SPORTS! SPORTS! 寝てもさめても

16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

夏の甲子園 名勝負集その5 ~10年ぶりに~

2020年04月03日 | 高校野球名勝負

 

 

 

コロナ禍が収まらず、
スポーツは壊滅的な状況になっています。

日本のみならず世界で感染が拡大するとともに、
世界中のスポーツは完全にストップの状態になってしまいました。

日本でもプロ野球、Jリーグのみならずほとんどのプロ・アマ問わずほとんどの競技が中止または延期。
開催された大相撲と中央競馬も『無観客』という異例の措置をとっての開催でした。

こんな時期でもありショックなことも多数起きている時勢の中、
ブログで書くこともほとんどなく、
ぼ~ッと見返していたら昔の高校野球記事に目が留まりました。

オフシーズンのヒマな10年前の12月に書いていた記事。
高校野球のことが好きで好きで、
書きたいことがてんこ盛りの時代でもありました。

「そういえば、なんだか4回ぐらいやって、フェードアウトしちゃったんだよなあ」
なんて思って、その後のワタシの心に残った試合の事でも書いてみようかと、
10年ぶりに思ってしまいました。
ま~昔の事ですから(何しろ昭和)、
うろ覚えの事も多々ありますので、
ご容赦を。
筆が進むかどうか。。。。。。。
楽しく書けたら、また次回もやりますね。



昭和56年 3回戦
名古屋電気(愛知) 2×-1 北陽(大阪) (延長12回) 

キレキレの工藤の左腕が三振の山築くも、北陽がど根性の粘りで激戦に。

この年の甲子園。大会前の評判では早実、報徳、秋田経大付、横浜らが有力校に上がっていた。しかしフタを開けると、2回戦で名電の工藤がノーヒットノーランを達成。登場した彗星に、マスコミは話題騒然に。その工藤が2戦目に対戦したのが大阪の北陽。この北陽、前年の昭和55年には秋の近畿大会を制し甲子園にも春夏連続で出場。強力打線で優勝候補の一角にも挙げられたが春夏ともに初戦で東京の技巧派投手に全くバットが合わず連続の完封負けを喫した。そしてこの年は、大坂の王者・PL学園がエース・西川、主砲・吉村らを擁する強力な布陣で選抜を制覇。
北陽はナニワの野球ファンの期待からは外れる存在であったが、闘将・松岡監督に率いられ「ゲリラ戦で強い者に勝つ」しぶとい”弱者の野球”で夏の大阪の覇権を2年連続で制覇。その後広島等で活躍する好左腕・高木を擁していたものの、大阪大会でも甲子園でも、先発させるのは徹頭徹尾1番を背負った吉岡。その吉岡が打たれてビハインドを追うゲームが多くなったものの、頑として松岡監督は吉岡⇒高木のリレーを変えず。それを見ていてワタシ、ある意味とても感心したのを覚えていますが、この試合でもあの工藤相手にビハインドを追った前半となってしまいました。工藤はこの日も絶好調。結果的に12イニングを投げてわずか4安打、無四球(!)、そして21三振を奪った好投でした。しかし北陽はたった一度のチャンスを掴みタイムリーで同点。本当にしぶとい北陽の野球でしたね。9回裏には2死2塁からセンター前に「すわっサヨナラか?」というヒットを打たれたものの、センターからのどストライクの返球でタッチアウト。帰ってくるナインを松岡監督がベンチから両手を上げて迎える姿、まぶたに浮かびます。そんな激戦も12回に決着。名電の恐怖のトップバッターであり、この後のプロ入り3人衆の一人であった中村が高木のスライダーを捉えると、闇夜の中レフトポール際に打球は消えていきサヨナラホームラン。高木はこの痛恨の一球を投げる前、キャッチャーのサインがナイターで見えなかったか、何度も「見えない!」とキャッチャーに首を振り、若干納得していないながら投げた一球のように見えました。正直、悔いの残る一球だったと思います。しかし剛腕・工藤を向こうに回し、高木がその細腕から投げ続けた投球は見事なものでした。工藤のすごさが際立った一戦でしたが、高木、そして北陽には高校野球ファンが大好きな「敗者の美学」がいっぱいに詰まっていました。忘れえぬ一戦です。


昭和56年 3回戦
 報徳学園(兵庫) 5×-4 早稲田実(東東京) (延長10回)

金村による、金村の大会。逆転の報徳、見事に荒木を沈めて優勝へ一直線。

この年の3回戦は、激戦が多かった。そして波乱も沢山演出されました。優勝候補の秋田経大付の剛腕・松本は「ちびっこ軍団」志度商のマムシのような食らいつく打線にサヨナラ負けを喫し、京都商の”沢村2世”井口は宇都宮学園に押されまくっていたのに土俵際で耐えに耐え、ワンチャンスを生かしてのサヨナラ勝ち。都城商の主砲・加藤は岡谷工の好投手・金丸から2本のアーチをかけ、その一本が歓喜のサヨナラアーチ。初出場同士の8強をかけた決戦に勝利しました。ちなみに加藤も金丸も、この大会で大いに評価をあげて秋のドラフトでプロ野球への道を開きました。そして上で書いた名電と北陽の激戦もサヨナラ決着でした。こう考えてみると、8強をかけた3回戦8試合で、5試合が延長サヨナラ決着。長い甲子園の歴史でも、こんなにすごい3回戦の戦いはなかったのではないでしょうか。そんな中で報徳と早実という東西の優勝候補同士の戦いは、劇的な決着で球史に残る試合となりました。早実の荒木は、この年の春の選抜では初戦で敗れ去りましたが、夏を迎えてコンディションをあげて前年の準優勝時に近い投球で3回戦まで勝ち上がってきました。一方の報徳のエース金村は、夏を迎えて絶好調。2回戦では前年優勝の横浜に対し、金村が好投して相手を抑えきるとともに、4番としては2打席連続アーチをかけて一人でディフェンディングチャンピオンを完膚なきまでに撃破。その両雄の戦いは、異様なまでの盛り上がりとともに開始されました。荒木は球速こそないものの、速球、カーブを外角低めに集めて強打の報徳相手に全く危なげないピッチングを展開。一方の金村も低めに重い球を集めて好投、両軍譲らずに試合は0-0のまま後半に向かいました。そして7回表、まずは早実がチームの特色であるキレのある攻撃を見せて金村を攻略。あっという間に3点を挙げ、続く8回にも追加点をあげて4-0と試合をリードしました。荒木を擁する早実、このような試合展開がまさに大の得意。荒木が相手をしっかりと抑えている間に、小技、足技を絡めて得点を奪い、ロースコアで逃げ切るというもの。どんな相手にも同じような戦い方ができるというのが早実の強みで、この試合でもここまでは存分にその特徴を発揮していました。しかし誤算だったのは、金村を中心としたこの年の報徳のマグマは、一度爆発するとものすごいエネルギーで相手を飲み込んでいってしまう力を秘めていたという事。8回裏に1点を返した報徳は、9回裏には金村のギリギリセーフの内野安打からチャンスを掴むと、そのエネルギーは一気に爆発しました。(*ちなみにこの金村の内野安打、この時の早実のセカンド、小沢の守備は、ワタシは今でも「高校野球史上最高の守備」だと思っています。) 一気にこのチャンスで荒木に対して畳みかけ、小さな代打・浜中の歓喜の同点2塁打でそれこそ「あっという間に」同点に追いつきました。そしてこうなるともう、流れは圧倒的に報徳へ。この時の球場全体の異様な雰囲気と報徳の大絶叫の応援、忘れられないド迫力のものでした。延長にもつれ込んだ10回裏、金村のものすごいレフトへの2塁打でチャンスを作った報徳は、西原のレフトへの一打で歓喜のサヨナラ!見事な大逆転での勝利、まさに「逆転の報徳」の面目躍如でした。そしてこの時、報徳の目の前に、夏の選手権初優勝の光る道筋が、はっきりと見えたと思います。そしてこの光る道に乗って、初優勝に駆け上がっていくのです。激戦が多かったこの大会でも、やはりもっとも印象に残った力のあるチーム同士の素晴らしい戦いでした。



昭和57年 1回戦
春日丘(大阪) 3-2 丸子実(長野)


公立の星・春日丘、「やればできる」で大逆転。甲子園でも魅せた!

この昭和57年。蔦監督率いる池田が歓喜の初優勝を「やまびこ打線」の大爆発でド派手につかみ取った年でした。この年の甲子園、前年と違って球史に残るような激闘はあまりありませんでした。記憶されているのは、池田のやまびこ打線のすごさのみ。準々決勝の早実戦では荒木を完膚なきまでに叩いて水野の2本のアーチなどで14-2と粉砕、そして悲願の初優勝をかけた決勝でも広島商に12-2とこれまた粉砕。この2試合のすさまじさが強く印象に残る大会となりました。そんな中で「だれも覚えていないかもしれないな」と思いつつ、最も印象に残った試合について少し。それは大阪の初出場、”公立の星”春日丘の戦いです。春日丘は軟投派のエース田宮を擁して、新チーム結成の秋からずっと戦績を残した大阪府内では注目の存在でしたが、全国までその名は轟いてはいませんでした。その年の大阪には、春の選抜で「センバツ連覇」を達成した絶対王者・PL学園が君臨していたからです。PLの選抜の戦いは盤石。ドラ1・榎田を中心とした盤石な投手陣に、強力かつ粘り強さも持つ打線。どこをたたいても「PLが負けるわけない」という雰囲気を醸し出す存在でした。しかしそこに夏の大会で、果敢に挑んでいく存在がありました。それが春日丘。若き闘将・神前監督は全ての作戦を駆使して「何が何でも勝つ」という事を実践する監督。そして選手たちが、実に素晴らしく監督の意図を酌んで忠実に実行できる好チームでした。PLとの直接対決を、最後ホームスチールという奇策でもぎ取った春日丘は、勇躍初出場を決めて甲子園へ。ワタシは大会前から、このチームに興味津々。「なになに、監督の名前にも”神”が宿っているじゃないか!」なんて勝手に神格化して、楽しみに待っていました。そして抽選で引き当てた春日丘の相手は丸子実。伝統校であり、強力打線を前面に出すこのチームですが、やはり長野代表。当時雪国・長野代表が大阪代表に勝つという事はほとんどなかったので、試合前からワタシは「初出場と言えども、春日丘が有利じゃないか?」と予想を立てていました。実はこの日、ワタシは長野県のとある地に滞在していて試合を見ていたので、今風にいうと「丸子実のサポーターのまっただ中での観戦」ということで、”心の中でひっそりと”春日丘に声援を送っていたものです。球場は「大阪の公立校」という事で大歓声が起こっていました。あたかも2年前の都立国立高校の戦い(特に神宮での)の雰囲気に似ていました。丸子実のナインは本当にやりにくかったと思いますが、それでも彼らは果敢に得意の攻撃力を展開し、試合の主導権を握りました。特に2年生の4番(名前は失念しました)の打棒は凄かった。多分3本ぐらいヒットを打ったと思いますが、打球の速さは群を抜いていました。その打棒で中盤まで2-0とリード。劣勢になった春日丘ですが、何か神前監督には余裕が感じられるように見え、「まだまだ何かがあるぞ」と思っていた矢先の6回裏、春日丘の打線が爆発しました。まさにワンチャンスを生かして次々に低い当たりで後ろへ後ろへとつなぐ攻撃は、迫力満点でした。そして、甲子園の雰囲気はまさに「タイガースが試合しているよう」な熱狂ぶり。春日丘は一気に3点を奪って逆転し、神前監督はベンチで自信満々に「それでいいんだ!」と手をたたいてナインを鼓舞していました。ワタシはそれを見ていて「スゲ~なあ」しか思えないぐらい、魅了されてしまいましたね。そしてそのマジックが38年経った今でも解けることはなく、いまだに神前監督を応援しています。今の時代、この時代よりもずっと公立の進学校が甲子園で活躍することは難しくなっていると思いますが、この時代でも春日丘のセンセーショナルな戦いぶりは、世間に鮮やかな印象とさわやかな風を送ってくれました。


昭和57年 3回戦
津久見(大分) 3-2 佐賀商(佐賀) (延長14回)

九州同士の手に汗握る激戦。「史上最強」の佐賀商は、延長14回、スクイズで敗れ去った。

その昭和57年、もうひとつ手に汗握る激戦がありました。それが3回戦の最後の試合、九州同士のものすごい戦いでした。この甲子園で初戦、9回2死までパーフェクトで相手を抑え、結果ノーヒットノーランを達成した佐賀商のエース新谷は、大会の序盤の話題を一手にさらいました。打線も九州NO1の破壊力を秘めていたこのチーム、一躍「優勝候補」に名を連ね、ベテランの板谷監督も自信満々でこのチームでそれまでとかく「高校野球弱小県」と言われていた佐賀からの初優勝を狙っていました。一方甲子園で全国制覇を経験する名将が津久見の小島監督。この年で監督からの引退を決めていた小島監督が自信をもって送り込んできたこの年の津久見でしたが、それまでの強力チームに比べると若干スケールの大きさは見られないチームで、この大会での戦い方から見ても佐賀商の優位は動かないと見られていました。実はこの戦いを見るうえで微妙に影響を与えたと思われるのが、次の準々決勝での対戦がすでに決まっていたという事。当時は2回戦(残り)、3回戦、準々決勝・・・・など、その都度首相を集めてバックネットの前にボードを立てて次の対戦を決めていました。3回戦最後の試合であるこの試合の勝者は、既にこの試合に勝った場合の対戦相手が優勝候補の中京と決まり、さらに日程は翌日の8時開始の第1試合と決まっていました。この日程は、ワタシはこの試合優位と言われ、優勝を狙っていたと思われる佐賀商の方に影を落としたと思っています。「どうしても先を見た戦いとなってしまう・・・・・」という感じで試合に臨み、序盤予定通り2-0とリードしたという事に、佐賀商の落とし穴があったと思います。この大会の新谷は、2点以上取られるという事がファンもほとんど思っていなかったぐらいキレキレの投球を続けていました。ナインにも監督にも、若干ながら翌日の試合を見据えて「早めにこの試合を終わらせる」という気持ちが出たのではないか・・・・・そんな気がします。5回に津久見に1点を返され2-1となり、そのまま逃げ切るかと思われた8回に追いつかれ同点に。。。。追いつかれて目覚めるかと思われた佐賀商は何度もチャンスをつかむものの焦りからかとらえきれず、試合の流れを変えることが出来ないうちに延長14回へ。そして3塁にランナーを置いた津久見は、ここで乾坤一擲のスクイズを敢行。新谷の速球を何とかバットの芯に当てた打者の打球は、野手の正面へは飛ばずにスクイズは成功。そして佐賀商は、この「史上最強のチーム」で全国制覇という夢を打ち砕かれて、失意のまま甲子園を去ることになりました。津久見はこの激闘から12時間も経っていない中プレーボールのかかった翌日の中京戦で、序盤に5点を先制されてジ・エンド。まさに過酷な試合日程に翻弄された形となりました。佐賀商は、ベテランの板谷監督が手塩にかけたこのチームで上位進出はならず涙にくれましたが、その12年後、後任の田中監督がこの時とは比較されることもなかった小粒なチームを率いて、まさに「まさかの大進撃」で全国制覇を成し遂げました。まさに「強いチームが勝つんじゃない、勝ったチームが強いんだ!」という格言を地で行く、佐賀商の歩みですね。それにしても、しびれるしのぎ合いに、手が汗にびっしょりと濡れていたのを、覚えています。



昭和58年 1回戦
箕島(和歌山) 4×-3 吉田(山梨) (延長13回)

「箕島の奇跡」再び。硯の起死回生の一発で箕島がまたも歓喜のサヨナラ勝ち。 

 昭和50年代、甲子園は奇跡に彩られていました。50年~53年までの4年間、決勝戦は全てサヨナラ決着。54,55,56もすべて接戦での決着で甲子園の人気は最高潮。その社会的影響は、今とは比べ物にならないほどです。毎年の甲子園が、まさに昨年のラグビーW杯と比較できるほどに盛り上がっていた時代で、数々の名勝負も生まれました。そんな中「奇跡」「大逆転」という形容詞が最も似合うチームといえば、PL学園と箕島の”近畿の両雄”にほかなりません。両チームともに「好投手を擁し」「守備は完ぺきに鍛えられ」「打線の破壊力は大会屈指」なんていう寸評とともに甲子園に出場するたびに「優勝候補」に上げられていましたが、この両チームのすごさはそれだけにはとどまりませんでした。それは、「とにかく粘り強く、最終盤での奇跡の大逆転を何度も甲子園で演じていること」こそがこの両チームの真価ということが言えるでしょう。相手は何度もそんなシーンを見て脳裏に焼き付いているからなのか、終盤リードしていても「いつかはやられるんじゃないか?」という感じ載ったかいとなって、両チームは「待ってました」とそれに漬け込んで逆転勝ちを収める。。。。。。それが有る意味、甲子園の定番と化していた、昭和50年代です。その中で箕島は、あまりにも有名な「箕島-星稜延長18回の激闘」で2度にわたり絶体絶命に追いつめられたところから同点ホームランが飛び出すという奇跡を演じました。春の選抜では昭和54年のPL戦での逆転サヨナラ、57年の明徳戦での2度延長で追いついてのサヨナラ勝ちなど、奇跡の演出は枚挙にいとまがありません。そしてこの試合も、「奇跡」と呼ぶにふさわしい、すごい逆転劇でした。この年の箕島は、前年の「箕島史上最強」と言われたチームに比べるとやや粗さが残る布陣ではありましたが、エースにその後メジャーでも活躍する吉井を擁し、スケールの大きさは維持していました。選抜は逃して迎えた夏、順調に県予選を勝ち抜いて甲子園にやってくると、初戦の相手は山梨の吉田。当時の箕島と吉田では、実績からネームバリューから全てにおいて箕島が大きく上回っていて、予想では一方的に箕島の勝利というのがほとんどでした。しかし試合とはやってみなければわからないもの。吉田は序盤に2点を先制すると、左腕の軟投派、三浦が丁寧に低めを突く投球で好投、箕島に全く攻撃をさせませんでした。かつてどんな剛腕でも打ち砕いてきた箕島でしたが、あまりの軟投派にバットが全く合わずに終盤を迎え、ベンチ前にどっかりと陣取る名将・尾藤監督のスマイルもひきつって見えたものでした。7回に主砲硯がアーチを描き1点差に詰め寄るもその後が続かず9回を迎えました。ここで箕島は1死3塁のチャンスを迎えます。バッターは前の打席でアーチをかけた主砲・硯。ここで箕島はこれまでの甲子園でことごとく成功させてきたスクイズを敢行。しかし低めのスライダーに硯はバットに当てることが出来ず空振り。3塁ランナーが憤死して2死走者なし。「ああ、箕島もここまでか・・・・・」の雰囲気が漂いました。「あの箕島が、スクイズを失敗させるなんて」と球場が驚きに包まれているとき、快音が鳴り響きました。硯が「自分のミスは、自分のバットで」とばかり、どでかい同点のアーチをセンターバックスクリーン方向に放り込んだのです。ここで観衆は「やっぱり箕島は凄い・・・・」という事を、改めて強く認識するのでした。しかし吉田はその後も箕島と果敢に渡り合い、13回にはダブルスチールで均衡を破り1点リードを奪います。しかし、吉田の選手の頭の中には「箕島がこのまま終わるわけはない」という事がよぎったのではないでしょうか。リードした裏の守りでは、ナインが明らかに硬くなっていて、ひょうひょうと投げ続けていたエース三浦もまったく違ったピッチングをしてしまいました。あっという間に満塁のピンチを背負うと、次の打者のゴロがショートに。。。。。。。。そしてその球を、ショートがあり得ないポロリを。。。。。。。。。そのショート、西武に入団して現役を退くまで、ポロリのクセが治らなかったあの元監督でもある、田辺徳男でした。吉田は大健闘も、次打者にサヨナラ打を食らって、一敗地にまみれてしまいました。箕島は「さすが」という所を見せてのサヨナラ勝ちを収めました。しかしながら、この大会の箕島、3回戦で敗れますが「何かいつもの箕島とは違う」という試合運びの粗さなどが見られる大会となり、翌年ドラ1投手二人(島田・杉本)を擁しながら初戦で取手二に敗れて、そこで「尾藤監督と箕島の栄光の歴史」に幕が下されることになりました。その萌芽は、この試合にもみられていました。そして和歌山は、高嶋監督率いる智辯和歌山の時代に向かうのです。

 

昭和58年 準々決勝
池田(徳島) 3-1 中京(愛知) 

ワタシの中に残る「高校野球最高試合」。水野、野中の極上のしのぎ合い。 


年代が近いという事もありますが、やっぱりワタシの高校野球観戦ほぼ半世紀の中でも、「最高の試合」として残っている試合です。「延長〇〇回の激闘」でもなければ「劇的な逆転サヨナラ決着」でもありませんが、この試合の空気感、緊張感、ワクワク感・・・・ずっと1年間追ってきた両校の「集大成」のような試合、そしてその決着。忘れられようもありません。
この試合に至る経緯については、当時の高校野球ファンであればだれでも知っていることです。「イレブン池田」で選抜準優勝してから「甲子園の特別な監督」という地位を獲得した蔦監督。その池田が、何度かの挑戦の後歓喜の初全国制覇を達成したのが前年である昭和57年の夏の選手権大会。蔦監督はそれまでのうっ憤をすべて晴らすように、「高校野球を変えた」と言われるド迫力の「やまびこ打線」を作り上げて甲子園に臨み、準々決勝では”甲子園のヒーロー”荒木大輔を粉砕、そして決勝では”高校野球の代名詞”足技と小技、究極の守りを誇る広島商を粉砕。この還暦を迎えた指揮官は、高校野球ファンに「新しい高校野球」を存分に見せてくれたのでした。
当時は高校野球の人気が頂点まで足していた時期でもあり、そのストーリー性から池田は各マスコミに一挙手、一投足まで追われるという現象を起こしました。そして秋から始まった新チーム。このチームに前年の優勝チームから3番と5番、ともに荒木からホームランを叩き込んだ江上と水野が残り、江上は主将として、水野はエースとして、新たなチームの軸として力を発揮して、前年よりさらに力強いチームを作って春の選抜では相手を寄せ付けずに完勝。夏春連覇という偉業を達成して、この夏は「最強チーム」として夏春夏の3連覇に史上初めて挑むという事になったのでした。当時も東京に住んでいたワタシが、ユーチューブもBS/CS放送もないこの時代に、池田のナインを追ったドキュメンタリーを春から夏にかけて3つも見たのを記憶しているのですから、どれだけ人気があったのかわかってもらえると思います。
そんな池田の最大のライバルになるとみられていたのが愛知の名門、高校野球の顔でもあった中京です。甲子園最多勝利をあげているというだけではなく、名将・杉浦監督に率いられてからは春夏連覇をも成し遂げたこの名門は、この年久しぶりに「全国屈指」と言える好投手・野中という逸材を得ていました。オーソドックスなフォームから投げ下ろす速球は重く、そしてコントロールが抜群の投手でした。(ちなみに控えにもプロで後に活躍する紀藤などが控えていたので、どれだけ層が厚かったかがわかろうというものです。)
その野中は前年、春夏連続で甲子園にエースとして出場。ともに準決勝で敗れていましたが、既に2年生で大会屈指の評価をされており、夏の甲子園後の「全日本選抜チーム」に水野らとともに選ばれており、そこで両者すっかり意気投合して甲子園での対戦を心待ちにしていたといいます。
しかし野中は3年になったセンバツに姿を現すことはありませんでした。秋の大会で敗れて甲子園に出場することはかなわず、自身最後となる夏の大会へ、捲土重来を期していました。その愛知県では、選抜ではもう一人の怪物が注目を浴びました。それが享栄の藤王(元中日)です。藤王はセンバツでは準々決勝で敗れましたが、何と8打席連続安打など大会記録を打ち立て、野中の強力なライバルとして君臨しました。
「夏は享栄の方が有利?」との声もある中、しかし野中の中京は、その藤王率いる享栄を夏の県大会で下し甲子園の切符をゲット。
いよいよ「両雄が揃う夏」の決戦の場が、聖地・甲子園となったわけです。
高校野球ファンの間では、もっぱらの興味は「池田の3連覇がなるか?」といったものでしたが、その前に立ちはだかるのは「中京の野中しかいない」というのも、衆目の一致した意見でした。
ワタシも「池田打線vs野中」というのを、頭の中で何度もイメージしていました。この大会ではその他にも、Y校の三浦(元中日)、広島商、興南の仲田(元阪神)、佐世保工の香田(元巨人)、高知商の津野(元日ハム)、箕島の吉井(元近鉄)ら沢山の好投手、好チームの出た大会でしたが、いずれもが池田に対するには「役不足」というワタシの認識で、「やっぱり打倒池田には、野中が立ちはだかるしかない」という事を強く思っていました。
そんなこんなで大会は始まりました。前にも触れたように、当時は大会の組み合わせ抽選は大会前には初戦のものだけしか決まっておらず、その都度甲子園のバックネット前で主将が次戦の組み合わせを抽選の封筒を引くことで行う方式でした。池田、中京の両校は、チーム状態も良く2回戦、3回戦と勝ち進んでいき、準々決勝の抽選が行われました。そこでついに、両校の主将が対戦を引き当てました。【準々決勝第1試合 池田vs中京】 もうそのボードを見たときに、なんだか武者震いのように、体がぶるっと震えたのを覚えています。だけど印象に残っているのは、抽選くじを引いた池田・江上、中京・野中の両主将のにこやかな表情と談笑。少し前の時代まで、「試合前はケンカ腰」という姿をいっぱい見て来ていたので、この試合前の両者の何とも言えないムードには、確かに時代が変わったんだという事を感じとることが出来ました。
試合開始は8時。早朝の試合ながら、甲子園には実にたくさんの観衆が押し寄せ、あっという間に満員札止め。詰め込んで詰め込んで、観衆は5万5千人というアナウンスだったようにも記憶しています。(詰め込むだけ詰め込んで、今では消防法に完全に引っ掛かりそうですが。。。。。。)
そんな中プレーボール。両校ともに「大会屈指」と言えるものすごい打線同士でしたが、やっぱりというかなんというか、「いくらすごい打線でも、好投手がいいピッチングをすればそうは打てない」という野球の格言そのものの試合展開になりました。両校ともにヒットは出るものの、しっかりと両投手が要所を締める展開で試合は中盤に。両校ともにここまで1点ずつ取り合う展開に、甲子園は何か、かたずをのむように静かな雰囲気だったのを思い出します。水野と野中は、もともと仲のいい二人。イニングの交代時にはマウンドでお互いがボールを投げて渡しあうなど、その当時は見た事もないような微笑ましい一幕もあったりして、いい雰囲気の中で試合は終盤を迎えました。
ワタシはこの展開は中京が望んだものだなあという感じがしていて、さすがは中京という思いが強く池田の連覇が途切れるのも予感しましたが、池田は一筋縄ではいかない野武士軍団でした。
池田が1-1の均衡を打ち破ったのが9回、7番(?)高橋のレフトスタンドへの超特大の一撃が試合を決めました。打った瞬間「入った~」というのは、昔で言うと王選手の代名詞だったように思いますが、そんな感じの見事な一撃でしたね。「ゴ~イング、ゴ~イング、ゴ~ン」なんて言っている暇のない、あっという間の出来事でした。そのまま池田が逃げ切って、最大のライバルである中京の野中を倒して準決勝に進出したのでした。

というところで、この大会のワタシの記憶は終わっています。えっ?決勝はPLとY校の戦い? しらね~なあ。。。。。 

まあ、池田もこの中京との対決で、燃え尽きてしまったというのがワタシの寸評です。ホッとした次戦、なめてかかっていたPLに、とんでもないやつ(桑田の事です。決して清原じゃないですよ、この時は)がいて、あれよあれよという間に試合も終わり、長かった池田フィーバーも終焉を迎えたという事です。
桑田・清原のPLがセンセーショナルなデビューを飾ったというのが世間に認識されたのも、「最強池田」を破ったという事からです。おまけに言えば、ここ関東の高校野球ファンの間では、池田を破って優勝するまではPLというのは決して「応援されるチーム」ではなくファンもほとんどいなかったと思われますが(ただ強い大阪のチームという認識)、ここからがらりと様相を変えていきますね。桑田、清原がKKと言われ、当時の中高生の女の子を中心とした「甲子園グルーピー」みたいなファン(今でいうところの追っかけ、にわか)に絶大な人気を誇り、そこからマスコミがこの二人を追い出して、その超絶な実力と相まって、注目する人、応援する人も爆発的に増えたと思います。
そして二人は「日本野球界の顔」へと駆け上がっていくわけですね。
水野、野中がプロ野球では確かな足跡を残せなかったのと反比例して。。。。

何だか長くなっちゃいましたが、そういうことで甲子園の歴史というのもつぐまれていくという事です。時代は巡る・・・・・そして清宮、根尾などの時代へとつながっていくわけです。
今でもユーチューブなどで当時の試合、見ることが出来ます。アップしてくれる人もいて、ありがたい限りです。
ワタシも高校野球実況の録画のテープ数多あったのですが、その頃はまだビデオがベータでして。。。。。。見れなかったりします。
今の人には、わからないだろうなあ。。。。。。。。

長々とお付き合い、ありがとうございました。


 


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