富山城郭カードは→こちら
弓庄城(上市町)の城主土肥美作守政繁は初め上杉謙信に従属していたが、天正6年(1578)に謙信が急死し、織田信長が越中に進出すると、織田方に従属した。しかし天正10年(1582)織田信長が本能寺で討たれると、再び上杉方と通じるようになった。
佐々成政は天正10年~11年にかけ、越中支配のために上杉方がいる越後の西海岸まで侵攻した。魚津・小出両城陥落後の天正11年(1583)4月以降から成政の攻勢が本格的となる。
天正11年(1583)4月ころ、佐々成政は土肥美作守政繁を攻めるために4つの砦を築造し、日中城跡はそのつけ城の一つであったと推定されている。日中城跡は白岩川を挟み、弓庄城の西側に設けられ、弓庄城の東側には郷田砦(上市町柿沢)が設けられている。
土肥氏は弓庄城で籠城を続けたが、豊臣秀吉が賤ケ岳の合戦による戦後処理として成政の越中支配を認めた結果、上杉方に通じていた政繁は、弓庄城を明け渡して越後の糸魚川城へと退却した。
日中城跡は、東側が崖に面し、他の三方が土塁と堀で囲まれ、出入り口(虎口)は西側の南寄りに設けられた土塁の開口部で、土橋によって外部と結ばれている。北側の空堀のうち、西半分が道路の拡幅の際削られているが、このように遺構を良好にとどめるものは県内でも稀有であり、非常に重要な遺構である。立山町教育委員会、、、(現地説明板より)
場所は富山県中新川郡立山町日中
北陸道立山ICから県道3号線で市街に向かい「沢端」交差点で左折、「栃津川」を過ぎ白岩川方向に進むと県道157号線の交差点に至る。
そこを直進し日中の集落に入り、左折
少し先の「舘」と書いた看板に従って右折、民家の間を抜け白岩川方向に80m程行くと
右手に墓地が見えます。そこが城址です。
城址碑と説明板が建っています。
一見ただの墓地にしか見えませんし、説明板の文字もはがれて判読できないのでどこをどうやって見るのか迷ってしまいました。
ここで当日の行程を縄張り図で示します。
上市町教育委員会作成資料より(ブログ管理者加筆)
【土塁】
東面を除く三方に土塁を築いて囲んでいます
58m×58mの規模があり、主郭は土塁の内寸で38m×33mの広さです
南面土塁と堀
南面土塁を東側の堀底から
東面は白岩川の段丘崖にあり切り立った崖となっている
北面土塁
道路の拡幅工事で一部が削り取られた箇所
北西隅から西面の土塁と堀
西面土塁と堀
南西隅
【空堀】
こちらも東面を除く三方に堀を巡らせ、西面に出入り口の土橋がかかっています
西面空堀
石碑の辺りから墓地に向かっての通路は【土橋】です
南面空堀
南面空堀の東の端は白岩川の崖に落とし込まれている
北面空堀
藪に包まれていますが堀底に降りることができました
南側の竹林にも何らかの痕跡が
盛り土や、掘った後が見受けられました
土肥氏の居城があった弓庄城方向から見た日中砦方向
佐々成政軍がいる高台から監視されている感じを受けます。さらに反対側にも郷田砦を築いて取り囲まれ窮地に陥った様子が伝わってくるようです。
弓庄城の記事は→こちら
【日中砦】
《にっちゅうとりで》
名称(別名);日中城
所在地;富山県中新川郡上市町日中742
城地種類;丘城
標高/比高;59m/15m
築城年代;天正11年(1582)
廃城年代;
築城者;佐々成政
主な改修者;
主な城主;佐々氏
文化財区分;町指定文化財
主な遺構;空堀・土塁・土橋
近年の主な復元等;現在は墓地
※出典、、、
地図;