昨日の投稿で、父や母の「付け届け」文化やコネ重視について行けないと書きました。
父はすごく要領がよくて社交的な性格で、言ってみればソトヅラが最高の人で…
ほどよく強引で抜け目ない反面、部下に対しては親分肌なところがあって人望も得て。
その才覚で芸能の裏方の世界を泳ぎ、会社を大きくし、実質的なトップに出世しました。
(世襲の同族企業なので「社長」の肩書は得られませんでした)
まあ「世間的」には成功者の部類に入るのだと思います。
母の浪費のために、財産はほとんど残っていないですが。
(母の浪費も今になって気持ちを寄せれば、寂しさや不満、不安を紛らわす手段だったのかと)
一方、私は、性格的には父に全然似ていません(顔は似ていると言われますが)。
どちらかというと不器用で、自分で言うのも恥ずかしいですが、一本気なところがあるので。
そういうところは、どちらかというと私の祖父(父の父親)に似たのかなと思います。
幼少期の数年間、祖父母とも、ひとつ屋根の下で暮らしたことがあり…
その後もずっと、父の実家へ遊びに行くのが、何よりも楽しみな子どもだったので…
祖父の影響は非常に色濃いと思っています。まあ、典型的なおじいちゃん子ですね。
私の息子も、くそ真面目で一本気なところ、必要以上に?正義感が強いところなどは…
私の祖父(彼の曽祖父)ゆずりかな、と思います。
不思議な話ですが、息子が高校受験のとき、家の中で一種の怪現象が続いて。
内側からしか閉まらないトイレのカギが、深夜に閉まってドアが開かなくなるとか。
でも、今でも「科学者のひよこ」のくせにオカルトを異様に恐怖する息子が…
なぜかそのときだけは怖がらず「ひいおじいちゃんが僕を守ってくれている」…
「いつも君を見ているよ、とアピールしてくれているんだ」と変なことを言っていました。
一方で社交的なところとか、妙に要領が良いところがあるのは、私の父にそっくりなんですけど。
考えてみれば、私の息子の誕生を誰よりも心待ちにしていたのは、祖父でした。
「ひい孫の顔が見てみたいよ」
としょっちゅう言っていて。
だから「いつも僕のことを見守ってくれている」と息子が感じたというのも…
あながち笑って済ませられないかも。
息子のことを、私のおじいちゃんが見守ってくれているのなら、何だかいいな…。
というわけで、気が向いたので、私の祖父のことを中心に…
父方の家族の歴史を、個人的な備忘録代わりに書き残しておこうと思います。
私的な備忘録ですし、長くなります。
他人の家族のことなど面白くないでしょうから…
以下は興味がある方だけお読みください。
内容は、祖父母や大叔父など、親戚から口頭で話して聞かされたことに…
祖父が持っていた、小田原周辺の、郷土史の本を使って自分で調べたことを合わせました。
祖父は明治の後期に、小田原に近い、国府津という土地に生まれました。
祖父の父(私の曽祖父)は国鉄に勤めていました。
家は、さかのぼるのが可能な限り、長男の長男……と続く家系(しかも養子でなく実子)。
先祖は小田原藩の藩士で、俸禄だけでなく国府津に小さな知行地を持っていたようです。
そして、小田原藩の剣術指南役をしていたそうです。
さらにさかのぼると、甲斐の国の武田氏の一族になるのだとか(家紋が花菱です)。
なので、生前祖父が語ったところによると、子どものころ家には板張りの道場があり…
道場の鴨居には、何代か前の先祖が使ったという「鎖鎌」がかけてあったそうです。
(鎖鎌の使い手はなんと、女の人だったという言い伝えなんだとか)
祖父の祖父の義男(義介?)は、その腕が江戸-東京にまで鳴り響く剣士でした。
そしてやわらの名手でもありました(柔道とは違う突きや足技もある古武道としての柔術)。
明治の初めごろは、初代内閣総理大臣となった伊藤博文の、身辺警護役をしていたそうです。
廃刀令後、政府要人はお忍びの私用で出歩くとき、空身で要人を警護することができる…
いわゆる私的な用心棒が必要になったため、うちの先祖に白羽の矢が立ったのでしょう。
どうやって祖父の祖父が、伊藤と知り合ったのかはわかりませんが…
国府津には政府要人の別荘がありましたし、伊豆方面に保養に行くときは必ず通る所なので…
やわらの腕が立つ男の噂を聞く機会は、いろいろとあったのでしょう。
その縁で、義男(義介?)の妹の「お仙」さんが嫁いで、女将さんとなった「舟待ち茶屋」は…
上客になった伊藤から「相仙」(あいせん)という屋号を付けてもらったのだとか。
お仙さんの夫も「仙次郎」という名前で、両方とも「仙」の字が付くことから「相仙」と。
国府津から先、東伊豆方面に鉄道が通じるのはずっと後年になってからのことで…
そちらへ行くには、当時、陸路が非常に不便だったため、国府津から船で行くのが一般的で…
船が出るのを待つ間、旅行客が飲食をしながら休む「舟待ち茶屋」が何軒もありました。
舟待ち茶屋には芸者が上がることもあり、荒天の場合は欠航するので宿屋にもなったそうです。
「相仙」は、伊藤卿の紹介で国内外の上客が多く付いて、その中で最も栄えたのだとか。
商才にも長けていたお仙さんは、横浜に出向いて西洋の楽器を買い集めて来て…
演奏の仕方を教えてくれる教師も雇って、自分と店員とでその演奏までおぼえて…
当時は大変珍しかった西洋風の「楽団」を結成し、お客に音楽を聴かせたのだそうです。
そうしたハイカラな雰囲気が、祖父の実家にも流れ込んだのか…
親戚には、川崎に出て、駅の近くで喫茶店や写真館などを営む人が何人も出ました。
そんな家風ではあったものの、祖父の母は、相模の、秦野のたばこ農家の出身だそうです。
かつての武家なのに、農家の娘を嫁に受け入れるところも、開けた家風を物語っています。
祖父の、母親の思い出は「作ってて覚えちゃったんだろうな、煙管をいつも吸っていた」と。
祖父自身は、たばこは全く吸いませんでしたけれど。
祖父は幼時、手に負えない腕白坊主で、色々と問題を起こしたあげく、国府津の駅近くで…
「腕木式信号機」の腕木にぶら下がって信号を変えてしまい、列車を止める事件を起こし…
「国鉄職員の息子が列車を止めるとは、言語道断!」ということになり…
しばらく家を追い出されて「相仙」に預けられてしまったのだそうです。
そのころ、寂しく一人で海を見ていた、幼いころの祖父は…
国府津の海岸で見知らぬ大学生が、絵を描いているのに出会い。
真剣に見入っていたところ、そのお兄さんから「坊や、そんなに絵が好きか」と問われ…
「うん!」と勢い込んで言ったところ、青年から「じゃあ、これを君にあげよう」と…
なんと持っていた画材一式を、そのままプレゼントされたのだそうです。
それから絵に夢中になった祖父は、やがて画家になりたいという夢を持ったのですが…
ありがちな展開で、親から「そんな食えない仕事など駄目だ!」と禁止され…
仕方なく、絵画を描く代わりに、図面を引く仕事ということで、建築家を目指しました。
そして、芝浦工業学校(現在の芝浦工大)に進みました。
当時川崎にあった、親戚が経営する「コヤマ珈琲店」という喫茶店でアルバイトをして…
客として来ていた、川崎の女学校に通っていた私の祖母を見染めて声をかけ…
恋仲になって結婚したというわけです。
ちなみに祖父は、喫茶店のウェイターのアルバイトをするほかに…
これも親戚だった、活動弁士(カツベン)の「天露」という人の助手のバイトもしていたとか。
活動弁士というのは、活動写真(無声映画)の上映のとき…
画面にセリフを当てたり、ナレーションをしたりする弁士です。
歌を歌わないといけない場面もあるのですが、天露先生は「音痴だった」とかで…
そこの場面では、祖父が自分でバイオリンを弾きながら、代わりに歌ったそうです。
(バイオリンは「相仙」の楽団から教わったのでしょうか…)
そんな学生だったので、祖父が自分たち夫婦を「俺たちはモボとモガだった」…
(大正時代の「モダンボーイ」「モダンガール」つまりお洒落な若者たち)
と自慢しているのも、あながち嘘ではないのかなと思います。
結婚当時の写真を見せてもらいましたが、ふたりとも「美男美女」のカップルでした。
下の写真は当時のモガのファッション。
実際、あの世代で「恋愛結婚」をしたという夫婦も、そんなに多くはなかったでしょう。
ここで、少し父の母親(私の祖母)の家族のことに触れておきます。
こちらも、もとは武家だったようですが、石川だか福井だか、北陸の方の出のようです。
それが明治時代に、どういう経緯かはわかりませんが、いったん横浜に移り住んで…
それから川崎に居を移したようです。
その親戚は、こちらも川崎駅の近くで、大きな運送業兼倉庫業の会社を営んでいたり…
そこそこ大きな書店をやっていたりしたそうです。
祖母の実家も経済的には豊かなほうで、だからこそ、女学校に行かせてもらえたのでしょう。
女学校を出た後は、川崎の東芝電気に勤める「BG」(ビジネスガール)をしていました。
都会で働く女性の、はしりみたいなものですね。
まあ、だからちょっと進歩的な「モガ」だったとしても不思議はないです。
祖母の母(私の曾祖母)も進んだ人で、娘が男性とお付き合いをするのも…
止めるどころか興味津々で「逢引き」の日の後は、嬉しそうな顔で…
「どこ行ったの?何食べた?」と訊いてきたとか。
「上野まで出かけて氷食べたよ」
「氷水かい。何の味のかね?」
「水(すい=何もシロップがかかってない)よ。何も言わずに『水ふたつ』って」
「まあ、〇〇さんはケチだねえ!」
なんていう会話があったのだと、祖母が晩年、笑いながら話してくれました。
まあ、当時としては本当に「開けた」家族だったんですね。
祖母はきっと、陰では「不良娘」と噂されていたことでしょう。
母として、祖母としての彼女は、仏様のように穏やかで優しく、心の大きな人でしたけれど。
その後、祖父は学校を出て、逓信省の営繕部に勤めました。
逓信省は、戦後郵政省となる役所で…
営繕部というのは、大きな郵便局や電話局の建物を設計・建設する部署です。
この職場で祖父は、いくつかの鉄筋コンクリート造の郵便局や電話局の建築に関わりました。
時期的に、今も残っている横浜の「旧横浜電話局」の建物などには、からんでいるかも。
また上野の国立博物館の、現在もある本館の設計コンペにも参加したようです。
しかし、とにかく頑固で一本気、正義感の強い祖父は、職場で上司と対立することもしばしば。
しかも子どものころから、腕っぷしが強いやんちゃ者だったので…
ついに上司の一人を殴り倒す事件を起こし、役所を辞職することになってしまいました。
でも父の話では、祖父は明治生まれの、しかも血の気が多い男だったにもかかわらず…
妻や子どもたちなど、家族に向かって手を上げたことは、ただの一度もなかったそうです。
それもまた、祖父なりに「筋を通した」ことだったのでしょう。
私に対して、父が手を上げたことがなかったのも、それに倣ったのでしょうか。
私もまた、息子に手を上げたことは一度もありません。
ここだけは、三代通じて守って来た方針、ということになります。
うちの息子が子を持つようになっても、体罰や暴力はあり得ないことでしょう。
また父たちが子どものころは、川崎の家から、横浜の「三ツ池」まで…
よく、一緒に歩いて、ハイキングに連れて行ってもらったそうです。
小さかった叔母は、祖父がしょったリュックサックの中に入って、顔だけ出していたとか。
明治男にしては珍しいくらい、我が子と多く関りを持つ、子ぼんのうなタイプだったようです。
後には孫(私)のことも、とてもかわいがって、あちこち遊びに連れて行ってくれました。
稲荷山古墳や、川越の喜多院や…。
私が後に歴史好きになって、大学でも日本史学科を選んだのは、確実に祖父の影響です。
夜寝るときは沿い寝して、私を主人公にした即興の話を作って、語って聞かせてくれました。
「冒険大活劇」「人情劇」の二種類がありましたね。
とにかく子どもが大好きな人だったから、ひ孫を抱いたら、どんなに喜んでくれたか……
一方、国府津では「相仙」の二代目だか三代目の当主が、馬主の投資に入れ込み過ぎて。
その上コレラだかチフスだかを店から出してしまったのが致命傷で、潰れてしまったそうです。
ただ祖父の実家の方は、昭和になっても、多少政界とのつながりがあったのか…
二・二六事件で暗殺された犬養毅首相の、箱根の別荘の管理人をしていたそうです。
逓信省を辞職後、祖父は中堅の建設会社に転職しました。
しかし、日本が戦争に向かう時代になると、数度にわたり、軍事施設を建設する役割の…
「軍属」として招集されます。
後半は四十歳前後になっていた祖父。自分の息子でもおかしくないような年頃の…
青年将校の、高圧的な命令に従う立場になりました。
そして、建設現場で働いていた、朝鮮人徴用工たちへの扱いがあまりに酷かったため…
(祖父が生前語ったところによると「人間扱いじゃなかった。馬の方がましだった」と)
見かねて、せめて人間らしい待遇をしてほしいと、監督する将校に訴え出たところ…
「軍属の分際で、将校に意見するとは何事か!」と、軍刀の柄頭で顔を突かれて…
前歯が全部折れてしまったそうです。
(亡くなるまで前歯は全部差し歯でした)
正しいと信じたことなら我が身を投げ打つことも厭わない、正義漢だったんですね。
最後の招集で家を離れるときは、もう戦局が厳しくなり、食べるものに事欠く有様で…
赤ん坊だった一番下の叔母は、祖母のお乳が出ないため弱っていて。別れるとき祖父は…
「もう生きては会えないだろう。どうか良い時代の良いところに生まれ変わってくれよ」
と叔母に言って涙を浮かべていたと、祖母が語ってくれました。
子ぼんのうな祖父のことですから、さぞかし、つらかったことでしょう。
その後、終戦を待つことなく、下の叔母は幼い命を終えました。
最後の現場では、祖父が一人でいるところへ、米軍の戦闘機の機銃掃射を受けたそうです。
(まあ基地の建設現場ですから、狙われるのは当たり前です)
走って逃げて、後ろから機銃の弾がバタバタと地面に着弾する音が迫って…
防空壕に飛び込んだ瞬間、機銃弾に追いつかれて。
「間一髪もいいところ。1秒の半分も遅かったら死んでたよ」と生前の祖父。
そのとき亡くなっていたら、私は祖父に会えなかったですね。
その間家族は、川崎の自宅を「建物疎開」で、国によって強制的に壊されて。
祖母と曾祖母と、叔母たちは親戚の家に身を寄せて。
父と上の叔父は、栃木県の知り合いのところへ、縁故疎開しました。
川崎空襲を生き延びた祖母と叔母が、歩いて栃木の疎開先までやって来たのは…
空襲から幾日もたってからだったと、父が言っています。
一方、父の母方の祖父は、川崎空襲で逃げる途中、焼夷弾が太ももを貫いて歩けなくなり。
父の祖母(私の曾祖母)は、夫に「俺を置いて逃げろ!」と命じられて、泣く泣く逃げて。
あとで曽祖父は、焼け跡から遺体で見つかったそうです。
夫を見捨ててひとりで逃げたことを、生涯苦しんでいた曾祖母。
この曾祖母には、私も小さいころ遊んでもらった記憶がありますが…
「私は業が深いから、死んでもろくな所には行けないよ」と、悲しそうに言っていました。
私の父ときょうだい、祖父母と親戚の、川崎での歴史はこの空襲でほぼすべて終わりました。
戦後に復活したのは、祖父が若いころアルバイトしていて、祖母と出会った…
「コヤマ珈琲店」だけだったそうです。
とりあえず、祖父の歴史を書き留めておくのは、今日は、ここまで。
伊藤博文、犬養毅と、歴史の教科書に載っている大物政治家と関りを持った先祖たち。
しかし、戦争では徹底して家族の生活を破壊され、身内から何人もの犠牲者も出して…
本当に酷い目に遭ったことから、軍国主義、全体主義、そして戦争そのものへの…
深い恨みと忌避の思い、二度とそのような世の中にしてはならない、という考えが…
祖父から父、父から私、私から息子へと、四代に渡って受け継がれているのです。
長々とお付き合いいただいた皆さん、ありがとうございました。
またいつか機会がありましたら、戦後の家族の歴史も書き残しておこうと思います。