御館(おたて)は、小田原城主北条氏康に敗れ、越後に逃れた関東管領上杉憲政のために上杉謙信公が造営した館で、後に憲政から関東管領を継いだ謙信公が政庁としても使用したと言われています。
御館は、古い地籍図から二重の堀に囲まれた東西250m・南北300mの大規模な館であったと考えられています。東京ドームの1.6倍の大きさでした。中心の郭は、四方を堀で囲まれた東西120m・南北150mの規模で、ここ御館公園の6倍の大きさであったとされています。発掘調査が行われた40数年前に、越後の中世史を語る貴重な遺跡であることから、中心部分が「御館」の名を冠した公園として残されました。
少し足を伸ばしてJR線路まで出てみれば、右手に見える独立した山が春日山城です。、、、現地説明板より
【御館の乱】
天正6年(1578)に上杉謙信公が没したのち、二人の養子景勝公と景虎公が跡目を争った「御館の乱」が起こりました。
景勝公は、謙信公の軍事拠点の春日山城を、一方景虎公は政治拠点の御館を占拠して戦ったのでしょう。翌7年3月、景虎公が立て籠もる、ここ御館が景勝公の総攻撃を受けて落城。景虎公は妙高市の鮫ケ尾城で自害。二年に渡り越後の国を二分した争いは、御館の落城と景虎公の自害により幕を閉じました。この時、至徳寺などの名刹や府中の6千軒が焼けたと伝えられています。
この争いの中で目覚ましい働きを見せたのが景勝公の重臣、樋口与六、後の直江兼続公です。この戦功により兼続行は奉行に取り立てられ、上杉家の中で重要な地位を占めるようになりました。
御館の発掘調査では、鉛や青銅製の銃弾のほか、武具や刀剣類が見つかりました。ゆがんだ銃弾は、御館の乱で実際に発射されたものとも言われ、攻防の様子を今に伝えています。、、、現地説明板より
現在は住宅街にある小さな公園で訪れる人も少なく、石碑と説明看板があるのみです。
説明板にある平面図をみてみると、主郭をいくつもの建物と堀が取り囲み、想像図にあるような壮大な御殿だったようです。三郎景虎が二年にもわたって籠城したという事は難攻不落の要塞のようでもあったんだなぁと感じさせます。
区画整理の関係でしょうか、往時の配置の向きとは角度がずれており、掘などの遺構を忍ばせるものはなく、今は住宅地とJRの線路の地下で静かに眠っています。
春日山城の記事は→こちら
景虎終焉の地鮫ケ尾城の記事は→こちら
【御館跡】
住所; 新潟県上越市五智1丁目23−11(御館公園)
地図;
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