あみの3ブログ

039 岐阜城@岐阜市金華山 令和二年(2020)11月27日

国指定史跡 【岐阜城】
《天下布武を目指した信長の拠点の城》




前回のエントリーは→こちら
2011年11月20日以来なのでちょうど9年ぶりの訪問。



朝から中津川市の「苗木城」、恵那市の「明知城跡」と、ご飯を食べる暇もなく3城目の「岐阜城」登城(;'∀')

【おさらい】
織田信長の岐阜城は徳川家康により廃城。天守・櫓・石垣などは他に転用される。
明治以降、模擬天守建設に伴い石垣を積みなおしたため当時の原型を留めていない。
昭和31年に鉄筋コンクリ―トの模擬天守建設の際石垣を補修したため礎石等の遺構は失われたとみられる。
山麓の居館跡の発掘が終了し、現在は山頂部の石垣の調査が継続中で、次々に新たな発見が報告されています。
現在の天守台の下の部分の発掘や、「めい想の小径」に至る「裏門」あたりでは信長時代の石垣が発見されたとのことです。
観光客レベルではそんな発掘現場に足を踏み入れることは叶わず、今ある石垣に往時を重ね合わせるのが精一杯です。



【山上部の石垣】
山上部には戦国時代に造られた石垣や城主の権威を誇示する巨石列の巨石が現存しています、、、岐阜市現地案内板
「一の門」
巨石と石垣の一部が露出している。岐阜城の巨石の中でも小型で、後斎藤期の可能性がある。



「二の門」周辺の石垣
大き目の石材を使用し、隙間にも石が入念に詰められている。信長期以降の築造と考えられます。



「天守台」と「上台所」を結ぶ通路の石垣
二段状に積まれた石垣。信長期以降の築造と考えられます。



「天守台」周辺の石垣
算木積みを彷彿とさせる積み方が見られる。信長期よりさらに後に積まれた可能性がある。



「裏門」の巨石
「一の門」と同じ後斎藤期、もしくは信長期のものと考えられる。

「裏門」の石垣
岩盤の窪みに小型で横長の石材で作られている。後斎藤期の石垣と考えられる。


2019年4月の岐阜市による新たな石垣の報告は→こちら


【その他の石垣】
「天守台」石垣
石は当時のものだが規模や積み方は明治期以降の2回にわたる模擬天守建設に伴う積みなおし。






「切通(堀切)」周辺の石垣



「レストラン(太鼓櫓)」周辺の石垣






「下台所」から「上台所」崖に架かる二段石垣を下から見上げる




【信長居館(御殿)発掘現場】
昭和62年度から始まった発掘調査は平成25年度でいったん終了し、その成果は公園内の「日本遺産・信長公居館発掘調査案内所」で公開されています。
同ホームページは→こちら






全体をケーブルカーより俯瞰



入り口



巨石列が信長公の威厳と権威を示す
山頂の石垣における巨石列にも見られる



庭園発掘現場
滝や池がいくつも配置されていた



奥座敷
赤い橋(再現)川から滝へと流れる



三重の塔と岩盤
巨大な岩盤が描く自然の驚異を借景にしたのか



下はNHK大河「麒麟がくる」で賑わっている
麒麟がくる館とは別のケーブルカー乗り場にて展示



山頂の「岐阜城資料館(隅櫓)」にて展示




【岐阜城】
《天下布武を目指した信長の拠点の城》


名称(別名);稲葉山城
所在地;岐阜市金華山天守閣18
城地種類;山城
築城年代;建仁年間(1201~04)、天文年間(1532~55)、永禄年間(1558~70)
築城者;二階堂行政? 齋藤道三 織田信長
主な城主;二階堂氏?、斎藤氏、お出汁
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;平成9年に大改修
天守の現状、形態;望楼型 三重四階 鉄筋コンクリート造り(再建)
※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)

地図;
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「城歩き」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事