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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

夏の甲子園 ワタシが感じた「サイコーの大会」は?

2020年08月08日 | 高校野球名勝負

夏の甲子園大会が戦後初めて中止になった2020年。

各都道府県での代替大会も佳境を迎えて、
優勝チームが続々と決まっています。
甲子園での選抜代表校による交流試合も開幕までわずか。
なんだかんだと言いながら、
急に高校野球の話題も多くなってきた気がします。

そんな中ではありますが、
ふと思ったのは「大会ごとに見て、どの大会が自分にとって一番面白かったのだろうか」
ということ。

思い入れのある大会や心に残っている大会というのは、
高校野球ファンがそれぞれに持っているもの。
まさに千差万別なのですが、
ワタシにとっての思い入れのある大会をちょっと考えてみようかなと思っています。


【思い入れMAXの夏の甲子園 ベスト5】

5位  第58回大会(1976年)
    優勝 桜美林(西東京) 準優勝 PL学園(大阪) 
    決勝 桜美林 4×-3 PL学園
    トピックス ・桜美林が、東京勢として60年ぶりの夏の優勝に輝く。
          ・サッシー・酒井(海星)が大会を席巻も優勝には届かず。
          ・海星・酒井と崇徳・黒田のものすごい投げ合い。
          ・プリンス・原辰徳最後の夏。
          ・選抜優勝の崇徳、黒田の発熱で大苦戦。
          ・柳川商・末次が連続打席ヒットの記録更新。
          ・初出場、豊見城が大旋風。破った星稜も北陸勢として大旋風起こす。

「昔の思い出はセピア色に輝いて・・・」という訳ではありませんが、思い出というのはやっぱり昔であればあるほど、その美しさを増していくものなのでしょうか。昭和51年の夏、まだかなり若かった(というより幼かった)ワタシの心に、「東京のチームが甲子園で優勝した」というのは本当に光り輝く思い出として残っています。その主役となったのが、初出場の桜美林でした。その頃はまだ高校野球の1年を新チーム結成からつぶさに追ってきていたわけではないワタシは、桜美林が西東京の代表になったと聞いて「あんまり聞かないチームだな」ぐらいにしか思っていませんでした。実はその年の春の関東大会で優勝を飾っているチームなのですが、小粒で剛腕投手もいないチームカラーは、優勝を想起させるようなチームには映っていませんでした。何しろこの大会、キラ星のごとく輝くたくさんのスタープレーヤーがまさに所狭しと出場していて、大会前の予想では原の東海大相模、選抜優勝の崇徳、実力ピカイチの柳川商、そしてサッシー酒井の海星が『4強』なんていわれていました。ワタシも「酒井は絶対にすごいぞ~」なんて期待に胸膨らませていましたね。今の様にあっという間に映像が拡散する世の中ではないので、記事を読んでその字面だけで判断するという事しかできませんでしたが、酒井を形容する記事のまあ、すごいこと凄いこと。「江川に匹敵する好投手」というのはお決まりで、5回までまで全員三振だったという記事やらノーヒットノーラン何回達成したという記事やらを読んで、本当に期待に胸を膨らませていた思い出があります。そんな酒井が迎えた初戦は徳島商が相手。音に聞こえた『四国四商』の一角ではあるものの、その頃は徳島商も松山商も、毎年出て来ている高松商も甲子園では勝てない時期で、高知商は数年間甲子園からご無沙汰だったので「酒井が完封して勝つだろうな」なんて思って試合を見ていました。しか~し、試合は徳島商がまさかの先制をして、待てど暮らせど海星の打線は火を噴かずビハインドで終盤へ。ワタシのイライラも頂点で、「早く反撃しろよ~」とぼやくことぼやくこと。その頃の長崎はまだ”野球どころ”ではなく代表校は甲子園では毎年苦戦が続いていたので、地味ながら野球王国・四国の代表である徳島商がこんなにいい野球をしていることで何だか四国のチームに対する畏敬の念が深まった覚えがあります。しかし8回に追いついた海星は10回にサヨナラ勝ち。そして2回戦では福井に対して酒井が本領を発揮。酒井は雨で中断もなんのその、力のある福井打線を完璧に抑え込む本来の姿を見せて2安打完封。「スゲ~」という本当の姿を見せてくれました。そして3回戦で激突したのが選抜優勝、原爆打線と異名をとった崇徳でした。この年の崇徳は本当にすごいチームで、エース黒田を軸に打線は山崎(広島)応武(早稲田)らキラ星揃いの面々。選抜では優勝候補の噂にたがわぬ大型チームとして圧勝。そしてこの夏に春夏連覇を目指し再び甲子園へ乗り込んできました。しかし初戦の東海大四戦、エース黒田の発熱から思わぬ大苦戦を強いられギリギリ逃げ切ってこの3回戦に進出してくるというなかなか厳しい状況ではありました。酒井と黒田は、両者ともに秋のドラフトの目玉と目されていて、いったいどんな戦いになるのだろうかと世間の注目を大いに集めた対戦でした。試合は期待を裏切らない見事な投手戦。両チームともにチャンスらしいチャンスも作れずにスコアボードには0が並んでいきました。試合は7回に動き、2死3塁のチャンスをつかんだ海星が、次打者のボテボテのあたりを放ちました。一瞬黒田と応武が譲り合う形になって内野安打。その間にランナーがホームを駆け抜け海星が貴重な先制点を上げました。結局その1点を、あの原爆打線が酒井から取り返すことができず、この『至高の投手戦』は海星・酒井に凱歌が上がりました。海星が放ったヒットは3本、一方の崇徳はわずか2安打。その1本の差が勝負を決めました。
 その酒井と並んで大会の華として注目を集めていたのが東海大相模の原辰徳。2年前の夏にセンセーショナルなデビューを飾ったこの若大将は、2年春夏に甲子園でしっかりと足跡を残して『さあ、いよいよ集大成の年だ』と思ったものの選抜への出場はならず。覚悟を決めて臨んできたこの最後の夏は、もちろん深紅の大優勝旗しか目に入ってはいなかったと思います。エース村中、左の大砲津末と原以外にも素晴らしいスターがそろっていた東海大相模ですが、栄冠への道はあまりにも遠かった。初戦の開幕戦を豪快に飾り迎えた2回戦の相手は選抜準優勝の小山。このチーム、選抜の決勝で負けるまで何と37連勝(?)を飾ったという強豪。4番の黒田はこの年のキラ星球児の一人でしたが、選抜で活躍したエース初見は夏には戦線を離脱しており、そのためやはり東海大相模が有利ではないかと言われていました。しかし東海大相模の前に、主砲の黒田が立ちはだかりました。しかもバットではなく、マウンドから。。。。夏はエースとしてマウンドに上がっていた黒田。重い速球が武器でしたが、それ以上にゆるい球をうまく使い圧巻の投球で、強打の東海大相模打線をほんろう。わずか3安打で完封勝利を飾ってしまったのです。原、津末、村中の超強力トリオのバットは最後まで火を噴かず、エース村中が奮闘して小山の強打線を1失点に抑えたものの、その1点が重くのしかかって2回戦で無念の敗退、最後の甲子園を去ることになってしまいました。そしてもう一つの優勝候補に上げられた柳川商は、これも主砲・末次が連続打席ヒットの大会記録を作るもPLに対し1点が返せずに0-1と惜敗。超高校級と言われたエース久保は、2試合で1失点しかせずに敗れ去りました。考えてみれば、崇徳、東海大相模、柳川商と、優勝候補と言われた3校までもが同じように2戦目で0-1の完封負け。しかも好投手と言われた黒田も、村中も、久保も、2試合で1失点しかしていないのに、その1失点で敗れ去るという悲劇的な最後となってしまいました。
 そんな大波乱の序盤戦を経て、大会は中盤から終盤へ。だんだん「無印」のチームが勢いを得て浮上してくる大会となり、「優勝確定」とまで言われた酒井の海星は準決勝でPLに屈し、大会中に2年生ながら「速球王」の称号を得た星稜の小松(中日)も準決勝で敗れ、ともに甲子園を去りました。そして決勝に残ったのは、大会前の前評判にも挙がっていなかった東京の桜美林と大阪のPL学園。東西の大都市決戦となり、甲子園は大いに盛り上がりました。PLもまだ後の超大型チームというよりはしぶとさを持った全員野球のチームという感じで、この決勝は両チームともに全員野球の面白い対決でした。その決勝は実力伯仲。取って取られての大接戦は9回を終わっても決着がつかず。延長にもつれ込んだ11回裏、桜美林はランナーを1塁において菊池の放った打球が大飛球となりレフトの頭上を越え、ボールを一瞬見失ったレフトの隙をついてランナーの本田が長躯ホームイン、歓喜の東京勢60年ぶりの歓喜の瞬間が訪れたのでした。
 後日談ではありますが、現在のワタシの地元チームである桜美林。当時のことを知っている人に聞くと、その優勝パレードはものすごかったみたいです。今や高野連の通達で優勝パレードなど華美なことは行われなくなりましたが、当時はどのチームも地元に帰ればパレードはお約束。この2年前に初優勝を飾った銚子商のパレードもすごく盛り上がったとのことですね。
 ということで、この年の甲子園も、とても面白かったなあと印象に残っています。セピア色の記憶の向こうに、酒井と黒田の投げ合いが、村中の決勝のワイルドピッチが、そして星稜・小松や豊見城・赤嶺のピッチングが、最後に原の無念の表情が、鮮やかによみがえってきます。



4位  第65回大会(1983年)
    優勝 PL学園(大阪) 準優勝 横浜商(神奈川) 
    決勝 PL学園 3-0 横浜商
    トピックス ・PLのKKコンビが甲子園デビュー。いきなり優勝を飾る。
          ・3連覇狙った”最強”池田は、PLにまさかの完封負け。
          ・池田ー中京の、史上最高レベルの戦いに6万人が詰めかける。
          ・前年決勝対決池田ー広島商は、水野の頭への死球で後味悪いものに。
          ・とにかく後のスター選手が多く、レベルの高い大会となった。

桑田、清原のいわゆるKKコンビのいた3年間は、高校野球の歴史において実に濃密な3年間だったと思います。トータルで見て「史上最強打者」と言える清原と、史上初の「甲子園20勝投手」の桑田、さらにバイプレーヤーたちも群を抜いた実力を持ったこの3年間のPLの実力はまさに破格。3年間でたった1敗しかしないで2度の全国制覇を飾ったという金字塔を打ち立てたこのチームは、まさにほかに並ぶ者のいないチームと言えるでしょう。
しかしこの前年、センセーショナルなド迫力の打力を前面に出して「高校野球を変えた」と言われたのは、名将・蔦監督の池田高校。四国の山間にあるこじんまりとした県立校である池田のどこに、そんなパワーが秘められているのかと思わせるド迫力の攻撃力は、前年の準々決勝で「甲子園の大スター」荒木大輔を打ち砕き、決勝では高校野球の代名詞でもある「広商野球」をパワーで完膚なきまでに打ち崩し初の全国制覇を飾りました。そしてその流れはこの年も続いて、選抜ではパワー満点の攻撃力に難攻不落のエース水野で守りを固める盤石な横綱相撲を展開、軽々と夏春連覇を達成しました。となればこの夏は、「池田が史上初の夏春夏の3連覇がなるのか」という事がフォーカスされるのは必然。というわけで、大会前まではPLのピの字も見つからないほど、話題はどこを見ても池田、池田で埋め尽くされていました。その池田はこれまで通りの盤石な戦いぶりで1,2回戦を軽々突破。3回戦では前年決勝で激突した広島商と激突します。広島商はいつもの通りの広商野球に、この年は打力をアップさせて虎視眈々と打倒池田を狙っていました。2回戦では難敵である仲田を擁する興南に対し、終始押されていたにもかかわらず、わずかワンチャンスを生かしての逆転勝ち。まさにこれこそが広商野球の真骨頂という感じでした。待ってましたの池田との直接対決は3回戦。しかし試合は、前年決勝ほどではなかったものの、終始池田が主導権を握る試合に。しかし池田4-0とリードした5回に、まさかの出来事が起こります。池田の攻撃、バッターの水野に対し、広商・沖元の内角を狙った球の手元が狂い水野の頭に直撃。倒れこむ水野が起き上がれない様を見て、球場全体が凍り付いたようになりました。結局水野は治療を終え戻りマウンドを死守、試合も7-3で勝ちましたが、この死球が水野から投球の切れを奪い、大会の最後までその影響を引きずってしまいました。歴史にifはありませんが、もしこの試合で水野が死球を受けていなかったならば、大会はどうなっていたでしょうか。PLとの対戦でも、そうやすやすと相手の軍門に下ることはなかったとワタシは思っていて、そうであるならばKKのブレークもまたやや遅れていたことが考えられ、日本の野球史も今とは若干変わっていたのではないか・・・・・なんて思っているんです。それほど大きな出来事でしたね。
しかしながら、水野は池田の矜持を背負って次の準々決勝、最大の敵とみられていた中京・野中との対決に挑みました。この試合、準々決勝の第1試合、8時開始でした。驚いたのは観客の数で、その当時58,000人が甲子園のキャパと言われていたのですが、優に60,000人は入っていたであろうと思われる鈴なりのスタンドでした。公式発表は58,000人だったと思いますが、さあどうでしょうか。
この試合のピーンと張り詰めた雰囲気、すごかったですね。
両軍のベンチには、池田・蔦監督と中京・杉浦監督という名将がどっかりと陣取って、まさに「合戦」そのものの雰囲気を醸し出していました。朝の試合という事もあってか、なかなか両エースが本来のピッチングを見せられないまま試合は進みましたが、さすがは世代を代表するエース同士。ホームだけは踏ませずに9回まで試合は1-1、まさにヒリヒリした展開で進みました。迎えた9回、池田の高橋が振りぬいた打球は、あっという間にレフトスタンドの中断深くまで突き刺さる決勝アーチ。野中はとらえられた瞬間に「あ~ッ」という表情を見せ、地面に顔を落としました。野中は池田打線に14安打を食らいながら粘って3失点に抑える気力のピッチングでした。一方の水野は1失点ながら6安打5四球と非常に苦しいピッチング、3回戦の頭部死球の影響、感じられてしまいましたね。この試合はまさに、力と力の名勝負、先にも書いた通りまさに合戦の様相を呈する素晴らしい戦いでした。98年の横浜vsPLも準々決勝第1試合でしたが、この試合も準々決勝第1試合。朝の対決は、カクテル光線輝く夜の第4試合の対決とはまた違った風情を醸し出して、心に深く刻み込まれるものです。
 この大会は、ワタシにとってはこの準々決勝第1試合こそがその頂点というべきものでした。その後の大会は、池田の準決勝敗退も相まって、何か霞の向こう側にボヤ~ッと浮かんでいるかのごとき試合として記憶されています。PLは優勝したもののまだまだ翌年、翌々年ほどの力はないチームだったので、勢いに乗って駆け上がったということが言えるのではないでしょうか。しかしこの大会で”史上最強”とまで言われた池田に完勝したことが自信になり、その後のチームの血となり肉となっていって最強への道を駆け上がった大きな要因になったということは言えるでしょう。そういう意味でも、この大会の優勝はこの大会の優勝はPL時代を築くうえで最も重要な大会だったのではないかと思っています。ちなみにワタシは、今でもこの年の池田はPLよりも数段強かったと思っていますが、それならば2年後の、KKが3年生になった時のPLとこの年の池田が戦ったらどうかという事を考えると、これはもうPLの完勝に終わるのではないかと思ったりしているわけです。
 さて、この大会は水野、野中やKKなどのスター選手以外にも、たくさんのスターを生んだ大会でした。春夏ともに決勝に進出したY校のエース三浦(中日)、4強に進出した久留米商のエース山田(巨人)。高知商は津野(日ハム)がエースで、その津野に敗れた箕島のエースは吉井(近鉄-ヤクルトほか)。何度も甲子園に進出した佐世保工の香田(巨人)がいれば、ヤクルトをけん引した池山(市尼崎)も出場していました。興南の仲田(阪神)ー仲田(西武)のバッテリーも良かったし、初戦で敗れた初出場・創価のエースは小野(近鉄ほか)、吉田には田辺(西武)もいたりして、百花繚乱の華のある大会でした。そんなに選手がいても、選手権に出ていない古田(ヤクルト)が一番出世で、古田世代なんて呼ばれることもあるというのが面白いところではあります。
 この年の夏も暑かった。そして、見事な大会ではありました。




3位  第95回大会(2013年)
    優勝 前橋育英(群馬) 準優勝 延岡学園(宮崎) 
    決勝 前橋育英 4-3 延岡学園
    トピックス ・前橋育英がアグレッシブな守備で優勝を勝ち取る
          ・準々決勝は4試合ともに1点差ゲームの”史上最高の日”。
          ・花巻東・千葉選手の「ファール粘り」が物議をかもす。
          ・木更津総合・千葉投手の故障にも物議。
          ・仙台育英と選抜覇者・浦和学院のものすごい打撃戦はサヨナラ決着。

2013年という年は、ワタシの高校野球の観戦の歴史の中で、本当に忘れることのできない年です。何しろワタシが”土手ファン”である桐光学園が松井投手を擁して前年甲子園で大ブレーク。この年は松井を擁して全国制覇に挑戦という事で、秋の県大会からずっと彼の投球を追いかけていました。例年ほとんどギャラリーのいない練習試合も、この年ばかりは毎試合のようにズラッとギャラリー、スカウト、他校の偵察(?)の人々が鈴なりになっていましたっけ。秋の大会は県大会で負けたものの、翌年は春から夏にかけて好調を維持して、7月の最後の練習試合で選抜を猛打で制した浦和学院とガチで対戦。1安打で完封した時は、本当に全国制覇してしまうのではないかと思っていました。しかし悲しいかなピーキングが少しずれたか、選手権予選に突入してからの彼は徐々に投球にキレを失っていき、最大のライバルである横浜の下級生3・4番に一発を食らいまさかの県大会での終戦を迎えてしまいました。という背景があっての甲子園。ワタシは準々決勝から甲子園に観戦に行き、若干引いた感じで見ていましたが、その準々決勝の4試合が本当に素晴らしい試合ばかりで、10時間以上観戦していたのに全く疲れを感じず、あっという間に終わったという感想を持つほど素晴らしさを堪能していました。という事でワタシの心に残る大会となったこの年は、初出場の前橋育英の優勝という誰もが予想しえない結果に終わりました。長身の2年生エース・高橋(現西武)を擁していたとはいえ、初出場校でもあり優勝候補の一角には上がっていなかった前橋育英。しかし荒井監督と息子の荒井主将の最強タッグに、何と言っても送りバントさえ許さないアグレッシブすぎる守備で相手の攻撃の芽を摘み取りまくり、気が付いたら優勝までたどり着いていました。何しろその歩み、1-0岩国商、1-0樟南、7-1横浜、3-2常総学院、4-1日大山形と、常に相手をロースコアに抑え込んでの接戦勝ち。高橋は準決勝までの5試合に投げて失点はわずかに2と、まさに神がかった投球を見せてくれました。(西武ファンの嘆き「あ~あの頃の輝き、取り戻してくれ~」。)
準々決勝では、0-2の9回2死ランナーなしからのまさかの同点劇、見ているこっちがコーフンで叫んでしまいました。決勝もビハインドからのまくり勝ち。すべての風が前橋育英の方に吹いていたような、そんな戦いっぷりでした。準々決勝はこの前橋育英vs常総学院の坂東対決のほか、第4試合ではこちらも”無印良品”だった延岡学園が初出場の富山第一に対して、カクテル光線の中でのサヨナラ勝ち。第2試合は”野球不毛の地”と長年言われ続けた山形代表の日大山形が、あの明徳義塾を堂々と1点差で寄り切ったエポックメーキングな試合でした。第1試合は菊池雄星で選抜準優勝して以来、もう名門の域に達したかのような戦績を残す花巻東が、鳴門をうっちゃり勝利を挙げた試合でした。この試合で光ったのは、花巻東の小兵・千葉選手。千葉選手は、菊池を擁して09年に活躍した時の同タイプの先輩・佐藤選手にそっくりの選手で、とにかくファールを打つ技術は天下一品。しかしそのファール、ファールで粘るという姿勢がマスコミ、大会本部から問題視され、準決勝ではその”ファール打ち”を封印されてしまいました。そしてその影響もあったか、花巻東は準決勝の延岡学園戦では、それまで安楽(済美)坂東(鳴門)ら名うての好投手を打ち崩してきた打線が完黙。悔しい完封負けを喫してしまい、【東北勢初の全国制覇】の夢はまたも持越しになってしまいました。
2013年というと、春から夏にかけて大ブレークしていたのはNHK朝ドラの「あまちゃん」。それゆえ、そのあまちゃんのテーマ曲がどの日も流れて甲子園球場でも大ブレーク。しかしもっともこのメロディでノリノリになって、楽しそうにアルプスが揺れていたのは何と言っても延岡学園でした。このメロディとピンクのスタンド、延岡学園というとそんな姿が思い起こされます。という事で、8強以上のチームは全く実力に差がない戦国大会で、それゆえにとても面白かったという思い出がありますね。しかし大会が終わった後ふと考えてみると、「桐光の松井が出場出来ていたら、全国制覇も狙えたんじゃないかな?!」という”ないものねだりの夢物語”も、頭の中に渦巻いていたりして。。。。。。
そういえば1回戦では、選抜優勝校の浦和学院と秋の明治神宮大会を制した仙台育英の優勝候補同士の激突があって、甲子園が燃え上がりました。最終スコアは11-10。浦学の「無失点エース」小島(現ロッテ)がまさかまさかの大炎上。信じられない試合展開は、カクテル光線の美しさと相まって、それはそれは心に残る素晴らしい戦いでした。



2位  第80回大会(1998年)
    優勝 横浜(東神奈川) 準優勝 京都成章(京都) 
    決勝 横浜 3-0 京都成章
    トピックス ・横浜ーPL(準々決勝) 延長17回の激闘
          ・横浜ー京都成章(決勝)で松坂がノーヒットノーラン
          ・横浜ー明徳(準決勝)で、横浜が6点差を8・9回で大逆転
          ・豊田大谷ー宇部商(2回戦) 延長15回、サヨナラボークで決着
          ・鹿児島実・杉内が1回戦でノーヒットノーラン

この大会は盛り上がりました。”暑い夏”でしたが、甲子園はもっともっと”熱い夏”でした。
大会前から話題は春の選抜を制して「歴代最高投手」をも狙えると言われた剛腕・松坂を擁する横浜の春夏連覇がなるかという事。その他にも、たくさんの好投手、強打者が揃ってレベルの高い大会となりました。何と言っても人々の心に残っているのは、横浜の準々決勝からの3試合でしょうね。準々決勝の相手は90年代までの「高校野球の絶対王者」PL学園でした。あの高校野球最多勝監督(当時)の中村監督が春の選抜を最後に退任、PL学園に新時代が到来した年でしたが、この年のPLはまさに「PLのDNAを色濃く受け継いだ」チームでした。のちにプロ入りする選手は・・・・・という観点で見ると「最強」とは言えないでしょうが、この年のPLの野球はまさに「気合と魂の野球」そのもので、80年代までの・・・、いや、80年代のPL野球そのものという感じがしました。立浪・野村・片岡らを擁して春夏連覇を成し遂げたチーム以来の、気持ちのこもったチームだったと思います。春の選抜では準決勝で横浜を土壇場まで追いつめるも惜敗。夏に向けて「打倒松坂」の一点でチームを鍛え上げ、負けないチームとしてこの夏の大会に登場してきました。PLは甲子園に登場してから、さほど各試合で大勝はしなかったもののしぶとく勝ちあがって、目指す敵である横浜との対戦を待ちました。勝ち上がり方を見ても顕著なように、この年のPLは桑田・清原や立浪の時代のような絶対的な力は持ち合わせていませんでしたが、試合をするとま~強い、いや、負けない。。とにかく「負けないチーム」というイメージが強かったと思います。一方の横浜。松坂を擁して投手力は万全、打線も神奈川大会で猛打爆発、5割に近いチーム打率を記録し、甲子園に入ってからも2回戦で難敵・鹿実に対しノーヒッターの相手エース・杉内を見事に攻略。『まさに盤石』な姿を見せて勝ちあがってきました。横浜の充実ぶりを見るにつけ、両校の戦力の「差」は大きいと感じ、選抜時のような接戦にはならないのでは・・・・・・というのがワタシの試合を見る前の感覚でした。  しかし。。。。。 誰もがご承知の通り、試合は大激戦になりました。PLは徹底的に分析した松坂から序盤に打線が爆発。前の試合までを見ていたワタシにとっては、ガーンと頭を後ろから殴られたような衝撃でしたね。「やっぱりPLは怖い」その感想に尽きる序盤でした。しかし「絶対王者」横浜も例年のチームとは全く違う姿を見せて、この難敵・PLをビハインドから鋭く追っていきました。その前年までの横浜といえば、大型選手を揃えて毎度優勝候補の一角にあげられながら、甲子園ではほとんど上位まで勝ち進んでいくことはできず、『何で負けるんだろう』という疑問とともに、「勝負弱い」と言われていました。”松坂後”からは考えられない評価です。先制された横浜がズルズルとPLの軍門に下るという姿が脳裏に浮かんだワタシですが、それを裏切ってくれたのがこの年の「力もあるし粘りもある」横浜高校のチームでした。「松坂頼み」でないかと言われたチームの真骨頂を見せるに十分な戦いを、このPLとの準々決勝で見せてくれました。横浜、PL,両チームのこの真夏の大激闘は、現在の「延長は12回まで、以降はタイブレーク」という変更によって今後は絶対に見られない「幻の試合」となってしまいました。もうしばらくすると、野球という競技で延長戦がほぼ決着つくまで果てしなく続いたなんていうことは「信じられない」という事になっていくんだろうなあ。。。。。。
この激闘の翌日、横浜は「もう一つの優勝候補」である明徳義塾と対戦。前日の激闘の余波で松坂が先発を回避した横浜は試合で大きくリードされましたが、ここでもまた打線が「チームの真骨頂」を見せて大逆転。ここでも『球史に残る激戦』として甲子園の歴史に足跡を刻んでくれました。さらにさらに、決勝で松坂は、海草中の嶋清一などが残した【決勝でのノーヒットノーラン】を成し遂げ、「なんてすごいやつなんだ、そして、なんてすごいチームなんだ」という事を全高校野球ファンに示してくれました。
とにかくこの年の大会は、横浜に始まり横浜に終わった大会で、それに挑んだチームがまた骨太のすごいチームばかりで、ドラマも多い最高の大会でした。




1位  第55回大会(1973年)
    優勝 広島商(広島) 準優勝 静岡(静岡) 
    決勝 広島商 3×-2 静岡
    トピックス ・木のバットの最後の大会
          ・江川の存在に沸いた。5試合2被安打無失点で甲子園に登場
          ・記念大会で、各県1校の48代表校が出場。
          ・広島商ー静岡(決勝) 激闘の末、サヨナラスクイズで決着
          ・銚子商ー作新学院(2回戦) 雨中の激戦。江川サヨナラ押し出しで散る
          ・作新学院ー柳川商(1回戦) 柳川商、江川にバスターで対抗。江川初失点
          ・広島商ー日田林工(3回戦) 広商が甲子園でツーランスクイズ
          ・北陽ー高鍋(3回戦) 北陽・有田ノーヒットノーラン
          ・川越工、小さな大投手・指田で4強進出
          
80回大会もすごかったのですが、さかのぼること25年前の記念大会である55回大会がワタシの心に最も残っている大会です。優勝は「高校野球の戦法」を極限まで極めた広島商。その戦法を表すと、「守っては技巧派投手を堅い守備で盛り立て最少失点に抑え、攻めては小技、足攻を駆使して相手を崩して無安打でも点を取る野球。最少失点差を守り切る野球で、自らのスクイズは100%成功、相手のスクイズは100%失敗に抑える。」ということですね。
その戦法を駆使して選抜では難攻不落の作新・江川を崩して2-1と勝利して準優勝。この大会でも、決勝の静岡戦はサヨナラスクイズ、3回戦の日田林工戦では甲子園初と言われている2ランスクイズを成功させました。この広商のワタシの印象は、とにかくバントと盗塁・・・・これに尽きるのではないかと思います。この「広商野球の奥義」を見た思いがするこの大会の優勝、ワタシにとっては「野球とはこうやって勝つものなんだ・・・・」という事が刷り込まれました。この大会は翌年から金属バットが採用されて大きく戦術が変わる高校野球の、「旧い方式での最後の大会」という事で、この決勝がサヨナラスクイズで決まったことが、何かを示唆しているというのは考えすぎでしょうか。
広島商の優勝で幕を閉じた大会ではありますが、この大会・・・・いやっ、この年の甲子園を席巻し、話題を独り占めしたのは何と言っても作新学院の江川卓でした。この年の選抜で初めて甲子園にやってきた「元祖・怪物」は、開幕直後の強打・北陽戦で5番?6番?まで1球たりともかすらせもせず、初めてファールが飛んだ時に球場全体から何とも言えないどよめきが漏れたものでした。その怪物は選抜では広商の足攻とエラーで涙をのみましたが、夏に向けてその後146イニング無失点、予選5試合でわずか被安打2(!)というすごさで”最後の夏”に登場してきました。とにかくこの年の高校野球、のみならず世間の話題は「江川。江川」に終始。おぼろげに覚えている記憶では、夏は高校野球で「かつて見た事もない怪物江川がいつ負けるのか?」という話題ばかり、そして秋口になるとプロ野球で「長嶋が引退するかもしれない」という事ばかりが話題になっていた気がします。。。。
今ではなかなか高校野球の話題が世間の話題を席巻するなんてことはありませんが、「みんなが高校野球を、プロ野球を見る」時代において野球の威力というのは、本当にすごいものでしたね。
江川の試合、もちろんワタシも見ていたのですが、その見方は世間の空気と同じく「江川がいつ打たれるのか」という事への興味、期待だったようにも思います。何というか日本人が昔から持っている「判官びいき」が凝縮して現れたというのが、世間の江川に対する見方だったのではとも思っています。今振り返ってみると、確かに「打たれろ!」という負のエネルギーの方が、江川に対しては支配的だったみたいに思います。「出る杭は打たれる」ではありませんが、あまりにも凄い力を持っているものに対する「ヒール化」という世間の空気は、今も昔も変わらないですね。
そしてこの年に関していえば、江川が属する作新学院、いろいろな要因はあったのでしょうが、ま~とにかく打てないチームでした。チーム打率は2割あるやなしや。打つのは3・4番、バッテリーの小倉と江川のみ。得点力ほぼ皆無。それゆえいつも、江川は1点取られたらヤバい・・・・・という試合で投げていたのですが、それでも涼しい顔でスイスイと投げ切ってしまうこの「見た事もない剛腕」は、これからプロに入ったら、どんなにすごい投手になるのだろうか・・・・・と思ったことは間違いありません。
初戦の柳川商相手に延長15回を強いられた江川、2回戦の相手も強豪の銚子商。しかしこの銚子商、同じ関東のチームということで、この年だけでも何度も直接対決しており、ここまでは作新の全勝。江川が好調なら、負けることはない・・・・・と思われていました。結果雨中の激闘で延長12回、満塁からのサヨナラ押し出しで0-1と敗れました。この試合はこの後何度も何度も各メディア等で取り上げられ、検証されてきました。江川は「銚子商のバッターは秋に対戦した時と比べると全く違うチームの様で鋭かった。」と相手をたたえ、自分が打たれたのが敗因のように語っていますが、少し俯瞰して見るとチームの敗因が江川でないことは明らかですね。だって12回1失点ですよ。1点でも取っていたら勝っていたんだから、投手が敗因って・・・・・・・。
 まあ、それだけ江川がすごい投手だったってことですが、江川が予期せぬ2回戦という大会の序盤で去っていった後の世間の空気は、何というか「不倶戴天の敵」が敗れたのは良かったが、その後の大会は何とも寂しい・・・・・そんな複雑な心境だったようです。大会はその後も続いていくのですが、なにか「炭酸の抜けたサイダー」のような感じになってしまっていたことは否めません。えっそんな表現わからないって??昔はこの表現、よくしたものなんですよ。
 そして淡々と大会は進み、作新に勝って悲願の初優勝まで驀進するのかと思われた銚子商も準々決勝で静岡の強打に屈しました。銚子商が悲願を達成するのは、江川に投げ勝った2年生エース・土屋が成長した翌年の夏まで待たなければなりませんでした。そんな中、ワタシがとても心ときめかせていたのは、故郷の埼玉代表、川越工の快進撃でした。この川越工の快進撃もあってこそ、ワタシのなかでこの大会が「忘れえぬ大会」となっているわけです。この年の関東の高校野球事情。そもそも「野球不毛の地」とまで言われ、夏の甲子園で優勝どころか上位にもなかなか届かない埼玉県。おまけにこの年は、江川の作新に銚子商、選抜優勝の横浜など「野球どころ」の関東各県に強豪がそろっていたため、埼玉代表なんて他県からは歯牙にもかけられていませんでした。当時埼玉在住のワタシにとって歯ぎしりする状況の中、初めてといってもいいぐらいの「埼玉県西部」から飛び出した甲子園出場校が川越工、しかも小さなエースの指田投手がわが街出身と聞いて、応援のボルテージは上がりっぱなしだったのです。なので本音を言うと、「江川がなんだ~」「銚子がなんだ~」「広商がなんだ~」と、有力校の試合には目もくれず(?)、川越工の快進撃を眺めていたのです。その指田投手、投げて投げて投げまくり、小粒と言われた打線も守備も、彼を支えてまさに「全員野球」であの大甲子園で勝ち進んでいきました。最後は準決勝で、広島商に「甲子園で勝つとは・・・・」という事を骨の髄まで教えられるような完敗を喫して甲子園を去るのですが、ワタシにとってはこの川越工こそがこの大会の主役にほかなりませんでした。(ちなみに埼玉から同じように小さな大投手を支えて1988年に準決勝まで進出する快進撃を見せたのが浦和市立。実はこの時も決勝進出の大きな壁になったのは、優勝した広島商でした。ちくしょ~)
そんなこんなで、ワタシにとって最も忘れられない大会は、この1973年の大会でした。あの夏。。。。。熱かったなあ。


ということで、甲子園がないという寂しさを紛らわすために、
またつらつらと、高校野球の思い出を書き綴ってしまいました。
最後までお付き合いいただいて、ありがとうございます。
折に触れてまた、高校野球の思い出、書いていければいいかなあと思っています。


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