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一乗寺城跡
本城が史料上に初めて名をみせるのは、南北朝期の応安2年(1396)である。籠る反足利政権派の桃井直常勢を、幕府方の能登守護吉見氏頼が追い落としたとある(得田文書)。
また天正12年(1584)佐々成政加賀侵攻の際、杉山小助らがここを守ったという。城は加賀国境に近く、中世以来軍事・交通上の要地であったものと思われる。現在、山頂を中心にいくつもの郭を配した跡が残されている。平成7年3月31日 小矢部市教育委員会、、、現地案内板より
場所は富山県小矢部市と石川県金沢市境の山の中。
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北陸道小矢部IC下車
国道359号線から214号線(仮生末友線)に入り、五郎丸地内を抜け林道を津幡町方向に進みます。その津幡方向、倶利伽羅方向との交差点に出ますが
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「一乗寺城跡はこちら」みたいな看板が出ている細い林道を登ります。
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程なく「旧田近道」林道とのT字路が見えてきますので到着です。
その石碑近くの空き地に車を停め、ここからは徒歩5分くらいで登城口となります。
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ここで周辺の城との位置・勢力の相関関係をおさらいすると
越中佐々成政方の「一乗寺城」は「松根城」、推定加賀前田利家方の「加賀朝日山城」とほど近く、加越国境を挟んで対峙していたことがわかります。
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この石碑の前を通るのが旧「田近道」と言って、北國街道の脇道としての役割があり交通の要衝でもありました。
一乗寺城はその田近道沿いにあって小高い丘から街道を監視し、加賀前田方の侵攻を防ぐための要塞として佐々成政により大改修されました。
石碑前から田近道を進むと
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すぐに左手に土塁が見えてきます。
案内看板があるので分かり易いです。
土塁は左右に分かれ、虎口のようでもあります。
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虎口のようなところから中に入ってみると、それは一乗寺城が建つ尾根の先端を分断する幅約29mの「大堀切」でした。
麓から攻め上がってくる加賀方の敵に対する第一防御線です。
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大堀切の先は谷で完全に分断され、谷には竪堀で横方向の移動を抑制しています。
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田近道沿いに設置された土塁に目をやりながら進むと
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いよいよ登城口の看板が見えてきます。
田近道沿いに側道を行く小径は本丸方向に、左手の土手を登る小径は二の丸へ通じています。(仮道)
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急な土手を登ると「下二ノ丸」とされる場所に出ます。
これは現地に設置されている「一乗寺城跡見取り図」です。
「原図は佐伯氏・加筆は事務局」とありますが、地元の保存会とか愛好会の皆さんがお世話してくださっているんでしょうね。ありがとうございます。
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下二ノ丸から三ノ丸方向の西側平坦面
この曲輪は麓から攻め上がってくる加賀勢との最前線に位置する曲輪で、防御施設もたくさん仕掛けてあります。
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先ほど見た大堀切はこの曲輪の西側土塁の真下にあり、
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北西側眼下は田近道を見下ろす位置となっているので、上から狙い撃ちですね。
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また北西側虎口は谷側からの出入り口ですが、L字型とL字型の土塁を組み合わせることにより、二重にクランクする虎口構造となっています。
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もしかしたら枡形の防御施設だったのかもしれません。
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谷側には竪堀が施され、横移動を抑制しています。
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「三ノ丸」と「下二ノ丸」を区画し三ノ丸に侵入した敵が本丸に近づく事を防ぐ防御施設
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三ノ丸の出入り口を狭めるように左右に彫られた「空堀」
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細長い下二ノ丸はさらに「空堀」で本丸下の「上二ノ丸」と区画防御されています。
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谷側には竪堀
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本丸への侵入を防ぐ防御施設として、上二ノ丸には「虎口」が設けられています。
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こちらもL字型の土塁を二つ組み合わせることにより、二重にクランクさせる構造で、
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中に滞留した敵兵は四方から攻撃を受けることになります。
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二重に防御された枡形虎口を抜けると「上二ノ丸」の平坦地に至ります。この先には階段状になった主郭部がそびえ立ち、本丸を守備する役目と侵入した敵を滞留させ階段状の本丸部から攻撃しやすくする役割があったのかと思いました。
上二ノ丸から見た本丸の階段状曲輪
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さらに南側斜面には竪堀が施され、横移動を制御しています。
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上二ノ丸から本丸へは急な斜面をロープを頼りに登ります。
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本丸階段状曲輪から見た上二ノ丸
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「本丸頂上」
頂上の平坦地には標識が建っており、
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頂上からの眺望
北側は能登方面
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東側は越中方面
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頂上主郭部より東側が大手
そこに向かって東面に階段状の廓が広がる。
北側尾根筋からロープを使って下りる。
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斜面中央部にもロープが取り付けてあり、往路・復路で両方使ってみましたが、途中で切断している箇所があるので要注意。
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2段目から3段目、3段目から4段目と上下の移動はロープ頼りです。
当時は梯子を使って移動しており、有事の際は梯子を破壊して敵の侵入を阻止していたらしいです。
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尾根筋のロープを使っての移動では、土橋のように尾根を細く削り込み敵の侵入速度を抑制しようとしている工夫が見て取れました。
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また東側階段状曲輪は上下の移動だけではなく、左右の移動も竪堀で抑制しています。
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一乗寺城の裾野を通る田近道から東側尾根に至る大手に「虎口」が設けられています。
この虎口を警備する櫓が北側の小高い所に隣接して設けられていたそうです。
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虎口は土塁で二重に折り曲げられ、主郭頂上部へ向かうには切岸が行く手を阻み、尾根筋の土橋を渡るしかない仕組みです。
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虎口土塁
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一乗寺城東口
越中側の東口が大手とみられ、穏やかな表情にも見える。
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天正12年佐々成政が一乗寺城を大改修した目的は、田近道を進撃してきた前田軍の動きをここで食い止めることにあった。
東側には尾根を切り裂く大堀切や、櫓台と塁線土塁、枡形虎口とそれに続く計画的な通路など高度な築城技術がそれを物語る。それに比べ直接的に関係が少ない主郭部や北側斜面には、改修の手をあまり入れなかったのではないかと考えられているそうです。
成政が改修した加越国境城郭の3主要城郭のひとつ「一乗寺城」
先般訪ねた「松根城」→こちら
とともに街道を押さえ、加賀側に異常なまでの警戒を示した高度な改修技術。
こうなったら残る「源氏が峰城」、「荒山城」もぜひ訪れて成政の心情に触れたいと思います。
【一乗寺城】
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名称(別名);いちじょうじじょう
所在地;富山県小矢部市八伏
城地種類;山城
標高/比高;275.6m/80m
築城年代;南北朝期
廃城年代;天正13年?
築城者;桃井直常勢?
主な改修者;佐々成政
主な城主;佐々氏
文化財区分;小矢部市史跡
主な遺構;削平地・切岸・堀切・土塁・竪堀
近年の主な復元等;
※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅲ
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