鬼頭明里さん、楠木ともりさん、前田佳織里さんら、いま最も勢いがある若手・新人声優が何人も入っているグループ『虹が咲学園スクールアイドル同好会』…
その実質上のリーダー大西亜玖璃さんもそのひとり。
こんな動画もあります。
声優だけでなく、女性アイドルやそのたまごにも唯さんが大好きだったり、目標だったりする人は多くて。
アイドルのコピーダンスサークルに所属する全国の女子大生の中から女王を選ぶ『ミス・ユニドルコンテスト』というのがあって…
その優勝者「ひな」さんは、モデルプレスのインタビューでこんな風に言っていました。
確かにあのプロ意識の高さは、13年間トップクラスを維持してきたのも伊達じゃない、という感じ。
後進の人たちが憧れるのもわかります。
でも、昨日配信された日高里菜さんとのコンビラジオ『ちゃんラジ』では……
実は涙もろい方だと言っていました。
高校生のころは、真面目過ぎるがゆえに、学業もちゃんとやらなくちゃ、でも仕事が忙し過ぎるということで…
不安で授業中に涙が止まらなくなって、先生に心配されたという話をしていました。
以前はライブでも終わりの場面で涙することが多かった唯さん。
最近はそんなこともなくなって、人前で泣くことはほとんどなくなりましたが…
今度はひとから嬉しいことを言ってもらったときなど、感激で涙があふれてしまうと。
少し前、YouTubeなどの動画を見ていて、ほんの数十秒の短い間にも感動で泣けて来てしまうと言っていました。
自分で作詞したニューアルバムの表題曲『ta・ta・tarte♪』のMVでも…
「もろいハートはここ、ここです」と言って自分の胸を指すシーンが入っています。
傷つきやすい心を、高いプロ意識でかろうじて支えているんでしょうね。
ラジオの相方の日高さんも、仕事がうまく行かなかったときは現場や人前ではこらえて…
帰りに自分で運転する車に乗り込んで、ひとりになってから泣いていると言っていました。
ああいう仕事をしている人は、感受性の強い人が多いですからね。
心ないネット民やアンチオタクから、誹謗中傷や不当な罵詈雑言を浴びることも多いですし。
加害する方は、自分の恵まれない実生活の不満やストレスを、そういう暗い行為で紛らわせてるんでしょう。
やられる方はやられっぱなしで反撃できない。匿名の加害者の、安全圏からの卑怯な攻撃になすすべない。
そして少しでも反論すると「煽り耐性がない」とか「ツイッターに向かない」と言われる。
SNSという文字通りソーシャルな空間を、煽り放題言い放題の、人間の醜さで塗りつぶしている連中こそが…
本来はそうしたものに入って来るべきではなかった「向いてない」人なのだし…
人生に当たり前にあるつらい事への「耐性がない」ダメ人間なんですけどね。
自然環境を自分たちが不自然に汚染しておいて、そのせいで滅びたり苦しむものを「地球環境に向かない」と言ってるのと同じ。
人間を「属性」で語るのはあまり良くないことなんですけど……
いわゆる「オタク」や「ネット民」と呼ばれる人種にろくな者が多くないというのは、実際に見ていてそう言わざるを得ない。
(オタクやネット民の「定義」は曖昧で、その人によって得手勝手に使っているものなので言葉としても嫌いなんですけどね)
まあ悪質なネット民や厄介オタクは、広い意味での自然の摂理で淘汰されて行くことでしょう。
だから小倉唯さんは、サブカルの世界なんぞに関わる仕事をしない方がよかったんだ、と時々思ったりしますが…
彼女を「神」と崇めるわが息子に言わせれば…
救世主は「様々な意味で、最も貧しく哀れなもの」から優先して救うのだから、それでいいのだそうです。
確かに、神の身でありながら人間になり、十字架に架かって過去現在未来の人の罪を肩代わりするため…
自ら死に赴くというキリスト教の神のコンセプトはそうしたもの。
悟りを開き涅槃の境地に至りながら、そこからわざわざ降りて地獄に墜ちた衆生を救う、仏教の地蔵菩薩のコンセプトも同じ。
慈愛、慈悲というのはそういうものですね、考えてみれば。
慈悲慈愛の心ゆえに、臨床心理士になるという中学から大学時代まで持ち続けた目標を捨て…
悟りを開き涅槃の境地に至りながら、そこからわざわざ降りて地獄に墜ちた衆生を救う、仏教の地蔵菩薩のコンセプトも同じ。
慈愛、慈悲というのはそういうものですね、考えてみれば。
慈悲慈愛の心ゆえに、臨床心理士になるという中学から大学時代まで持ち続けた目標を捨て…
その代わりたくさんの人を癒す声優アーティストになったと考えれば…
ある意味本当に小倉唯さんは神のような者であり、菩薩のような者なのかもしれない。
息子が唯さんを崇めるのもそうした解釈からだとすれば、あながち笑ってもいられない、慧眼なのかもしれないです。
ある意味本当に小倉唯さんは神のような者であり、菩薩のような者なのかもしれない。
息子が唯さんを崇めるのもそうした解釈からだとすれば、あながち笑ってもいられない、慧眼なのかもしれないです。