弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

自分の命と釣り合うのは・・

2021-02-04 03:04:36 | 思考
まあ、色々哲学的な何かをかじって前回書いた独我論的な思考は生まれて。
確かに、私というのが特権的(死んだら世界を認識出来ないという意味合いで)である。

だが、それでも、いやそれとは無関係に、自分が何かに命を賭けるなら
特定の誰かの命
でしかあり得ないのではないか。

生物学的な意味合いだと、それは、自分の子であるべきだが、どうやら子孫を残せそうにはない。
それならどうだろう。

自分の何かを託せる誰か、というのを見つけなければならない。
もし大学教員になれれば教え子かもしれないし、臨床領域では幼いクライアントかもしれない。

決して博愛主義ではなく、空しさに抗いながら何かを創造出来る人。私を超えていってくれる一人、その人だろう。
分からない。教育の現場に限らないのかもしれないが、やはり、心理教育含めた教育が一番近いだろう。

そしてそれは、有償である必然性もない。むしろ、その人から何かを貰うのだから。
ボランティアの方がいいのかもな。有償であれば上限が見えてしまう。

少なくとも、この試験で命を賭けるなどバカらしい、ということだ。

まあ、やっぱり、自分の食べる分くらいは自分で稼がなきゃいけないのだが。
そこが一番のネック。

ここで死んだら・・独我論的な何か

2021-02-03 00:24:01 | メンタル
昨日、大学院退学を出してきて、今日こっちで出来る手続きを少しやった。
近頃、眠りが浅く、少し身体も使ったため、疲弊している。

実家に戻ったら、新しい大学院の入試まで少し僅かだ。
と考えていたら、提出物にミス、ひょっとしたら致命的なミスをおかしたことに気づいて、否定的感情がボロボロ出てきた。

知能検査で高い数値が出てても、それは術前だし、やっぱり自分は研究者として無能なんじゃないか?
そして、一流大学院でもない今度の大学院に入試で落ちたら、それは証明されるし、そうでなくてもずっと苦しい。何のために生きてるのか。
今、自殺した方が余計な苦しみから逃れられるのでは?

とか、色々。

何度も書いてるように、物理的な存在しか認めないのであれば、私が死んだらこの世界は認識出来ない。出来ないなら、もはや、存在しないと同じ。(※)
それなら、私がいつどこでどういう死に方をして、誰が悲しんで、誰が喜ぼうが関係ない。

だが、それでも、ここで自殺既遂をしてしまえば、明らかに前の研究室と関係あるように思われるだろう。繰り返すが、それを認識出来なくても。
そう考えると癪に触って、とりあえず、眠ろうという気にはなった。
前の研究室は酷かったが、別に恨みこそすれ、憎みまではいかない。
それに、自分の命と引き換えに悪評を得させても嬉しくもない。

ああ、あれか。twitterみたせいか。twitterに私の悪口が書かれてた訳ではないし、別に通常通りだ。というか、志望先の教員がアカウント持ってるのでそのついでに見ただけだ。

どちらにしろ、もう関係ないのだ。向こうもこっちも。
そう。ここで死のうが関係ない。軽い。この命は。

それでも、やっぱり、自分の自殺がそんなどうでもいい存在にまで波及するのは気に食わない。
今はそれでいいだろう。

ただ、入試で落ちたら分からないな。

(※)これは妥当な推論ではない。端的にそう感じるだけ。
だが、自分が生きるか死ぬかは、結局、ここが全てなのだと思う。
哲学的には独我論の一種だろう。ここを矯正出来なければ、精神が危機的状況になった時に命が危ない。ただし、この独我論が直接私に引導を下す訳でもない。
やっぱり、うつ状態ありきなのか。

逆に一般的なメッセージとしたら、結局、認識出来ないのなら、生きているうちに見返せ、となるのだろう。
だが、私は疲れてしまった。