輪が有る東峰と違い、西側の傾斜が緩やかとなっています。天正2年(1574)に高天神城を攻略した武田勝頼が地形の弱点を克服するため、西峰の大改修を行ったと考えられています。
「井戸曲輪」
かな井戸
山城の生命線である水の手。ここでは天正2年の武田軍との激戦があった。
「合戦没者慰霊碑」
「鐘曲輪」
「西の丸」
「堂の尾曲輪」
高天神社
城中守護の神社
約290年前に御前曲輪跡から現在の場所に移されました。
土塁
堀切
堂の尾曲輪と袖曲輪の間の堀切。
往時は上に木の橋が架かっていたことが発掘調査の結果からわかっています。
西の丸と馬場平の間に有る堀切
「馬場平」
城の南側を見張るための番屋があったと考えられています。
馬場平からの眺望西側
眼下には6km先の「横須賀城」の辺りと遠州灘が広がります
「甚五郎抜け道」
徳川勢によって落城した際、本国の武田勝頼に報告するため横田甚五郎がこの抜け道を通った難所。
犬戻り・猿戻りの難所
ここから元来た分岐まで戻り東峰に進みます。
東峰には「本丸」「御前曲輪」「的場曲輪」「三の丸」などが配置されています。
「的場曲輪」
近年の発掘調査で砂利が敷き詰められていたことから、重量物の置き場もしくは湿気防止が必要な火薬置き場だったと推測されています。
「大河内幽閉の石窟」
天正2年の開城時に最後まで武田勝頼に降伏しなかった大河内源三郎政局が7年にわたって幽閉された石窟。
「本丸」
東峰の最高所に位置し、西側には土塁、東側は絶壁で自然の地形を利用した鉄壁の守りとなっている。
発掘調査の結果、城内で最大規模の建物と籠城に備えた備蓄倉庫のような建物の跡が確認されています。
本丸土塁跡
元天神社
城中守護の神社として最初に建てられ場所。
江戸時代中期約290年前に西峰に移されました。
模擬天守台跡
昭和初期地元出身者が模擬天守を建てたが昭和20年に焼失。(一説には駐屯していた陸軍が破壊したともいわれているとか)
御前曲輪からの眺望(東側)
徳川家康が高天神城奪還のため包囲網を敷いた付城・砦跡が見えます。
「三の丸」
本丸東側、一段低い場所に築かれた三の丸
分岐
三の丸作平地
現在は休憩所が建っています。
土塁
堀切
三の丸から南へ下がった追手門の近くにある「到着曲輪」
土塁
武田軍が攻めてきたことを知らせた、見張り台があったと考えられています。
「追手門・追手道」
南側の入り口を「追手」、北側の入り口を「搦手」と呼んでおり、追手が表の入り口、搦手に裏の入り口があったと考えられています。追手門の詳細な位置や規模は不明ですが、追手門の礎石と伝わっている平らな石が1基、斜面に食い込む形で残されています。
追手門跡
追手門大杉
追手道
【まとめ】
ちょうど1年前、横須賀城を見学した際すぐ近くにあったこの高天神城をスルーしたのが痛恨の極みで、今回ようやくリベンジできました。
1時間弱をかけて1.7Km、約200mのアップダウンを走破しましたが、西峰の西側斜面に掘られた長大な横堀と土塁を見ることができなかったのが残念でした。
ヤマップ行程データ
ヤマップ3D
【御城印】
提供施設:掛川観光協会→こちら
場所:JR掛川駅南口構内
2022年9月11日購入
【高天神城】
《徳川・武田が奪い合った要衝の城》
名称(別名);鶴舞城
所在地;静岡県掛川市上土方嶺向3136
城地種類;山城
標高/比高;132m/104m
築城年代;不明、永正10年(1513)以前に福島氏が在城
廃城年代; 天正9年(1581年)
築城者;不明
主な改修者;武田勝頼
主な城主;福島氏、小笠原氏
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;曲輪、堀、土塁、井戸
近年の主な復元等;
※出典、、、続日本100名城公式ガイドブック(学研プラス)ほか
地図;
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