いしかわ城郭カード→こちら
かつて府中三人衆と呼ばれた織田信長の家臣、前田利家と佐々成政。ともに柴田勝家の与力として北陸平定に働きついに利家は能登加賀の、成政は越中のそれぞれ一国一城の領主にまでのぼりつめた。しかし信長亡き後の後継体制に反目する柴田勝家と羽柴秀吉はついに賤ケ岳で激突し勝家は自刃。
その後急拡大する秀吉は、小牧長久手の戦いで織田信雄・徳川家康と衝突。この際秀吉に不満を持つ成政は信雄・家康軍と結んだことにより、秀吉陣営となった利家と対峙することとなりました。
その両者が直接向かい合う加越国境(加賀・越中国境)付近では最前線基地として城の築城や、既存の国人の城を改修する動きが活発となりました。
金沢市はこのうち、街道と城の関係性について調査・研究し推定佐々方の「松根城」と推定前田方の「切山城」を「加越国境城跡群及び道」として国の史跡指定を受けています。
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朝日山城はその加越国境守備のため前田方によって築城され、天正12年8月佐々成政方の攻撃を受けるも城将村井長頼によって撃退したとされるが、成政方が築城し村井氏に奪われたという説もあるそうです。その後9月9日成政は前田領の加賀国と能登国の分断を図る目的で現在の宝達志水町にある「末森城」を攻め、激しい戦闘の末敗退し自領の富山城に戻ります。
天正13年8月、小牧長久手の戦いで政治的勝利を収めた羽柴秀吉は、敵対する佐々成政を大軍をもって攻め「富山の役」で降伏させます。
これにより加越国境付近の緊張状態は解消され、一帯に築かれた前線基地たる山城群はその役目を終えました。
ここで周辺の城との位置・勢力の相関関係をおさらいすると
【田鹿越え】では「朝日山城」と「一乗寺城」が
【小原越え】では「切山城」と「松根城」が
【二股越え】では「高峠城」と「荒山城」が築かれ、対峙していたことがわかります。
、、、金沢市文化財保護課シンポ資料より抜粋
越中佐々成政方の「一乗寺城」「松根城」と、推定加賀前田利家方の「加賀朝日山城」の位置関係をグーグルマップの航空写真で見ると一目瞭然。
場所は国道359号線、松根城入り口より少し金沢寄りに「加賀朝日」方面へ向かう交差点がありますので、ここを加賀朝日に向けてひた走り
JRバス停「俵原」交差点を右折
「金沢百万石どじょう」の看板がが目印です。
ほどなく右手にロッジが見え、旧「朝日小学校」との分岐を右折、細い登り道です。
すると右手に土砂の採掘場が見えてきます。
そうなんです
朝日山城の大部分は土砂の採掘により破壊、山の形が失われてしまっています。
採掘現場から道を挟んだ谷側に、僅かに残る小山のような、山の残骸。
それがかつての「朝日山城主郭」と言われています。
東側から見た主郭
採掘場への道路との対比では10mにも満たない丘のように見えますが、実際は標高180mの山の頂上です。
主郭尾根を分断したような痕跡
もしや堀切か?
道路沿いには小さな畑があり、その脇から頂上に登れそうです。
しかし突当りは2mほどの崖が待ち構えていましたが、ここまで来たらよじ登るしかありません。
登った先には以外にも道があり
本丸か!
そこを抜けると削平面が現れました。
案外広い!
下から見ていた時には小さく感じたてっぺんですが、想像以上に広くてしかも下草や樹木が伐採され整備されています。
誰かが管理しているんでしょうね。
北側斜面に竪堀か?
そんな風に見えただけかも
南東方向に1.2km先には佐々方の松根城があります、
西側は石川県河北方向で遥か日本海まで見渡せます。
写真、左手奥が能登方向で末森城のある方向です。
南方向
直下に平坦地、奥側に竹藪を切り開いた平坦地が見えます。
気になったので竹山のほうへ行ってみました。
曲輪か?
腰曲輪か?
土橋か?
縄張り図がないので妄想が膨らみます。
しかしこれだけきれいに下草を刈って、竹を切り開いた土地は、農地なんでしょうね(笑)
用途がよくわかりませんが、丸裸になった山は荒涼としていました。
採掘場も然りです。
※追伸
探していた縄張り図が見つかりました。
符合する点として
主郭北側斜面に竪堀
主郭への出入り通路
東側尾根に空堀
西側の廓が削り取られ、現在は平坦地になっていることが確認できました。
現地で気になっていた、主郭を東西に横切る段差と言うか溝が縄張り図にも描かれている事。
しかし、この幅60㎝位×深さ40㎝位の溝の意味は分かりません。
でも分かったことは、竹林の平地は城郭の一部では無かった事。
チョット残念な気がしますが、、、(笑)
※2021年4月3日加筆
※2022年6月12日 いしかわ城郭カードリンク追加
【加賀朝日山城】
名称(別名);一本木城
所在地;石川県金沢市北千石町ロ(ろ)
城地種類;山城
標高/比高;180/
築城年代;1584年(天正12年)頃
廃城年代;
築城者;村井長頼?
主な改修者;?
主な城主;村井長頼
廃城年;1585年(天正13年)以降
文化財区分;未指定
主な遺構;曲輪、堀切
近年の主な復元等;
※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅲ
地図;
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