この事件は、コンピュータとの思い出の中で最もインパクトの大きかったもので、関連する記事を抜粋してみた。
1982年6月23日、
今朝、NHKニュ-スでコンピュ-タ関係のアメリカ駐在員がFBIに逮捕されたと報道、事件の始まり。
6/24、新聞より、2面にまたがって逮捕までの経過が克明に記載されていた。
事件は、日本のトップメーカーである日立製作所と三菱電機の技術者がIBM3081-Kの機密情報を盗んだとしてFBIに逮捕されたのだ。後ろ手に手錠された技術者の写真が大きく報道された。
ダミー会社を仕立てたIBM+FBIのおとり捜査だった。
IBMとのフルコンパチビリテイを名目としてIBMに追随しているものである。
名目はともかくとして、通産省からも補助金がでておりIBM対抗としては、富士通と日立は全く同じことをやってきている。
ある意味では国が推進しているものである。
他にも、日電、三菱もしかりである。
つまり、実質的には国が認めた公の産業育成であり、国家的な産業スパイと言っても過言ではない。
しかしながら、これが資本主義国家のあり方であり、食うか食われるかの競争社会である。
日本はともかくとして、ヨ-ロッパ、アメリカでは、日常茶判事の出来事である。
今回の事件でも日本ではニュ-スのトップになって騒いでいるが、アメリカにおいては当日の22日と23日の二日しかニュ-スになっていない。
アメリカではそれ程大きな事件ではなく日常茶判事にこのような事が発生しているということである。
「互換路線の功罪」
富士通の池田敏雄はIBM互換路線を積極的に推進したといわれる。
なぜIBM互換路線だったのか?
それは、はた目からはかなり不自然な選択だった。
日本電気の会長だった小林弘治氏は田原総一朗氏のインタビューに答えてこう言った。
「だって、IBMがちょっと何か変えたら、こっちも必死になってそれに合わせて変えなきゃならん。つまりIBMに振り回され続けなきゃならんわけで、そんなもの長続きするはずがないでしょ」
「日本コンピュータの黎明」田原総一朗著より
小林氏の言うことは至極もっともで、むろん池田敏雄もそんなことは百も承知だったはずだ。
しかし、世界をターゲットにする、いずれくる日本のコンピュータ市場の自由化をにらむ、の2つを考えると、70%以上のマーケットシェアをにぎるIBMを無視した戦略はとれなかった。
このとき富士通は世界を目指したのだった。
「IBMの逆鱗にふれる」
しかし当時のIBMにとって日本のコンピュータ企業がアメリカはおろか、世界で商売するなどとんでもないことだった。
そこはIBMのテリトリーだったのだ。
事実アメリカ以外のコンピュータ企業はイギリスのICL、フランスのブル、ドイツのシーメンスなど数えるほどしかなく、それも経営状態はよれよれでIBMのおこぼれを拾っている状態だった(いずれも後に日本企業の支援を仰いでいる)。
それに引き替え、日本は政府の強烈なバックアップのもと、富士通、日立、日電、沖、三菱などみな元気で、日本におけるIBMのシェアはみるみる落ち込んでいた。
こうしたことはIBM経営陣にとって許し難いことだったにちがいない。
巨人IBMのパンチは、反トラスト法の鎖から解かれるとすぐ飛んできた。
「著作権時代の幕開け」
この事件の前の年、1981年1月米国の著作権法が改正された。
今までなかったコンピュータソフトウェアの著作権条項を追加したのだ。
この改正の前まではソフトウェア著作権はあまり意識されていなかった。
富士通会長だった山本卓眞氏の証言を聞いてみる。
「富士通は汎用機に自社開発の基本ソフト(OS)を載せてIBM機との互換性を提供するビジネスを70年代前半に始めた。
このころ、IBMはソフトウェア情報を公開しており、著作権表示もなかった」
ところが、この著作権法改正以後、状況は一変することになる。
ソフトウェアの著作権は厳しく管理され、紛争も多発するようになった。
ソフトウェアの使用許可を与えるライセンスビジネスも興隆した。
「長い長いIBMとの著作権紛争」
1982年1月米国司法省はIBM反トラスト法訴訟を取り下げた。
それまで11年間 IBMの活動を制約していたくびきは、レーガン政権の強いアメリカ構想によりはずされた。
そして半年後に事件は起こった。
当初から、この事件の本当のターゲットは富士通だったのでは?とうわさされたが、それを裏付けるかのように同じ年の10月に富士通はIBMから著作権侵害の通告をうけた。
それは長い長いIBMとの著作権紛争の始まりだった。
紛争はAAA(米国仲裁協会)に持ち込まれ、1988年に決着するまで実に7年の歳月がかかった。
富士通は膨大な和解金(約8億ドル)を払った。
このAAAの裁定で、富士通はIBMから技術情報を開示してもらう権利を獲得した(ただし数千万ドルのライセンス料を毎年支払う)。
「皮肉なダウンサイジング」
このころ日本はバブル経済を昇っていたが、同時にコンピュータの世界では深く静かにダウンサイジングが進んでいた。
皮肉なことに富士通が社運を賭けてIBM互換機ビジネスを守っていたその時期に、IBMを中心とした汎用機ビジネスのパラダイムが地下で崩れていたのだった。
1991年IBMは初の赤字を経験し、1993年3月期末決算で富士通も上場以降初めての赤字を計上した。
そのときすでにコンピュータビジネスの主役は汎用機ではなかった。
1993年7月富士通はその年の情報開示をIBMに要求しないと発表し、事実上IBM互換路線を転換した。
ひとつの時代は終わりを告げた。