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あみの3ブログ

松尾山城@岐阜県不破郡関ケ原町 2022年12月8日

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【古城】
松尾山は、「(江州=今の滋賀県)(濃州=今の岐阜県)の境目」にあることから、山頂には1400年頃に砦が築かれ、1500年頃には曲輪を持つ居城となり、「長亭軒城」とも呼ばれ、近江の浅井氏と尾張の織田氏の攻防の拠点となり、織田信長の上洛と共にその役目を終えました。
【新城】
1600年、その松尾山に石田三成が注目します。徳川家康との決戦に、西軍総大将の毛利輝元がここに着陣することを狙い、8月半ば大垣城主であった伊藤盛正に松尾山城の改修を命じたのです。旧城は南向きで、曲輪も広くありません。改修により新城は、関ヶ原を眺望する北向きで、多数の兵が着陣できるいくつもの曲輪を持つ城になり、関ケ原の戦いでは、勝敗を決する役割を果たしました。

関ヶ原の戦いでは、
慶長5年(1600)9月14日、小早川秀秋の家老稲葉正成により改修者の伊藤盛正は退けられ、松尾山を小早川秀秋軍が占めました。
同15日、西軍と見られていた小早川軍が、同じ西軍の大谷軍を攻めたことにより戦況が激変し、東軍徳川の勝利となりました。


場所は岐阜県不破郡関ケ原町松尾、
名神高速関ヶ原IC下車、県道56号線へ左折、高速道路高架をくぐり信号のある交差点で右折し広域農道に入ります。藤古川に架かる橋を渡った先の左手に「松尾山・小早川秀秋陣跡」の幟旗や案内看板がありますので、



側道を左折すると右手に駐車場があります。



駐車場から松尾山へは徒歩で40分くらいかかります。


遊歩道分岐


遊歩道案内板


遊歩道分岐
ここは主郭と東側曲輪への分岐でもあります。


分岐を左折すると「東側曲輪」です。
帰路に立ち寄ることにし、先を急ぎます。


分岐を右折すると主郭へ向かいます。



ここで縄張り図にて当日の行程を示します。(御城印付き縄張り図、、、岐阜関ヶ原古戦場記念館にて販売中)ブログ管理者加筆
縄張り図




「主郭」
南東側切岸


主郭削平地
小早川秀秋の本陣である主郭。


土塁を巡らす主郭
土塁の幅には差があり、土塁の下に石垣が見えるそうですが未確認です(;^ω^)


北側からは関ヶ原が一望できる
ここに小早川秀秋も立っていたのだろうと思うと、感慨深いものがあります。



眼下に関ヶ原の谷あいを置き、
各部隊の布陣状況が手に取るようにわかる場所です。
正面が笹尾山(石田三成布陣)、右端が桃配山(徳川家康布陣)、中央やや左に福島正則が布陣し開戦地となった辺りです。




主郭への出入り口を守る要の虎口
「枡形虎口」

喰い違い土塁
進行方向をクランクさせて敵の侵入速度や量を抑制する高度な防御施設。
土塁上には南東に井楼櫓(せいろうやぐら)があったと推定されています。


枡形空間
まさに閉じ込められた空間、土塁上から左右の攻撃を受けます。



南尾根に通じる土橋と空堀
主郭と馬出を繋ぐ役割があり、狭く上り坂で、曲げて、主郭からの攻撃がしやすくしている。また空堀を設けて進入を防いでいます。




「馬出的な曲輪」
虎口の前にあって攻撃と防御の両面を持つ曲輪。広場を土塁で囲み虎口を守っています。



土橋


竪堀



南尾根「大手道」
この辺りは南尾根から進入してくる敵の最前線にあたり、最初に敵を迎え討つ役割がありました。


南尾根の先は「平井集落」方面





ここで枡形虎口手前の土橋の辺りまで戻って、「南側曲輪」へ向かいます。
武者走り
東側曲輪と繋ぐ連絡通路。


南側曲輪
こちらの曲輪も馬出同様に、虎口を守る役割があったようです。


同、先端部
北側に土塁と折れが散見されるという事です。





更に戻って、今度は主郭切岸の下を時計回りに進み「北側曲輪」を目指します。

主郭南面から西面にかけての「切岸」
敵を寄せ付けないよう人工的に大きく削った斜面です。



主郭と北曲輪の間に横たわる谷部
この谷を空堀として両者を遮断しています。


空堀


土橋
空堀の北の端に設けられた主郭と北側曲輪とをつなぐ通路


喰い違い土塁


倉庫(やぐら)「馬つなぎ場」
谷を利用し谷を削平した曲輪。



これらを経て北側曲輪へと向かいます
北側曲輪切岸


切岸からの虎口



北側曲輪削平地


土塁
南北に築かれた土塁




北側曲輪を空堀の方向に下り、今度は「西側曲輪」へと向かいます。
この西側曲輪こそ冒頭で説明した「古城」にあたると考えられています。

北側曲輪と西側曲輪との間の谷に彫り込まれた「堀切」


西側曲輪の高台


西側曲輪の削平地
土塁の無い削平地のみの曲輪。
ここが「古城」と推定されています。


西側曲輪がある南西尾根に築かれた竪堀群


喰い違いの堀切で、西に2本、東に1本、交互において道を曲げ、尾根筋からの敵の侵入を防いでいます。




帰路は北側曲輪と主郭を繋ぐ土橋から、主郭の北側斜面の下を通って東側曲輪方向に回遊する帯曲輪を歩きました。
ここには主郭北側の斜面を切断する深くて長い竪堀を見ることができます。


この竪堀は、主郭の左右の東側曲輪と北曲輪を分断する役割があります。



降り出した雨に追い立てられ、
不覚にも帰路に予定していた東側曲輪を訪ねることを忘れて下山してしまいました。
残念💦


【松尾山城】
《信長・家康を勝利に導いた美濃の山城》

名称(別名);まつおやまじょう(長亭軒城)
所在地;岐阜県不破郡関ケ原町松尾
城地種類;山城
標高/比高;293m/180m
築城年代;応永年間(1394年1428年)?
廃城年代;
築城者;富島氏?
主な改修者;
主な城主;富島氏,樋口直房,不破光治,伊藤盛正,小早川秀秋
文化財区分;
主な遺構;曲輪・堀切・土塁・井戸
近年の主な復元等;
地図;



【御城印】

縄張り図とセット販売



【関ヶ原 陣跡印】

※訪れたことを証明する写真(デジカメ・スマホ等)を提示すると無料でもらえます。
各陣を巡って陣跡印を集めるのも楽しいですね。


御城印、陣跡印、共に「岐阜関ヶ原古戦場記念館」にて取り扱い中→こちら

コメント一覧

aminosan111
@hakusiyu hakusiyuさんコメントありがとうございます♪
駐車場から思ったより奥まった山の中で驚きました。戦場の様子は手に取るように分かるのですが、いざ出陣となったら麓まで駆け下るのが大変だったろうなと思いましたよ。大谷刑部少輔吉継の陣までは相当ありますもんね。
hakusiyu
こんにちは~
帰りに見ようと後回しにして見落とすことよくあります。
山城あるあるです😅
だからなるべく後回しにしないようにしてるけどなかなか…
ちなみに下山は平井方面へ降りて迂回して戻りました
兵は麓に周回するようにたくさんいたのではないかと思った。

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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