弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

意思決定は慎重に・・

2017-01-31 16:52:48 | 思考
明日、新しいデイケアの説明会に行って、もし通うとなれば色々生活が動くのでこれからについて考える余裕がある時に考えておきたいのだが・・・

分かっていたことだが、昨日主治医に、
うつ状態の時に大きな決断はしない方が良い。
と言われ、以前にも別の医者に、
調子のよい時に頑張り過ぎず、調子の悪い時には無理をしない。
とも言われている。

ならば、波もあるなかで、どの時点で下した決断が正しいのだろう。
確かにフラットなときに重要な決断は下すべきだが、そんな時はあまりないし、仮にそうだとして、その決断をうつ状態の時にひっくり返さないとは限らない。
そうであれば、うつ状態の時にも取り組めそうだと思った事柄が、一番正しいのではないか。持続可能性という意味でも。
(抑うつリアリズムの項でも述べた)

ああ、何か既視感がする。
結局、いつも同じようなところを廻っているだけか・・

競争

2017-01-31 00:22:12 | 思考
ふとしたことから、mixiで学振(国から博士課程以上の研究者に出る研究費その他の費用のこと)のコミュニティを覗いた。やはり、過去の実績は大事で、貰った人は大概、国内外での学会発表を多数し、査読つき論文の掲載をされている。
何か勘違いしていたようだ。アカデミックポストは実力さえあれば、運次第だと。
実際にはいかに自分の研究や業績をアピールするかの競争。
そして、それは資格試験・就職試験の非じゃない。

また、これもふとしたことからだが、障害者採用の求人情報を少し見てみた。
大手はほとんど募集せず、中小の低賃金・低保障のばかりかと思ったらそうでもない。
当たり前だが、雇用率が一定なら規模に応じて採用人数は多くなる。そして、確かに低賃金だが、大手は保障や手当てが厚い。大小問わず、障害者への配慮義務はあるので大手・優良企業にこしたことはないだろう。

だが、無論、採用面接もあるのだが、そこでの倍率はいかほどなのだろう。
元から大学受験以来、競争することには抵抗があったのだが、健常者同士が争うのと、弱い立場同士で争うのは訳が違う。

誰かを蹴落とすには正当性が必要だ。
しかも、それは選ぶ側にではなく選ばれる側に。

思えば、ペーパーでの競争にはそれが要らない。
ただ単純にその時の能力であるから。誤魔化しは基本的にきかないから。
だが、採用面接という人格を試すものは違う。
本当に受けがいいものを呈示しあう化かしあいだ。
それでも、一生を左右し、同じ所は二度と受けられないのだから、他者を蹴落とす理由が必要だろう。

学振も面接があるらしい。(免除あり
結局、どういう領域であれ、相手にお伺いを立て、気に入られるスキルが必要ということだ。

疲れた。


毒を以て毒を・・・

2017-01-29 23:12:55 | 思考
去年の手術以来、酷く自己本位なものの考え方をするようになった。
自己中心的ではなく、夏目漱石流のそれだ。

自分の苦しみや痛みが対人援助で得られる喜びに勝るなら、それをすることはない。
そして、自己犠牲が快感に感じられるほどマゾでもないらしいし、他人の苦痛が居たたまれないものであっても、その現場に居合わせないなら、自分が何とかする必要も義務もない。
周りでお世話になっている人は別として。

これは、結局は、昔から考えている「必要性」の契機の放棄だ。
自分である必要も無ければ、自分がする必要もないことはしない。したくない。
必要とされたい、そんな考えからサヨナラをしたのだ。

同様に自分がしてきた経験、特に負の経験をアイデンティティとしていた部分もあった。
そこから、その経験を活かしたり、他の人とは違う特殊な職業に就く、そんな考えに至る。
それは、昔から考えている「独自性」の契機だ。だが、それも放棄した。
病人や経験者、利用者としての経験が長すぎるとそちら側の視点に偏り、対人援助として望ましくない方向になる場合もあるということが分かり、提供者と利用者両者にとってマイナスになる場合がある。
もっと、有体に言えば、利用者から提供者になった場合に、同族嫌悪の危険性がある。
利用者という身分で同族嫌悪するのは勝手だが、提供者が利用者に根幹の部分で嫌悪してはいけない。
それに、そこまでオリジナリティを汎用化出来るとも思わない。
オリジナリティだという誤認の可能性すらある。

ここで、独自性→必要性、という流れは入院期間に崩れ去り、もはや「独在性」という契機しか自分の存在には残ってない。
それは、1カ月で10回の全身麻酔。
それと、自分の意識状態、感情状態について、他人にうまく説明できなかった・できない、というものが結露したものだ。

そうなると、ここにポツンとある意識だけを寄る辺にしなくてはいけなくなった。
この意識だけが、他人の意識とは別格として存在し、言語化も困難で、ただ在るものとして受け入れざるを得なくなった。

これは毒であり、社会的には退化だ。だが、思想・哲学的にはどうなのだろう。

・・・大学在学中の頃から、永井均という哲学者の著作に強く惹かれた。
特に、倫理学の本での命題に衝撃を受けた。
全ての人間は利己的で利「今」的だ。
というもの。
詳しい説明は省くが、上の「独在性」という観念は永井氏の著作の影響も大きい。(恐らく、氏からすれば、私は本当に理解してはいないのだろうが)

ただ、独在性というのは、何ら生き方を示すものでもなければ、お金になるものでもない。
よって、そこから価値を組み立て直し、また自分の中での規範や標を作っていかなければならない。
しかし、おそらく、ただの純然な主観的事実でしかないのだから、それは困難だろう。

今、一番の難点は、独在性はいいとして、
何故、「私」がいずれは消失しなければならないのか。
という不条理に対する怒りと恐怖である。(消失が、ただの肉体的死のことではないことは分かるだろう。)
意識がその活動を潜める睡眠の前に、得体の知れない恐怖を感じる。眠る前と寝た後で断絶を感じる。(手術と薬のせいもあるだろう)

正確に言うと、消失するのは「この私」ではない。
一瞬一瞬変化しているとも言い難いが、少なくとも、私は毎日死んでいる。それとは区別しなければならない。
だが、死自体が一般的に意識を恒久的に消失させるとはいえ、何がどうなるかも分からない。
死は一回性の真に固有な経験というが、それすら分からない。死者は語らないという意味でも無く、その時の私に何を意味するかも分からない。
無宗教、無神論者なのも大いに関係する。

今、死について語りうるとすれば、その時その時において自死を選ぶか。それしかない。
(駅で電車が通り過ぎる時に、一歩踏み出せば・・・という想いがよぎることがある。)

ともあれ、哲学的思考がもたらす毒には毒で対抗するしかないのかもしれない。
今後の生き方を模索して進む前に、多少世離れしようと、哲学書を読むしかないのかもしれない。

生きている間に、価値の体系を組み立て直し、それが不可能なら、価値基準を生み出さなければならない。
結局のところ、鬱屈した感情に負けているだけのようなら、消極的ニヒリズムに浸っているだけだ。
元の元を言えば、最初に読んだ哲学者であるニーチェに準拠した能動的ニヒリズムに至らなくてはいけない。
(だが、それは「強者」の枠組みだ・・・)

考えているだけでは先に進めないとは思う。
だが、行動は不安障害という枷で制限される。
何をどうしたらいいのか。



SAD-自尊心の低下?2ー転落

2017-01-27 23:08:53 | 思考
よくよく人生を振り返ってみるに、本当に自分の社会不安は自尊心だけの問題なのかを考えた。

小学校2年の時に、音楽の授業で一人ずつ伴奏つきで歌わせるという授業があった。
そうします、と教師が告げた途端に自分の番が心配になっていた。
今からの推測と回顧でしかないが、本番は声が震えていたし、何よりその歌のメロディーをまだ覚えていることが証拠だろう。

そして、少年野球団。
ピッチャーをやった時は、どんなにその前に速球を投げていても、試合になると山なりの緩い球しか投げられない。
中学の野球部で外野を守らせられた時も、足が竦んでいた。

中高を通じて授業で当てられないかとドキドキしていた。

この頃に、明確な自尊心があったとは考えづらいので、失敗→自尊心の低下という図式の前に、先天性のシャイネスや広い空間で自分が何か動作することに不安と緊張を覚えていたのだろう。
そして、そうなるから動作が余計ぎこちなくなり、その結果笑われたりすると自尊心が低下する。
入院中に測った簡易IQでは動作性知能が89(言語が118、作動記憶が135)という結果にも社会的状況での動作のぎこちなさというのが表れている。

だが、そういう先天性のものと現状、どうしてもアルバイトに踏み込めないのは若干事情が異なる。
メンタルを崩さなければ、公官庁や大企業に学歴的に入れただろうに、派遣先の中小の会社の社員やアルバイト先の人に、
いい歳して、こいつ、使えないな。
みたいな顔をされるのが本当に嫌だ。その人たちをバカにしているというより、双方がやむを得ない事情なのに、そういう人たちにバカにされるのが嫌だ。

鬱屈しているし、屈折もしている。自覚している。
動作性知能では向こうの方が上だろう。
でも、自分はそちらの世界で生きていくには不向きだったし、別の道も選べたはずだ。

・・・社会人楽団で言われたことがある。
旧帝大の法学部を出た人間が今そんな身分で、これからどうなるのかが気になる。
と。
だから、一般認識的には「下層へ転落した人間」そういう扱いなのだろう。

それでも、目下、お金が必要となっている。
そして、自尊心というのは、自分がそれをどんなに下らないと思っても、変わらない。変えられない。
それならばせめて社会的状況での動作を必要としないもの、そして自尊心が低下するような状況が少ない仕事を探すべきだ。
求人を見ても、パッとするのがないのだが・・・

まあ、今のところのアルバイト探しを阻んでいる要因が、睡眠・体力気力・集中力・抑うつ症状、なのでそれをどうにかするしかないのだが。

痛みへの耐性

2017-01-27 14:18:52 | 思考
風邪をひいて薬を飲んでいるが、薬という薬全てに抵抗感が無くなってきていることに驚く。

精神疾患で常用している薬は基本的に定期的に飲むものだし、即効性はないのだが、、抗不安薬二種を一日の好きな時間に使える。
そして、頓服薬という名の下(正確には頓服薬は一種)で、制限してくる医者もいたが、自由に使えた期間の方が長い。

これが何を意味するか。
少しの落ち込み、不安、緊張などに対して、少しでも苦痛を感じたなら、すぐさま薬頼りになるということだ。

・・昔は市販薬を含めて薬には抵抗があったし、肉体的なものならまだしも精神症状を抑えるためというのにはかなりの葛藤があった。精神科に行くのが遅れた。
だが、慣れというのは恐ろしく、結局、弱くなったのだろう。苦痛という苦痛全てに対して。
1錠放り込めば、緩和する。誰にも何も咎められない。

しかも、処方薬だけでなく市販薬にだってリスクはあるのにそれを気にしないと来ている。