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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

夏の甲子園 名勝負集その6

2020年04月07日 | 高校野球名勝負

きょう東京には緊急事態宣言が発令される予定です。
戒厳下の状況が続きますが、
何とか乗り切って、
みんなで一緒に「あの時はなあ・・・・」と振り返ることが出来るよう、
踏ん張りましょう。

さて、元々は10年前のオフシーズンのヒマ企画、
高校野球の思い出をつらつらと勝手に書き下す記事ですが、
書いているうちに思い出が次から次にわいてくる・・・・・というのはいつものこと。
思い出すうちに自分で「やっぱり高校野球が好きなんだなあ・・・・」ってことを改めて思い出す、
そんな風に書き綴っています。

前回は昭和58年(1983年)まで書きましたが、
「そういえば翌年も・・・・・」
なんて感じで書きたくなっちゃいましたので、また書いてしまいます。

よろしければお付き合いの程を。。。






昭和59年 1回戦
法政一(西東京) 1×-0 境(鳥取) (延長10回) 

ノーヒッターの境・安部、まさかの延長初安打がサヨナラホームランで散る。

非常に思い出深い大会となった昭和59年の夏の甲子園。木内監督が「マジック」と称される采配で王者・PLを決勝で破り、取手二を初優勝に導いた大会でした。好試合も多く盛り上がった甲子園でしたが、大会前半の話題をさらったのはこの試合。境のエース安部は、内外角に投げ分けるコントロールの良さとキレのいいカーブを武器に法政一の打線を翻弄。全くといって良いほど危なげないピッチングで後半まで法政一を寄せ付けません。しかしながら、法政一のエース岡野も、下手投げで『超遅球』を駆使して境の打線に的を絞らせず、0-0のまま試合は後半へと進みました。ワタシはこの試合、自分の地元代表の法政一寄りで見ていましたが、実に淡々と進んでいた試合で、両チームともにチャンスらしいチャンスという感じはなかった記憶があります。しかし後半になって、「おやっ? 境の安部はいまだにノーヒットに抑えているぞ」という事が分かったあたりから、にわかに球場もざわつき始めました。そしてそのざわめきはやがて「大きな期待」へと形を変えて、選手たちを包んでいったと思います。法政一はこの年、なぜかわからないけど一年だけ強かったチームで、秋の東京大会でも準優勝して選抜へ出場、そして夏も知らない間に勝ち進んで甲子園をつかんでいました。当時のワタシの認識としても、「法政一」と聞くと「田淵の母校」ぐらいしか思い当たらない学校で、決して強豪として位置づけられていたわけではありません。そしてその試合っぷりも派手に打ち勝つわけでもしっかりと抑えるエースがいるわけでもなく、「なんとなく試合が終わると勝っていた」という感じの不思議なチームで、正直甲子園でも期待はしていませんでした。しかしこの試合では「なぜこの年の法政一が強かったのか」というのが本当によくわかる試合っぷりで、ある意味唸らせてもらいました。さて、試合に戻ると境の安部は九回を終了してもまだノーヒットノーランを継続、わずかに四球1だけの【準完全試合】で好投するも、味方打線もまったく火を噴かず0-0で延長へと突入しました。ワタシが覚えているのは、この試合を見ながらワタシが思い出していたのは、昭和40年代の甲子園の阪神戦で、阪神の江夏がノーヒットノーランに抑えていたものの打線が火を噴かず延長へ、それじゃあ・・・・・という事で江夏自らがサヨナラホームランを打って決めた・・・・・という「江夏の21球」に匹敵する、江夏の球史に残る凄い試合です。「甲子園は劇的なことが起こるもの。安部が自らホームランを打って決めるんじゃ・・・・・」なんて思っていましたが、現実は真逆でした。延長10回裏、法政一のバッターはトップの末野。大ぶりのこのトップバッター、これまでは安部のカーブと速球に見事なまでに抑えられていましたが、この打席で真ん中あたりの球をたたくと打球は舞い上がってレフトのラッキーゾーンに吸い込まれるサヨナラホームラン。境の安部は、たった1球の失投で甲子園を去る「悲劇のエース」となってしまったのです。末野が何度も何度もガッツポーズしてベースを一周するシーン、目に焼き付いています。「ラッキーパンチ」とくくるのは簡単ですが、法政一は2回戦では強豪の上尾を接戦で下し、3回戦でも強豪の鎮西と延長にもつれ込む熱戦を展開。まさに持てる力のすべてを出し尽くしたと言える粘り強い戦いぶりで、「輝ける夏」を駆け抜けました。当時の試合から既に35年が過ぎ、すっかり進学校に衣替えをした法政一、強豪揃う西東京にあって、ほとんど上位に進出してくることはありません。それだけにこの「一瞬の夏」が、光り輝いて見えるのです。



昭和59年 準決勝
 PL学園(大阪) 3-2 金足農(秋田) 

「吉田以前」の金足農の輝ける足跡。危機一髪の最強軍団を救ったのは、やっぱり”甲子園の申し子”桑田だった。

昭和50年代から60年代にかけてその強さがピークに達していたPL学園。前年の夏の大会で1年生のKKコンビ、桑田・清原が当時「最強軍団」と言われて甲子園3連覇を狙った池田を完膚なきまでに叩き潰して新しい時代ののろしを上げた。そして彼らが2年生になり更にグレードアップしたPLは、まさに最強の歩みを確かなものにする戦いぶりで、甲子園を我がモノにしていた。選抜では決勝で無印の岩倉に足元をすくわれたものの、昭和56年に監督に就任した中村監督は、この敗戦が甲子園で唯一の黒星、それまではなんと20連勝とまさに「負けないチーム」へと昇華させていた。この大会でも初戦の享栄戦で清原が3打席連続ホームランという離れ業を演じると、順調に準決勝までコマを進めてきた。対するは初出場の金足農。嶋崎監督が手塩にかけたチームは雑草のごとく力強く粘り強く、こちらも甲子園を”わが大地”のごとく暴れまわって秋田県勢として久し振りに4強まで進出してきた。エースの水沢を支える打線は鋭く、最強軍団のPLに対しても「ひょっとしたら」の期待を抱かせていたことは確かだった気がします。しかし相手は何と言ってもPL。現在無敵の大阪桐蔭に、大エースをプラスしたと言ったら、その強さの一端をわかってもらえるでしょうか。とにかく、打つ、走る、守るが超一級品であることに加えてタフでクレバーな「甲子園20勝投手」桑田がいて、「甲子園20連勝監督」中村監督が采配を振るい、さらに「逆転のPL」と言われる勝負強さとアルプスの一文字。。。。。。。もう相手は、グラウンドに入った瞬間から相手に飲み込まれてしまうぐらいのオーラを持ったチームでした。PLが敗れることが一般のニュースで流れるぐらいの存在。。。。。。それが当時のPL学園のチームでしたね。さて試合は意外な展開となりました。金足農がしぶといヒットで初回に1点を先取すると、エース水沢が好投して強打のPLに点を与えません。PL打線は、前日の準々決勝で松山商の技巧は左腕・酒井の好投の前にわずか2点に抑えられ、やや打撃を崩している感じでした。この年のPLは、選抜準決勝、決勝、そして夏の準々決勝、準決勝と特定の投手に対して打線が湿ってしまうという特徴を出していて、そこが弱点となっていましたが、この準決勝も水沢に対して打線が捉えきれずにずるずると回を重ねていました。6回裏にPLは追いつきますが、それでも試合の流れを完全につかむことはできず、逆に7回に金足農に勝ち越しの点を与えます。1-2とビハインドで迎えるは8回裏。しかしこのあたりから「逆転のPL」の圧が相手チームに襲い掛かってくるというのがいつもの風景。しかしながら、ここでも水沢は落ち着いて清原を打ち取り、ランナーひとり出してはいるものの2アウトまでこぎつけました。「熱狂的に金足農を応援」していたワタシは、「もしかしたらこれは、いけるかも・・・・」という期待が膨らんだ瞬間でした。清原に負けない強打者の桑田が捉えた打球は、スローモーションのようにレフトのポール際へ。。。。。。。。「切れてくれ~」の叫びもむなしく、レフトスタンド!!に吸い込まれていく特大の逆転ホームランになりました。その瞬間、ワタシの脳裏に浮かんだのは5年前の上尾ー浪商戦。あの時は9回ドカベン香川を打ち取って2死にこぎつけた後、5番牛島に同点ホームランを食らったんだっけなあ。。。。。。。そんなことがフラッシュバックしてきてしまいました。「さすがは桑田、そしてさすがはPL。やっぱ、簡単に逃げ切らせてはくれねえよなあ。。。。。。」そんな感想とともに、この試合は本当に胸の奥にいつまでも残っています。PLに勝つっていうのは、夢みたいなもんなんだなあ。。。。。。。。。そういう徒労感がすごかったので、翌日の決勝で取手二がPLを破った時は嬉しかったあ。やっぱり何の競技でもそうですが、「絶対王者」を果敢に挑戦者が破るというのが、一番スポーツで盛り上がるシーンのようですね、いつの時代も。そんな感じで思い出したこの試合、まさかあの金足農が、30年以上も経ってからまた、同じように日本列島をわかせてくれるなんて、思ってもみませんでした。吉田の熱投は、やっぱり今でも心をざわつかせるぐらいの感動をワタシに与えてくれました。そしてこの年の決勝、取手二とPLの激戦については、既に書きつくしてしまいましたので、こちらをどうぞ。
取手二高の物語 ⇒ https://blog.goo.ne.jp/angeldad/e/9449689b3b6e3e69846b1b47173988ed



昭和60年 準々決勝
PL学園(大阪) 6-3 高知商(高知) 宇部商(山口) 5-3 鹿児島商工(鹿児島)
東海大甲府(山梨)8-7 関東一(東東京) 甲西(滋賀) 6×ー5 東北(宮城)


すっごい準々決勝。しびれっ放しの「甲子園史上最も思い出に残る日」

御巣鷹山の日航機墜落事故に揺れた昭和60年の夏。「史上最強」と言われたPLのKKコンビには最後の夏でしたが、1年夏に優勝して以来3大会で全国制覇ならず、相当の決意を持って臨んだ夏となりました。PLはこの大会でも断トツの優勝候補筆頭でしたが、この大会の戦い方はこれまでとは全く違って、まさに「一部の隙も見せない」という高校野球としては究極の域に達していたチームだと思います。野球という不確実性の高い「どっちに転ぶかわからない」競技において、ここまで不確実性を排除した「強すぎる」チームは、お目にかかったことがありません。このチームで100試合やっても簡単に100回勝つんじゃないかと言われるほど「非常なまでの完璧さ」を追求し、ついにはそれを達成した凄み、感じることが出来ました。そしてその凄みが一番発揮されたのがこの準々決勝の高知商戦でした。相手となった高知商は、『野球王国』と言われた昭和の四国地区にあって常にトップに君臨した強豪。毎年のようにドラフトにかかる(それも1位か2位)好投手(しかも右の本格派という系譜)を輩出していたチームですが、この年のエース中山は歴代のエースに比べても頭一つ抜けるのではと言われた逸材。その年のドラ1で大洋(現横浜)に入団して活躍するのですが、まさに剛腕と言われるとおりのうなってくるような速球が武器。この年の高知県、選抜でPLを破り全国制覇を成し遂げた伊野商にはエース渡辺(元西武ほか)が、秋の四国大会でその伊野商を破った明徳にも山本という剛腕がいて、「全国一レベルが高い」と言われた地区でした。その中でやはり夏は高知商が甲子園をつかみ取り、「PL打倒の一番手」として新聞、雑誌を賑わわす存在でした。その両雄が対決したのが準々決勝第1試合。ワタシの頭をよぎったのが、2年前の準々決勝第1試合、最強・池田と中京のライバル対決でした。結局その”決戦”を勝って準決勝に進出した池田を、PLの1年生コンビKKが下して優勝したのですが、ワタシは勝手に「その時のリベンジじゃ」なんて思って力んでいたりもしていたりして、頭の中には選抜での伊野商・渡辺が清原から3三振を奪ったシーンが思い浮んでいました。「渡辺より上の中山は、きっとやってくれるはず」そんな感じで試合を見ていました。試合は高知商が先制2ランが飛び出し2回に2点を先取。しかし慌てないPLはすぐに3回に反撃を開始するとあっという間に中山を捉えて4点をあげ逆転。そして5回裏。清原が中山の140キロ越えの速球をたたくと、打球は一直線でレフトのスタンドへ。ワタシが今でも「高校野球史上最高のホームラン」と信じて疑わないものすごいホームランがスタンドに飛び込むと、すかさず次打者桑田も連続ホームランを叩き込んでジ・エンド。PLは「最強のライバル」に完勝して、また一歩頂点に近づいたのでした。
第2試合はその頃ワタシが「甲子園の激闘王」と思っていた鹿児島商工が「逆転の宇部商」と対決しました。鹿商工はこの大会でも9回逆転サヨナラ勝ちを2試合も演じるというすごさ。一方の宇部商は初戦で東の横綱とされた銚子商に完勝して勝ち進んできました。(ちなみにこの年の銚子商、県予選の打率が5割に近づくというもう打線で、ベテラン斎藤監督が明確に全国制覇に目標を定めていると言われていました。雨の中の試合で力の半分も出せず敗れ去った斎藤監督の無念の表情は忘れられませんが、その名将・斎藤監督の甲子園での最後の采配となってしまいました。)前の試合の余韻が残りざわついた中で開始となったこの試合、やはり両校ともに実力伯仲の熱戦となり、また甲子園をわかせてくれました。試合は宇部商・田上が初回にとらえられ連打で3失点。明らかに調子が悪そうな田上に対して、2回からスクランブルで登板した古谷が絶好調。結局鹿商工をそれ以降0点に抑えきって勝利の原動力になり、準決勝、決勝共に快進撃の立役者となりました。
第3試合は東海大甲府と関東一の関東対決。東海大甲府は、大八木監督に率いられて昭和60年代に絶頂期を迎えますが、このチームからその快進撃は始まったといって良いでしょう。とにかくそれまでの山梨のチームには考えられなかったような打力をもって、明確に全国制覇を狙っていました。関東の中でもその野球力は一歩も二歩も他校の前を行くと言われていました。一方の関東一。現在の日大三の名将・小倉監督が若かりし頃に率いたチームで、現在の日大三のチームカラーにも通じる、まさにイケイケどんどんの『江戸っ子お祭り野球』です。打線がつながり始めたらわっしょいの掛け声とともにだれにも止められない凄さは、このチームが「関東一史上最強」と言ってもいいかもしれませんね。このチームの真骨頂は、この夏の東東京大会決勝の帝京戦。選抜準優勝で好投手・小林昭を擁する帝京に対しての、関東一ナインのすさまじいばかりの気迫。打って帰ると、みんなが帝京ベンチに向かって「よっしゃ~!」とガッツポーズを繰り返す迫力は、そりゃあ凄いものがありました。そして8回の大爆発。一挙に8点を奪って初の甲子園をほぼ決めた攻撃は、既に名将の域に達しようかとしていた帝京・前田監督の顔面を蒼白とさせていました。そんな両校の対決、まだまだ甲子園になじみの薄かった両校の気迫のこもった攻防は、見ている人たちに東海大甲府ここにあり、関東一ここにありを印象付けてくれました。試合は9回大逆転で東海大甲府が8-7とルーズベルトゲームを制しました。
第4試合も本当に面白かった。この大会で爽やかな旋風と言われた開校3年目の甲西。”源さん”奥村監督に率いられて快進撃。粘り強い打撃と果敢に仕掛ける盗塁で3回戦の久留米商戦も延長での逆転サヨナラ勝ち。「ミラクル甲西」の異名をとったチームです。一方の東北は2年生の時からエースで3季連続で甲子園をつかみ取った東北。エースは言わずと知れた大魔神・佐々木。当時の佐々木は、まだフォークを覚える前夜で、長身からの速球とゆるい変化球で打ち取る投球が身上。好投手とは言われていたものの、ドラフト上位にかかるような投手ではありませんでした。しかしこの佐々木が最も輝いたのが3回戦の東洋大姫路戦。東洋大姫路はエースの下手投げ豊田(元オリックス)を擁し秋の近畿大会でPLを破っている好チームで、優勝候補の一角に上がっていました。ワタシはPLを倒すとすれば中山の高知商か豊田の東洋大姫路と思っていたので、当然東洋大姫路が東北を破って8強に進出するものと思っていました。しかし結果は、佐々木が打たれながらしぶとくしのいでしのいで、4-1と強豪に完勝。これを見てワタシ、「東北今年は結構いけるかもしれない」と思ったりしていました。この甲西戦も、「甲西は東洋に比べたら格落ちのチームだし、佐々木がしっかり押さえれば東北が勝つだろうな」と予想。しかし、思った通りにはいかないのが高校野球ですね。果敢に攻める甲西に、佐々木は試合の間中防戦一方。それでも打線が粘り接戦に持ち込みましたが、最後は佐々木自身が崩れてのサヨナラ負けでした。14安打、6盗塁と完全に攻略されてしまいました。甲西はこの大会、本当に「ミラクル」の名の通り、素晴らしい戦いを見せてくれて、その後も数年間、滋賀の高校野球界を引っ張る存在となっていきました。東北勢はこの頃はまだ野球留学生の姿はほとんど見られず、それゆえおとなしいイメージのチームが多かったように思います。東北の名将・佐々木監督はこの大会を最後に何と県内のライバルである仙台育英に移り、そこで4年後大越を擁して初めての甲子園決勝に臨んでいきます。
それにしてもこの日の4試合、熱く素晴らしいゲームばかりで、この時ほど「甲子園に行きたいなあ」と思ったことはありませんでした。まだまだ先立つものも心細い時代であり時間もなかったので、簡単に「関西遠征」がかなうような時代ではありませんでしたが、この日のことはあまりにも凄い試合ばかりだったという事もあって、鮮明に覚えています。「この試合」ではなく「この日」が、強く心に残っています。



昭和60年 決勝
PL学園(大阪) 4×-3 宇部商(山口) 

KKの甲子園は、劇的なサヨナラで完結した。清原が初めて「大事な試合」で主役を奪った、圧巻の2アーチ!

甲子園が生んだ戦後最大の大スターであるKKコンビ、桑田・清原が戦った甲子園最後の試合。正直試合前までは、「試合にならんだろう」という思いの方が強かったですね。何しろ≪全国制覇≫にのみ照準を絞ったこの年の夏のPLは強かった。長い高校野球の歴史の中でまごうことなき「史上最強チーム」と誰もが認めるチームで、上にも書きましたが、強いだけではなくまったくスキというものを見せない「凄み」を持ったチームでした。彼らが2年生の春、夏、そして3年生の春、全国制覇した後甲子園で敗れた3大会では、必ず大会が終盤に向かうにしたがって何か「フェードアウト」のような感じになって、好調だった打線がその音をなくしてしまうという傾向が見て取れました。しかしこの夏、一部の隙も見せないPLは、大会後半に入った準々決勝で最大の難敵と言われていた高知商・中山を攻略して6-3、準決勝では勢いに乗った甲西を15-2で葬り去って、今までとは違う形で決勝の舞台へと上がってきました。一方の宇部商。力のあるチームと言われていたものの、この大会は大会が進むごとにエースの田上の不調が露見。3回戦、準々決勝、そして準決勝と相手打線にことごとく打ち込まれる姿は、PL打線に餌食になってしまう姿を容易に想像させていました。しかも春の選抜で両校は対戦、6-2とPLが完勝していることから、PL優位は動かしようがないとワタシも予想を立てていました。
しかし宇部商の玉国監督、この試合で勝負手を打ってきました。リリーフで2試合に好投を見せていた古谷を初めての先発への起用。田上の調子がそれほどまでに悪かったという事だろうが、この起用に古谷が見事にこたえて好投、試合をしっかりと作って王者・PLに真っ向から勝負を挑める態勢を作りましたね。試合は静かな立ち上がりだったが、この試合の主役は何と言っても主砲・清原に尽きます。これまでKKコンビと言われてきても、ここぞという試合に活躍するのは必ず桑田の方だという思いを強く持っていたという清原は、いつも以上に燃えて試合に臨んでいたようです。この大会の清原は、32安打29得点を奪った2回戦、そして3回戦でも目立った活躍はなかったものの、準々決勝のライバル・中山からの特大アーチで目を覚まし、準決勝では2本塁打と調子を上げ「怪物」の面目躍如となってこの決勝に臨んできました。そしてどでかいことをやってのけるのです。4回、そして6回、好投を続けてPLの強打線に的を絞らせない投球を続けてきた古谷から、清原はレフトへ、そしてセンターへと2打席連続でアーチをかけ、甲子園の本塁打記録(1試合5本塁打。当時)をあっという間に更新して見せたのでした。凄みという事だけではかたずけられないあのバットスイングの鋭さ、そして構えた時の懐の深さ。プロ入り後もさんざん清原の打撃は見てきましたが、やはりこの高校の時、特にこの決勝の時の打席というのは、彼にとって最高のものだったのではないでしょうか。清原の連発で3-3となって迎えた最終回。PLは2死からポテンヒットでチャンスを作るとすかさずそのランナーが盗塁。この抜け目のなさがまさにPL野球、スキというものが全くないし、相手に考える暇を与えません。迎えるバッターはキャプテン松山。次打者が清原だけに、歩かせるという選択肢が全くない中、すっと入った外角の球を松山が叩くと、打球は鋭いライナーとなって右中間を抜け、その瞬間PL学園の2年ぶりの全国制覇が達成されたのでした。
この試合だけに限ると、本当に宇部商の頑張りは凄かった。正直こんな試合になるとは、夢にも思いませんでした。今大会絶好調で途中からチームの救世主となった古谷は、あのPL相手に全く臆することのない投球を披露しました。その気迫こそが、球史に残る決勝戦を演出したのだと思います。そして決勝では通算本塁打記録を清原に抜かれてしまった藤井も、意地の逆転3塁打を放つなど活躍。これらの選手の頑張りが、昭和60年の決勝を、いつまでも語られる決勝にしたのだと思っています。それにしても桑田も清原も、今見てもあの落ち着き払ったプレーは、「高校生の中に一人だけ社会人が混じっている」なんていわれていましたが、それよりも上の、「一人だけプロが混じっている」という風情でしたね。


今回は昭和59年と60年の2年間の思い出を。
次回は「ポストKK時代」の61年~63年について、書こうと思っています。


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