和歌山・奈良お城巡り まとめは→こちら
国指定史跡・続日本100名城
宇陀松山城(うだまつやまじょう)
天正13年(1585)以後に入部した豊臣家配下の大名により改修を受け、元和元年(1615)に取り壊されました。現在見受けられる城郭プランの大半はこの織豊期から江戸時代初期にかけてのものです。その構造は、主郭部(天守曲輪・本丸・帯曲輪・虎口曲輪・大御殿部)と二の丸で構成される中心曲輪群と、中心曲輪群の外側下を取り囲むように配される外縁部の曲輪群(御定番郭・御加番郭など)に大きく分かれます。
中心曲輪群は総石垣で築かれ、大規模かつ巧緻な枡形虎口の構築、多聞櫓や本丸御殿などの礎石建物群、桐・菊紋瓦等の大量の瓦の使用など、織豊系城郭の特徴を良好に残しています。外延部の曲輪群の外側に設けられた横堀と堀切によって画された城域は、東西約400m、南北約250mの規模を持ち、西側の城下町からの比高は120~130mを測ります。
また、宇陀松山城は、元和元年の城割の具体的状況が観察でき、幕府の城郭統制や中世から近世にかけての宇陀地域の城郭と城下町の在り方を考えていくうえで重要な城郭跡と言えます。宇陀市教育委員会、、、現地説明板より
場所は奈良県宇陀市大宇陀春日
国道166号線と同370号線が交わる「道の駅宇陀路大宇陀」(奈良県宇陀市大宇陀拾生714-1)の交差点を166号線菟田野町(うたのちょう)方向へ曲がり、一つ目の信号角に「まちかどラボ」(御城印販売所)があります。その次の路地を左に入ると宇陀松山城登城口になります。
駐車場が無いので「道の駅宇陀路大宇陀」に車を停めてそこから歩くことになりますが、「まちかどラボ」で御城印や資料を戴いたり、城下町を散策するのも良いと思います。
自分は先に「まちかどラボ」で御城印を買い求めたので、店主のご厚意でお店裏に駐車することができました。
城址は住宅街の裏山という感じで、コンクリートで舗装された道が城郭跡の真下まで伸びており、駐車場まで整備されていたようです。
そうなんです、何時の頃からかは分かりませんが、現在この道は一般車両進入禁止の歩道となっています。
その旧駐車場から城郭までがまた見事に整備され、手すりが付いて緩やかなスロープは車いすでも登れるくらいです。
「まちかどラボ」と奥に見えるのが「道の駅宇陀路大宇陀」
登城口から見下ろした城下町「まちかどラボ」方向
登城口は閉鎖中です(車両進入禁止)
ここから城址まで600m
旧駐車場と城郭に至る緩やかなスロープ
スロープは大きな現地説明板があるところまで続きますが、その先は未舗装の山道となります。
宇陀松山城図面、、、現地説明板より
古絵図、、、同
当日の行程、、、ヤマップより
現地説明板があるところから少し登ったところの右手、雑木林(吉野杉植林)の中に竪堀がありました。
ここには説明板がないので縄張り図が無いと見逃します。
また、その左手方向
南西虎口手前にある広い削平地とそれを取り巻く横堀ですが、こちらにも説明板はありません。
深い藪に包まれていますので、やはり分かっていないと足を踏み入れる勇気は湧きませんでした。
登城道を登って初めて目にするのが(目にできるw)「西御加番郭横堀」です。
こちらは登城口に接しているため、下草が刈り取られ整備の手が入っています。
本丸より俯瞰
方形に成形された削平地ということがわかります
「南西虎口部」(雀門跡)
南西虎口部は、中心郭群と城外との結節部を構成する要の位置を占めている。本丸前面に設けた虎口郭を軸に本丸・本丸西側下の御加番郭・帯部・城外縁部の4方向への通路が続く。構造は、城外郭の石垣線の折れと門を組み合わせることで大規模な外枡形の虎口空間を作り、さらにその内側上部に設けた虎口郭を第二の枡形空間とする複合的な在り方を示している。櫓台上には多聞櫓や隅櫓が構築されていたと考えられている。
雀門は礎石跡や規模から高麗門の可能性が高い。
角石
「虎口郭」
南西虎口部より虎口郭
本丸より俯瞰
石段
石垣
石垣拡大
鏡石か? 大きな石を小石(間詰石)で取り囲んでいるように見えます。
虎口枡形
「本丸」
本丸は東西50m、南北45mの広さを有する城内最大の郭である。西辺の中央に15m×10mの張出を持つ。本丸上には対面・接客などの儀礼空間としての本丸御殿が建つ。本丸御殿は「広間」を中心に「遠侍」、「家臣溜」「書院」「台所」の5棟からなる。
本丸御殿は檜皮ないしは杮葺きと推定される。また、本丸周辺の石垣沿いには瓦葺きの多聞櫓が連なる。北西隅を除いて全周し、途中西虎口、南東虎口の2つの門徒も繋がり、強固な防衛ラインを形成する。
天守閣への虎口は2か所確認されている。そのうち北側の虎口は石垣積の付け櫓を構築する格式のあるものとなっている。
本丸西斜面
本丸東斜面
本丸削平地から天守台
本丸天守台下の方形窪み
刀洗い池的なものか? それとも発掘跡?
「本丸石垣」
本丸南斜面からの石垣石材と思われる落石
本丸東斜面
大御殿郭より本丸天守台を見上げる
同拡大 天守台
東側斜面の残存石垣
同、落下した石材
同、落下石材2 矢穴
「天守台」
天守台石垣
中央のスロープ
北側石段
南側隅部
天守台最上段石碑
礎石? 文字が書いてあるようですが方位を示すものか?
天守からの眺望
北方向
南方向
「西帯郭から東帯郭」
左方向が本丸、奥が東帯郭
西帯郭の本丸側虎口
同石段拡大
「東帯郭」
東帯郭から奥の大御殿郭に向かう
本丸南斜面下から東斜面下にかけて彫られた空堀のような溝(南側)
同(東側)
右手大御殿郭、左手本丸斜面
「大御殿郭」
本丸より俯瞰
大御殿郭先端(東側下)の段郭俯瞰
「東御加番郭」
大御殿曲輪より俯瞰
「二の丸」
南東虎口部の南東方向に二の丸があるが、藪と雑木林(吉野杉植林)に阻まれ立ち入れなかった。
「南東虎口部」(大門跡)
南東虎口部には、城域東側からと二の丸を巡る通路が集まる。東西に並ぶ2つの石垣積の櫓台が残る。
その構造は、通路の折れと石垣の喰違虎口により枡形状の空間を作り、櫓台により横矢を効かせている。
その構造は、東西2つの櫓と一体になって構成される櫓門形式の門であると推定されている。
残念ながら発掘調査から経年し、荒れており現在は説明板も藪の中。もったいないです。
残存石垣
同
信長亡き後、秀吉の天下取りに向け大和一国を得た秀吉の弟・豊臣秀長が改修。
秀吉に反感を持つ勢力(越中の佐々成政等)や徳川家康と甲賀・伊賀・伊勢・紀伊の在地勢力(伊賀衆・根来衆・雑賀衆等)が結託して、西に攻め上るのを阻止・監視する目的があったようです。
本丸を中心に整備されていますが、周囲の尾根筋にはたくさんの空堀や竪堀などの遺構が残っているようなので、その辺の整備が進めば山城ファンにとっても楽しめると感じました。
※参考、、、続日本100名城 公式ガイドブック・現地説明板・公式パンフレット他
【宇陀松山城】
《南北朝の山城から近世城郭へと改修》
名称(別名);うだまつやまじょう(秋山城)
所在地;奈良県宇陀市大宇陀春日
城地種類;平山城
築城年代;南北朝期(豊臣家配下の天正13年(1585)以降に改修)
築城者;秋山氏
主な城主;伊藤市、加藤氏、羽田氏、多賀氏、福島氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;発掘調査中
天守の現状、形態;天守台石垣現存
※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;
【御城印】
販売所;まちかどラボ
住所;奈良県宇陀市大宇陀出神1817・1818
地図;
中心曲輪群は総石垣で築かれ、大規模かつ巧緻な枡形虎口の構築、多聞櫓や本丸御殿などの礎石建物群、桐・菊紋瓦等の大量の瓦の使用など、織豊系城郭の特徴を良好に残しています。外延部の曲輪群の外側に設けられた横堀と堀切によって画された城域は、東西約400m、南北約250mの規模を持ち、西側の城下町からの比高は120~130mを測ります。
また、宇陀松山城は、元和元年の城割の具体的状況が観察でき、幕府の城郭統制や中世から近世にかけての宇陀地域の城郭と城下町の在り方を考えていくうえで重要な城郭跡と言えます。宇陀市教育委員会、、、現地説明板より
場所は奈良県宇陀市大宇陀春日
国道166号線と同370号線が交わる「道の駅宇陀路大宇陀」(奈良県宇陀市大宇陀拾生714-1)の交差点を166号線菟田野町(うたのちょう)方向へ曲がり、一つ目の信号角に「まちかどラボ」(御城印販売所)があります。その次の路地を左に入ると宇陀松山城登城口になります。
駐車場が無いので「道の駅宇陀路大宇陀」に車を停めてそこから歩くことになりますが、「まちかどラボ」で御城印や資料を戴いたり、城下町を散策するのも良いと思います。
自分は先に「まちかどラボ」で御城印を買い求めたので、店主のご厚意でお店裏に駐車することができました。
城址は住宅街の裏山という感じで、コンクリートで舗装された道が城郭跡の真下まで伸びており、駐車場まで整備されていたようです。
そうなんです、何時の頃からかは分かりませんが、現在この道は一般車両進入禁止の歩道となっています。
その旧駐車場から城郭までがまた見事に整備され、手すりが付いて緩やかなスロープは車いすでも登れるくらいです。
「まちかどラボ」と奥に見えるのが「道の駅宇陀路大宇陀」
登城口から見下ろした城下町「まちかどラボ」方向
登城口は閉鎖中です(車両進入禁止)
ここから城址まで600m
旧駐車場と城郭に至る緩やかなスロープ
スロープは大きな現地説明板があるところまで続きますが、その先は未舗装の山道となります。
宇陀松山城図面、、、現地説明板より
古絵図、、、同
当日の行程、、、ヤマップより
現地説明板があるところから少し登ったところの右手、雑木林(吉野杉植林)の中に竪堀がありました。
ここには説明板がないので縄張り図が無いと見逃します。
また、その左手方向
南西虎口手前にある広い削平地とそれを取り巻く横堀ですが、こちらにも説明板はありません。
深い藪に包まれていますので、やはり分かっていないと足を踏み入れる勇気は湧きませんでした。
登城道を登って初めて目にするのが(目にできるw)「西御加番郭横堀」です。
こちらは登城口に接しているため、下草が刈り取られ整備の手が入っています。
本丸より俯瞰
方形に成形された削平地ということがわかります
「南西虎口部」(雀門跡)
南西虎口部は、中心郭群と城外との結節部を構成する要の位置を占めている。本丸前面に設けた虎口郭を軸に本丸・本丸西側下の御加番郭・帯部・城外縁部の4方向への通路が続く。構造は、城外郭の石垣線の折れと門を組み合わせることで大規模な外枡形の虎口空間を作り、さらにその内側上部に設けた虎口郭を第二の枡形空間とする複合的な在り方を示している。櫓台上には多聞櫓や隅櫓が構築されていたと考えられている。
雀門は礎石跡や規模から高麗門の可能性が高い。
角石
「虎口郭」
南西虎口部より虎口郭
本丸より俯瞰
石段
石垣
石垣拡大
鏡石か? 大きな石を小石(間詰石)で取り囲んでいるように見えます。
虎口枡形
「本丸」
本丸は東西50m、南北45mの広さを有する城内最大の郭である。西辺の中央に15m×10mの張出を持つ。本丸上には対面・接客などの儀礼空間としての本丸御殿が建つ。本丸御殿は「広間」を中心に「遠侍」、「家臣溜」「書院」「台所」の5棟からなる。
本丸御殿は檜皮ないしは杮葺きと推定される。また、本丸周辺の石垣沿いには瓦葺きの多聞櫓が連なる。北西隅を除いて全周し、途中西虎口、南東虎口の2つの門徒も繋がり、強固な防衛ラインを形成する。
天守閣への虎口は2か所確認されている。そのうち北側の虎口は石垣積の付け櫓を構築する格式のあるものとなっている。
本丸西斜面
本丸東斜面
本丸削平地から天守台
本丸天守台下の方形窪み
刀洗い池的なものか? それとも発掘跡?
「本丸石垣」
本丸南斜面からの石垣石材と思われる落石
本丸東斜面
大御殿郭より本丸天守台を見上げる
同拡大 天守台
東側斜面の残存石垣
同、落下した石材
同、落下石材2 矢穴
「天守台」
天守台石垣
中央のスロープ
北側石段
南側隅部
天守台最上段石碑
礎石? 文字が書いてあるようですが方位を示すものか?
天守からの眺望
北方向
南方向
「西帯郭から東帯郭」
左方向が本丸、奥が東帯郭
西帯郭の本丸側虎口
同石段拡大
「東帯郭」
東帯郭から奥の大御殿郭に向かう
本丸南斜面下から東斜面下にかけて彫られた空堀のような溝(南側)
同(東側)
右手大御殿郭、左手本丸斜面
「大御殿郭」
本丸より俯瞰
大御殿郭先端(東側下)の段郭俯瞰
「東御加番郭」
大御殿曲輪より俯瞰
「二の丸」
南東虎口部の南東方向に二の丸があるが、藪と雑木林(吉野杉植林)に阻まれ立ち入れなかった。
「南東虎口部」(大門跡)
南東虎口部には、城域東側からと二の丸を巡る通路が集まる。東西に並ぶ2つの石垣積の櫓台が残る。
その構造は、通路の折れと石垣の喰違虎口により枡形状の空間を作り、櫓台により横矢を効かせている。
その構造は、東西2つの櫓と一体になって構成される櫓門形式の門であると推定されている。
残念ながら発掘調査から経年し、荒れており現在は説明板も藪の中。もったいないです。
残存石垣
同
信長亡き後、秀吉の天下取りに向け大和一国を得た秀吉の弟・豊臣秀長が改修。
秀吉に反感を持つ勢力(越中の佐々成政等)や徳川家康と甲賀・伊賀・伊勢・紀伊の在地勢力(伊賀衆・根来衆・雑賀衆等)が結託して、西に攻め上るのを阻止・監視する目的があったようです。
本丸を中心に整備されていますが、周囲の尾根筋にはたくさんの空堀や竪堀などの遺構が残っているようなので、その辺の整備が進めば山城ファンにとっても楽しめると感じました。
※参考、、、続日本100名城 公式ガイドブック・現地説明板・公式パンフレット他
【宇陀松山城】
《南北朝の山城から近世城郭へと改修》
名称(別名);うだまつやまじょう(秋山城)
所在地;奈良県宇陀市大宇陀春日
城地種類;平山城
築城年代;南北朝期(豊臣家配下の天正13年(1585)以降に改修)
築城者;秋山氏
主な城主;伊藤市、加藤氏、羽田氏、多賀氏、福島氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;発掘調査中
天守の現状、形態;天守台石垣現存
※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;
【御城印】
販売所;まちかどラボ
住所;奈良県宇陀市大宇陀出神1817・1818
地図;