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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

タテジマの系譜 東海大系列校の活躍

2021年03月24日 | 高校野球

この選抜大会。
歴史上2度目の聖地・甲子園での「タテジマ対決」がありました。

胸にTOKAIのタテジマ、
甲子園ではおなじみの東海大学系列校のユニフォームです。

昭和40年代まで、
高校野球チームのユニフォームは「華美なものではなく・・・・」というものが徹底されていたようで、
ストライプはもとよりカラーをたくさん使うような今風のユニフォームは少なく、
白を基調として濃紺のユニフォームが圧倒的に多く、
東海大相模がストライプのユニに身を包み登場してきたときはかなり驚かれたらしいですね。

「元祖タテジマ」の東海大相模は、
三池工で全国制覇を成し遂げた名将、
原辰徳巨人監督の父としても知られる原貢氏を監督に迎えてグイグイ成長。

1969年夏に初出場を果たすと、
70年夏には早くも全国制覇を果たしました。
そしてその戦いっぷりが破天荒。
その当時の木のバットの高校野球は、
「守備をがっちりと固め、バントを駆使して1点ずつを取りに行く野球」
というスモールベースボールが主流。

そんな中東海大相模は、
「打って打って打ちまくれ」の強気の攻めを展開し、
投手力が弱いことなど気にしない。。。。。という、
のちの金属バットでの野球を先取りしたような野球を展開して優勝をかっさらっていきました。

その後74年から導入された金属バットにより、
原貢の「東海野球」は花を開きます。

またその74年、
原貢監督は自らの息子である原辰徳を1年生ながらクリーンアップに抜擢。
同じ1年生のスラッガー津末、エース村中も主力として起用し、
高校野球界を席巻していきます。

当時の「豪打東海」は、
その当時隆盛を誇った銚子商などの「黒潮打線」などとも質の違う、
「都会的でスマートな豪打」なんて言われていました。

試合っぷりも、
それはそれは甲子園のファンの脳裏に深く刻まれるような戦いぶりが多かった。
74年の初戦は土浦日大の剛腕・工藤を向こうに回して、
9回2死から追いついて16回サヨナラ勝ち。

3回戦は打つは打つはの大勝で飾った後、
準々決勝ではあの定岡の鹿児島実とカクテル光線の中延長15回を戦い抜きました。
今でもその試合は「甲子園名勝負」の一つに数えられています。


TOKAIの代名詞でもある「元祖タテジマ」の東海大相模は、
高校野球最激戦地区の神奈川県に身を置いていたこともあり、
その後80年代、90年代と苦しい時期を過ごしますが、
門馬監督が就任した00年代から華麗に復活。
都合4回の全国制覇、3回の準優勝など輝かしい成績を残し、
甲子園通算43勝を挙げ、
【第2期黄金期】を迎えた今なお輝き続けています。

そして1960年代以降、
相模に続けとばかり全国各地の東海大系列校(付属含む)は、
甲子園に登場し続けてい足跡を残して言っています。

ここからはまさに思いつくまま。。。。。
忘れていることやら間違った記憶やらがたくさんありそうですが、
ご容赦を。


東海大相模が全国にその名をとどろかせ始めた70年代、
甲子園に登場してきたのは東海大のおひざ元、
静岡の2校、東海大一と東海大工でした。

のちに合併して東海大翔洋となるこの両校、
この当時はまさに「最も近しいライバル」であったのではないかと思います。
「仲の良い兄弟」だったのか「近しいだけに激しい関係」だったのか定かではありませんが。。。

まず甲子園の土を踏んだのは65年夏の東海大一、東海大工は72年夏に初出場を飾りました。
ワタシが記憶にあるのは76年に春夏連続出場を飾った東海大一の太田投手です。
大会前から注目された右腕の速球投手で、
甲子園の「小さな大投手」の系譜を継ぐ活躍を期待されていました。
結局2回の甲子園で1勝をあげました。

東海大一で最も輝いたのはそれから7年後の83年。
この年東海大一は76年に続いて春夏連続出場を果たすのですが、
春の選抜では見事に4強まで進出。
大会前の舞評判には上がっていなかったものの、
杉本尚、康という双子の2枚看板を擁して快進撃。

準々決勝では、
この春猛威を振るっていた藤王を擁する享栄を見事に破り4強に進出したのでした。
そして夏も春夏連続出場。
この夏も2勝を挙げて貫録を見せましたが、最後は優勝した桑田・清原のPLに敗れ、
甲子園を去ったのでした。

東海大工では81年春の活躍が目に浮かびます。
こちらも小さな体から、
その体を目いっぱいに使い帽子を飛ばして投げるエース成田が見事なピッチングを披露。
初戦では前年優勝の高知商の黒潮打線に対して見事1失点完投。
そして2回戦は、優勝候補筆頭のPLに対して9回までゼロに抑える乾坤一擲のピッチング。
PLの強打線を向こうに回し、叫びながら強気の攻めを見せる成田の熱投は、
心に残るものでした。
最後は9回、あの吉村(巨人)がライトへ豪快な決勝弾を叩き込んで試合を決めるのですが、
優勝したPLを最も苦しめたエースがこの成田投手だったのは、言うまでもありません。

この両校、合併してからはなかなか甲子園への道を閉ざされています。
わずかに一度登場した04年夏の選手権では2勝を挙げて気を吐きますが、
その後はまた長い沈黙を保ったままです。

ところでこの両校、
静岡県大会での直接対決は、
どんなものだったのでしょうね。

同地区でタテジマ対決が見られる(見られた)のは、
静岡と千葉、東京(ただし秋春のみ)ぐらいしかありませんから、
気になるところではあります。

神奈川と静岡。
おひざ元の系列校が活躍していた70年代、80年代に、
ほかの地区の系列校も続々と甲子園への道を切り開き始めました。

先駆けとなったのは北海道の東海大四。
76年の夏に悲願の初出場を果たします。

この年は東海大相模、東海大一も同時に出場しており、
さながら「タテジマの見本市」のように3校が並び立っていました。

戦力的に期待されたわけではない東海大四ですが、
実は大きな足跡を甲子園に残していきます。

それはたびたびこのブログでも紹介している、春の選抜優勝校である崇徳との激闘です。
エース黒田に山崎・応武らを擁し「広島県史上最強」とも言われたこの崇徳の初戦の相手が初出場の東海大四。
試合前は「荷が重い相手だなあ」と言われ、試合がはじまっても崇徳の”原爆打線”が爆発して一方的な試合展開だったのですが、途中崇徳の采配ミスから試合が風雲急を告げていきます。
崇徳は当日発熱したエース黒田をベンチにおいて2番手投手を先発させますが、途中黒田が投げられそうだという事でこの2番手を下ろして黒田をマウンドへ。
黒田は見事なピッチングを見せるものの、発熱の影響が出て途中交代を余儀なくされてしまいました。
すると崇徳は、ピッチャーがいなくなってしまいました。
急遽急増投手の兼光をマウンドに上げるも、ストライクを取ることにすら汲々としてしまい、
東海大四は待ってましたとばかりに反撃を開始。その試合は最終回の最後まで激闘が繰り広げられ、カクテル光線の中、甲子園ならではのキラキラとした光の中の「美しい激闘」が繰り広げられたのです。

敗れたとはいえ甲子園で何かをつかんだ東海大四は、
すかさず78年には春夏連続出場を果たします。
北海道屈指といわれた左腕のエース田中を擁しての甲子園でしたが、
春は津田(元広島)を擁する南陽工と、夏は準優勝する高知商と初戦で激突するという不運に見舞われ、いずれも初勝利を挙げることなく敗れ去りました。
80年の選抜にもエース西本(元西武)で挑戦するも、この時も優勝候補の広陵と初戦で激突しサヨナラ負け。
「東海大四は、とにかくくじ運が悪いから、くじを引く練習をしてきたら?!」
なんて言われてしまうほど運のない甲子園となりました。
翌81年の選抜にも連続出場。この時は相手が優勝候補ではないチームで期待も高まりましたが、中盤に乱れに乱れての大敗。とにかく「初勝利が遠い」甲子園でした。
待望の甲子園初勝利は86年夏に訪れました。相手は尽誠学園、そして2年生の巨人、伊良部(元ヤンキースほか)。こっちのエースはあのロッテで活躍した「いわいわお~~」の大村巌。苦しんで苦しんで、最後は逆転サヨナラ勝ちというしびれる勝利で、東海大四は初出場から苦節10年、6回目の挑戦で初めて甲子園で校歌を歌うことができたのでした。
その先はコンスタントに出場を重ね、なんと6回連続で初戦を突破するという見事な戦いぶりを見せて、北海道の高校野球界で確固たる地位を築いていきました。そして2015年。出場したセンバツで、チームは快進撃を重ね決勝に進出。敗れはしたものの見事な準優勝に、道内のファンは歓喜し、タテジマの矜持を見せてくれました。


そんな東海大四に続き、東海大三も甲子園にやってきました。
それは1980年。長野にもタテジマがあるんだなあ・・・・・なんて思う前に、
明治神宮大会ではじめてワタシ、「タテジマではないTOKAI」というのを目撃したんです。
あの時の東海大三、純白のユニフォームの胸にTOKAI。なんだか違和感があったのですが、
その東海大三は確か快進撃で明治神宮大会を制覇。(したんじゃなかったっけなあ。。。)
「お~強い東海、ここにもいた~」
って感じの印象を持ったものでした。
長野といえばその当時はまさに「松商学園の一択」という高校野球の勢力図でしたから、そこに風穴を開けた功績は、大きいものだったんじゃないでしょうかね。甲子園でも開幕戦に勝利を飾り、ひそかにワタシ「優勝候補の一角に上がる?」なんて思っていましたが、二回戦で無念の敗退。そしてその後は、なんと今日まで、甲子園での勝利は記録していません。これも驚くことなんですが、東海大三は初出場時の初戦、この時が最初で最後の勝利となってしまっているわけです。何とか今後、払しょくしてほしいですね。

同じ80年代、83年に初出場したのが熊本の東海大二。
しかし初出場を決めたら、甲子園での初戦の相手はなんと兄弟校である東海大一。なんというめぐりあわせか・・・・・と思いながら臨んだ初めての大舞台、東海大二はセンバツ四強の東海大一に、まさに「こっぴどく」やられてしまって1-13の大敗。そのショックが尾を引いたのかはわかりませんが、その後2018年の100回大会になるまで甲子園への扉は閉ざされたままでした。しかし35年ぶりに巡ってきた大舞台、東海大星翔と名前もリニューアルしての大舞台だったのですが、試合はまたも大敗。何とかして1勝を挙げ、他の系列校と対抗していきたいところですね。

そういえば長く「原貢監督の一番弟子」とも言われた穴見監督が率いていた東海大五も、
なかなか甲子園への道をこじ開けることができませんでした。

やはり福岡も野球どころ。
三池工時代の原貢氏の地元といっても、
なかなか門戸は開きませんでした。

85年に一度だけ選抜に出場しますが、
1勝を挙げて2回戦で敗れました。

しかしその1勝、豪快に0-4のビハインドから一挙10点。
出るは出るはのヒットの山は、
大型チームの魅力を見せてくれたものです。

その後30年以上も眠ったままでしたが、
学校名が東海大福岡に変わった2017年に突如復活。
そして2回戦で清宮率いる早実を豪打でボコボコにした戦いぶりは、
印象に残りますね。


そんなタテジマ各校が百花繚乱だった80年代に、すい星のように現れ一時代を築くのが東海大甲府です。
名将・大八木監督に率いられたこのIQ軍団の初舞台は81年夏。それまでは小粒なチームが多く、甲子園の出場回数も著しく少なかった山梨県にあのTOKAIを胸につけたタテジマ軍団が登場してきたことは、なんだか新鮮でした。

最初の出場こそ初戦で敗退しましたが、翌年連続出場を果たすと大ブレーク。
1回戦で甲子園初勝利を飾ると2回戦では名門・高知商を堂々と寄り切り、3回戦ではあの荒木の早実と互角の戦いを展開。
敗れはしましたが「これは今後強くなるぞ」という予感を残して、甲子園を去っていきました。

そして大八木監督の快進撃はここから始まります。
関東大会では強豪を向こうに回してひるむことなくバッタバッタとなぎ倒し、
甲子園でも85年の選手権では「逆転の甲府」として4強に進出。
86年は剛腕・近藤(享栄)を震え上がらせ、
87年選抜では春夏連覇を達成する最強軍団のPLを土俵際まで追いつめました。

すでにこのころにはもう「名門」「強豪」というくくりで語られるようになり、
「ネクスト全国制覇校」
の筆頭に挙げられているほどでした。

その快進撃はとどまるところを知らず、
88年選抜8強、90年選抜4強と全国制覇に手が届くところまでやってきますが、
いつも最後は悔しい負け方で甲子園を去り、悲願に届くことはありませんでした。

そして大八木監督が退任すると、全国制覇への道のりは後退を余儀なくされ、
その後東海大相模から村中監督を招聘して時折全国の舞台で活躍を見せるものの、
悲願の全国制覇、そして決勝の舞台へはまだ一度もたどり着いていません。

タテジマの元祖である東海大相模が低迷していた80年代~90年代にかけ、
タテジマの威信を孤軍奮闘で守ったのはこの東海大甲府。
その東海大甲府と東海大相模が、
このセンバツで激突したというのは、
まさにエポックメーキングな出来事だったと思いますね。

80年代に登場して一時代を築いたといえば、東海大山形も当てはまります。
選手権6度、選抜3度の出場経験を持ち、日大山形と80年代は山形の覇権を厳しく争っていました。
日大と東海大の系列校という事もあり、
毎年の夏の「決戦」には、多くの高校野球ファンが注目したものでした。

伝統校である日大山形に対して新興校で会った東海大山形。
初めて日大山形の壁を破って甲子園に出場してきたのが1982年のことでした。

しかし東海大山形にとっての甲子園とは、
当初は苦渋に満ちたものでした。

初出場時に何もできず完敗で失意のまま甲子園を去った東海大山形が捲土重来を期して2度目の夏の聖地に挑んだのが85年。
しかしこの大会の初戦でぶつかったのがあの桑田・清原が最終学年を迎えた最強PLでした。
そして試合は、歴史に残る7-29の大敗となりました。
この大敗は山形県議会でも取り上げられ、山形県民は失意のどん底に落ちましたが、
東海大山形はこれにめげることなく、
87年の選手権で光り輝きました。

5回目の甲子園挑戦で初めて、
甲子園の輝く1勝をもぎ取ったのです。

試合はまさに劇的。
9回2死まで1点ビハインドの東海大山形。
最後の打者の打球は投手正面へ。
ピッチャーはこれを軽くさばいて1塁へ送りゲームセット。。。。。。。となるはずが、
まさかの1塁への悪送球。
あり得ないことが起こって、同点に追いついた東海大山形はすかさずタイムリーで勝ち越し。
土壇場の大逆転で、初めての1勝を手にしたのでした。

波に乗って次の試合も飾り2勝を挙げた東海大山形は、
04年の選抜でも2勝して初めての8強入り。
最近は新興勢力やライバル日大山形に押されて甲子園出場もままなりませんが、
輝ける足跡を残したのは確かでしょう。

そしてたった一度だが、きらきら輝いたという経験を持つのはなんといっても東海大浦安。
その歩みは長く、70年代から千葉の覇権争いに顔を出すようになってきていたこの学校。

しかし70年代の千葉は「野球王国」と呼ばれ、
銚子商と習志野という2大巨頭が牛耳っていて、
なかなか県大会を勝ち抜いて聖地へ歩みを進めるのは容易なことではありませんでした。

その壁を打ち破ったのは1982年。
県大会で無双をかました長身の速球はエース渡辺を擁して、
力のあるチームとして甲子園に初登場しました。

しかしその夢の初舞台は思いもよらぬものに。
県大会無失点(確か)のエース渡辺は、
その後甲子園に向けてのフォーム変更で関節を痛めて不調。
強豪の津久見になすすべなく打ち込まれて10失点で0-10の完敗でした。

その後群雄割拠となった千葉で頭角を現した東海大浦安でしたが、
85年の選抜では秋の関東大会を制しての出場で「右の清原左の佐久間」と言われたスラッガーを擁したものの、
初戦で優勝する伊野商のエース渡辺にきりきり舞いさせられて完敗。
捲土重来を期した87年の選抜は、直前の不祥事で大会を辞退し、
甲子園から引き返して地元に戻るという屈辱を味あわせられました。

その後は全く音沙汰を聞かずに迎えた2000年。
突如として東海大浦安は「一生に一度の輝き」みたいにまばゆく輝く年を迎えました。

県大会の最有力校でもなかった東海大甲府はしぶとく勝ち抜いて夏2度目の甲子園へ。
エースを欠いて、本来はセカンドだった浜名をエースに仕立てて・・・・・・という苦肉の策がぴたりと当たるんですから、
野球とはわからないもの。

「小さなエース」浜名は、
やや下がった腕の位置からシュート、スライダーの横の変化を駆使して相手打線をことごとく打ち取り、
あれよあれよという間に決勝まで進出していきました。

まさに「無印良品」の極みのようなチーム。
浜名は決勝戦、最後の最後に「大会100安打」という記録的な猛打を炸裂させた智辯和歌山につかまりましたが、
本当に「平成に現れた小さな大投手」という事で、
人々の心に深く刻み込まれる活躍でした。

まばゆいばかりの光を放った東海大浦安。
しかしその光はその年だけのもの。
その後は一度も甲子園の土を踏むことはなく、
また長い沈黙を続けています。

同じ千葉には、
ここ10年ぐらいで力をつけてきた東海大望洋もいます。

ここは過去3回の甲子園出場経験がありますが、
まだ初勝利を挙げることはできません。
真下、島、金久保らプロにも言った好投手を輩出することで有名なこの望洋は、
虎視眈々と甲子園での活躍を狙っています。

高校野球最激戦区の大阪にも、
東海大仰星がいます。

ストライプは禁止という大阪府高野連のお堅い規制で長らくタテジマを着用できませんでしたが、
センバツには96年と00年に2回出場しています。

しかしながら近年は、
大阪桐蔭と履正社という2強に押され、
なかなか聖地までたどり着くことはできません。
「あと一歩」がこれほど遠いとは、
関係者ならずともため息が出てしまうところです。

殻を破って、ラグビー部のように「いつも全国上位」を狙って行けるかどうか、
気迫で頑張ってほしいものですね。


さて、そんなタテジマの系譜。
最後に、新世紀になってからも、その存在感を見せてくれている新しい勢力の伸張もあります。
その代表格が東海大菅生。

90年代に系列校になってから30余年。
96年に好投手牧野を擁して激戦の西東京を勝ち抜き初出場。
初戦を突破して、2回戦では優勝する松山商と最後まで接戦を繰り広げるも惜敗。
牧野は翌選抜にも出場し、有力校の一つに挙げられていながらまたも惜敗。

00年に夏2度目の出場を果たすも、またまた3大会連続で1点差の惜敗に終わりました。
この00年のチーム、ワタシは予選で4試合もスタンド観戦していたので思い入れいっぱいのチームでしたが、敗れたときは残念に思いましたね。

そしてその後しばらくの低迷を経て、
現若林監督を招聘してから一気にまた息を吹き返し、
夏の西東京大会ではいつも決勝ぐらいまで進出してくるチームとなりました。

3年連続決勝はいたいという苦しい経験もしましたが、
その苦労が実って17年夏には桜井擁する日大三と清宮擁する早実という、全国的にも注目された2校を相次いで撃破して聖地へ。
そして初めて4強まで勝ち上がっていきました。

去年の夏は「東西東京大会」を勝ち抜き夏のチャンピオンへ。
そして今年の春も、期待を背負って甲子園に立ちます。
最近5年ぐらいで、このチームは見違えるようにいいチームへと変貌を遂げています。
あるいは今「チームのピーク」が来ているのかもしれません。
その機を逃さないよう、
東海大相模に続く「栄冠への道」を進んでいってほしいと思います。



とまあこのあたりが、
タテジマの甲子園での活躍というところです。

今や甲子園になくてはならないぐらいの存在になったタテジマの東海大系列校。
しかしよく考えてみると、
全国制覇を達成しているのは元祖タテジマの東海大相模のみ。

決勝に進出しているチームも、
東海大浦安と東海大四(現札幌)のみです。

他の競技と比較すると、
実は活躍が少ない高校野球。

頑張って各校花を咲かせて、
今度は是非決勝で「タテジマ対決」が見てみたいものです。



≪東海大系列校 各校の甲子園での成績≫


東海大相模(神奈川)甲子園通算 43勝17敗
選抜  12回 優勝2回 準優勝2回 初出場1970年
選手権 11回 優勝2回 準優勝1回 初出場1969年

東海大静岡翔洋(静岡) *全体として 甲子園通算 12勝9敗
        (*東海大翔洋として 甲子園通算 2勝1敗)
選抜  0回
選手権 1回  初出場2004年

東海大一(静岡)甲子園通算 7勝5敗
選抜  2回 初出場1976年
選手権 3回 初出場1965年

東海大工(静岡)甲子園通算 3勝3敗
選抜  1回 初出場1970年
選手権 2回 初出場1969年

東海大二・東海大熊本星翔(熊本)甲子園通算 0勝2敗
選抜  
選手権 2回 初出場1983年

東海大三・東海大諏訪(長野)甲子園通算 1勝4敗
選抜  3回 初出場1980年
選手権 1回 初出場1996年

東海大四・東海大札幌(北海道)甲子園通算 9勝11敗
選抜  6回 準優勝1回 初出場1978年
選手権 5回        初出場1976年

東海大五・東海大福岡(福岡) 甲子園通算 2勝2敗
選抜  2回 初出場1985年
選手権 0回

東海大山形(山形) 甲子園通算 5勝9敗
選抜  3回 初出場1986年
選手権 6回 初出場1982年

東海大望洋・東海大市原望洋(千葉) 甲子園通算 0勝3敗
選抜  2回 初出場2010年
選手権 1回 初出場2014年

東海大浦安(千葉) 甲子園通算 4勝3敗
選抜  1回       初出場1985年
選手権 2回 準優勝1回 初出場1982年

東海大菅生(東京) 甲子園通算 4勝6敗
選抜  4回 初出場1997年 
選手権 3回 初出場1996年

東海大高輪台(東京)
選抜  0回 
選手権 0回 

東海大甲府(山梨) 甲子園通算 28勝19敗
選抜    6回 初出場1987年
選手権 13回 初出場1981年

東海大仰星(大阪) 甲子園通算 0勝2敗
選抜  2回 初出場1996年
選手権 0回 




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