あみの3ブログ

00 小浜城址 @福井県小浜市 令和二年(2020)10月31日

福井県指定史跡【小浜城址】



関ヶ原合戦の戦功によって若狭の領主となった京極高次が慶長6年(1601)北川、南川を天然の濠とし、小浜の海を背に難攻不落を誇る水城として築城を始めた。別名を「雲浜城」とも呼ばれる。寛永11年(1634)京極忠高が出雲に移封となり、代わりに酒井忠勝が武州川越(埼玉県川越市)より若狭十一万三千五百石の藩主となり、天守閣の造立に着手。寛永19年(1641)40年の歳月をかけ小浜城は完成をみた。以来、酒井家十四代、237年間の居城となり廃藩置県を迎えた。
明治4年(1871)12月「大阪鎮台分営」設置の改修中に本丸櫓より出火、城櫓の大部分を焼失して現在は本丸の石垣を残すのみとなった。
城地総面積62492㎡
本丸面積10347㎡
昭和31年3月12日福井県史跡に指定される。城地に藩祖、酒井忠勝公を祀る小浜神社がある。、、、小浜市


先日福井県敦賀市の「敦賀城跡」を訪ねた際、大谷刑部少輔吉継亡き後敦賀城は破却され廃城以降、主郭部には小浜藩の役所(奉行所、代官所)とお茶屋(陣屋)が置かれたと知り、機会あらば「小浜城」へも訪れてみたいと思っていた。
今回、福知山城の帰路に小浜城へ立ち寄れたことは大変幸運だった。


場所は海側の「フィッシャーマンズ・ワーフ」の隣。国道162号線「北川」に架かる橋から海側に入った住宅地のど真ん中。
まさにここは「城内一丁目」です。




【縄張り図】
「古絵図」
上が「西」で若狭の海
本丸を中心として四方を「北の丸」「西の丸」「二の丸・御殿」「三の丸」が取り囲み、北と南には家臣の屋敷、その外側に町家を置き、東側には農地が広がっていることがわかる。



古絵図を基に現在の地図に落とし込んだイラスト、、、「ふくいヒストリーロード」看板より転載
上記「古絵図」と向きを合わせ上を「西」にしました。
河川工事等で城域がほとんど失われたことがわかる。



【石垣】


本丸跡地に建つ小浜神社より先に、先ずは本丸を取り囲む石垣を紹介します。
一見すると普通の神社のようだが



周囲を荒々しい石垣が取り囲み、ここが元は「御城」だったことがわかる。



築城者の京極高次(正室は浅井三姉妹の次女「初」、ちなみに長女は淀君「茶々」、三女は二代将軍秀忠の正室「江」)は川と海に囲まれた「水城(みずき)」として小浜城を築いたそうですが、現在は護岸が整備され城域も削られましたが、隣を流れる「北川」から眺めると水に浮かんで見え往時が偲ばれるようでした。




【外側から見た石垣】
「西面の石垣」
若狭湾の方向から撮影。この写真は西面の中央から北西隅までの直線部
背後の杜は「稲荷神社」で右側の社の屋根は「小浜神社本殿」です。



西面の石垣は中央部で分割され本丸内に入る通路「虎口」となっていますが、古絵図では「西櫓」があった場所です。



この「西櫓跡」の「虎口」から右手(南の方向)をみますと「天守台」の石垣へと繋がりますが、途中積み方が違っているように見えるのは崩壊しかかっているからでしょうか。
寛文二年(1662)5月に発生した地震により石垣は崩壊したとあります。(近江・若狭に大きな被害をもたらした「寛文京都地震」の事でしょうか?)

「天守台」は本丸の南西隅に配置され、西面・南面にそれぞれせり出した造りです。



「天守台」と西面の石垣を海の方向から見た写真です。
本丸が住宅と密接していることがわかります。



隅部の稜線に反りは無く、直線的に角が揃えられ算木積みですが形は不揃いです。



「南面石垣」
南東から南西隅の天守台方向を見る。
こちらも住宅が迫っている。



同じ角度からせり出した天守台の石垣を見る。
自然石を積み上げ、隙間に小石を詰め込んでいる。隅部は算木積みで稜線部には反りがあるようにも見える。




【内側から見た石垣】
南西隅に配置された「天守閣」
城壁の端面に天守へ向かう通路と階段がある



「史跡小浜城址 天守閣跡」の標識



天守閣跡には礎石の一部らしきものも残っていた。
写真は南西方向を見る。右手方向に僅かに若狭湾の海が見える。



写真は天主閣より北の方向を見る。正面に「北川」、左方向が若狭湾の海方向。



「西櫓跡の虎口」と城壁端面、奥は天守台
写真は西面虎口北側から見た南方向。
城壁は内・外から石を積んで真ん中の土をサンドイッチにしている構造が良く分かる。




「南面の城壁」
天守台から東方向を見る。住宅が迫り奥(東側)には「大手橋」が僅かに見える。
城壁は内・外から石を積んで真ん中の土をサンドイッチにしている構造が良く分かる。




「西櫓跡」の標識が建つ
西面城壁を内側から見る。右手が虎口
こちらの石垣は色白で丸みがある



西面城壁、稲荷神社裏手(北西隅)
こちらの石垣は荒々し形相



「東面の石垣」
南東隅 南方向を見る。
東面には小浜神社入り口があり、住宅街の大きな通りに面しています。



「北面の石垣」
北川に面しています。


北東隅
南方向を見る。
東面には小浜神社入り口があり、住宅街の大きな通りに面しています。




【本丸内部】
東面正面の鳥居をくぐって本丸内に入ります。

藩祖本田忠勝公を祀る「小浜神社」



「拝殿と本殿」
藩祖本田忠勝公は3代将軍・徳川家光から4代将軍徳川家綱時代の老中・大老という幕府の要職にあった。その遺徳を顕彰し明治8年に社殿を建立して御祭神として祀っている。



北西隅にある稲荷神社



社殿南側にある井戸と巨石
「古呂美橋の石」



「酒井会館」
東面の大通り沿い、神社鳥居の北側にあります。
歴代藩主酒井家の資料などを展示してあるそうです。



「組屋地蔵尊」
東面の大通り沿い、神社鳥居の南側にあります。
昭和28年9月の大風(ジューン台風か?)による水害で「衛門口」の石垣が崩れ、その後の復旧工事で石仏が石垣に転用されているのを発見。
この石仏は小浜城築城の際に人柱になった娘の霊を慰めるために建立したものと判明し、改めて祠を作り祀っている。




午前中に訪れた福知山城は多くの転用石を使った石垣で知られ、ここ最近では明智光秀ブームによりTVで取り上げられる機会も多く、初めて訪れたにも関わらず感動が大きくなかった。
しかし、この小浜城は全く前知識がなくぶっつけ本番だった為、予想以上に大きな規模の石垣に驚いた。しかも川と住宅地に挟まれ、日常の中の非日常と共存している姿にある意味感動すら覚えました。
本当に来てよかったです。


【小浜城】
《関ヶ原の戦いで功績があった京極高次が若狭国を拝領、雲浜城(うんぴんじょう)の雅号をもつ海城》

名称(別名);雲浜城(うんぴんじょう)
所在地;〒917-0095 福井県小浜市城内1丁目7-55
城地種類;平城
築城年代;慶長6年(1601年)
築城者;京極高次
主な城主;京極氏、酒井氏
文化財区分;県指定史跡
近年の主な復元等;
天守の現状、層塔型複合連結式3重3階(1635年築)非現存形態;輪郭式平城・海城

※出典、、、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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