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あみの3ブログ

00 北庄城@福井市 令和二年(2020) 5月29日 柴田勝家がお市の方、浅井三姉妹と暮らした豪壮な平城

【北庄城】

柴田勝家によって天正3年(1575)に築城開始された、越前北庄にあった平城。
天正11年(1583)賤ケ岳の合戦で秀吉軍に敗退し城を包囲されると、妻のお市の方と共に北庄城で自刃、城は炎上。秀吉の戦勝報告の手紙によれば高い石垣と9層からなる天守閣だったとある。
その後慶長6年(1601)徳川家康の二男・結城秀康が(68万石で入府)新たな北庄城(福井城)を築き始める。
この際に元の北庄城の堀や遺構の上に重複する形で築城したため、長い間地下に埋もれた「勝家の北庄城」の実態は不明であった。
幕末の福井藩主・松平春嶽らの尽力でかつて北庄があったとされる場所に柴田勝家を祀る「柴田神社」が建立され、現在では「北ノ庄城址・柴田公園」として市民の憩いの場となっている。なお柴田神社本殿隣には「北庄城址資料館」があり遺物や史料の展示、休憩スペース・トイレも併設されている。(入館無料)


【見どころ】
場所は福井市中央町。
足羽川沿いの主要道路「城の橋通り」に面しているが駐車場は少し離れたところにある。そのため一筋駅前通り寄りの「北庄通り」から侵入した方がコインパーキングが多数ある。
北庄通りにある標識



この路地には鳥居が建っているので目立つ



そこから数十メートルで「柴田神社」参道



市中心部ビル群に囲まれたこじんまりした境内には「お市の方」と「浅井三姉妹」の銅像が並ぶ
彼女らが本殿に正対しているのに対し、主の柴田勝家の甲冑を身にして槍を手にした像は横向き。これはかつての北庄城本丸を背にしているのだろうか?



勝家像を正面から見ると、左手が柴田神社本殿。背後が現在に残る「福井城本丸跡」方向となる。

神社周辺は福井市教育委員会による平成5年度から6回にわたる発掘調査で「福井城遺構」とその下から「北庄城」遺構が時系列で発見され、その実態が明らかになってきた。
現在は地下の遺構が目で見て分かるよう露出展示されています。



写真は主要道路「城の橋通り」から見た神社・城址
手前は勝家の功績のひとつでもある半木半石の「九十九橋」をイメージして復元した「モニュメント的」なもの。→こちら



柴田勝家の北庄城は秀吉によって陥落・破却後、その上に結城秀康によって新たに「福井城」が築城され、明治維新で廃城、戦災・福井震災によってその姿は失われてしまいました。現在は町の中心部であるこの地に、僅かにその遺構の一角が保存・整備され「柴田神社」「柴田城址資料館」が併設された「北ノ庄城址・柴田公園」として市民の憩いの場となっている。





「柴田城址資料館」
神社本殿隣に併設、遺物や史料の展示・休憩スース・トイレも併設されている。(入館無料)


城の橋通りに面して入り口がある。自動ドアだが「観音開き」には驚く!


一階は無料休憩所・トイレ完備。パンフレットや記帳コーナーもあり、狭いながら屋外展示(勝家とお市の辞世の句碑)もあります。


二階は資料展示コーナーで、じっくり読むと歴史が分かる。
家系図を辿ると日本画の「平山郁夫」画伯も勝家の血筋にあたるそうですよ。




【北庄城】
《お市の方・浅井三姉妹・柴田勝家・福井発展の礎を築いた、高石垣と7層とも9層とも伝わる豪壮な平城》

名称(別名);
所在地;福井県福井市中央1丁目21-17
城地種類;平城
築城年代;天正3年(1575)
築城者;柴田勝家
主な城主;柴田勝家
文化財区分;なし
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;不明、7層(一説には9層)柴田氏北庄城時代(1575年)

地図;



※出典、、、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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