夫は産みの母と40年以上前に生き別れた・・。
夫は台湾人の父と日本人の母の間に昭和30年11月に生まれた。
やがて35年12月・・37年1月にふたりの妹が次々生まれた。
・・そんな頃、父親が他の女性に走ってしまった。
残された4人の母子家庭、妹ふたりを兄の7才の少年に託し、
毎晩、母は割烹料理の仲居さんで日給を稼ぎに出掛けていった。
ピィピィ泣く妹達にご飯やミルクをあげ、おしめを替える、
これがたった7才の少年の日課か・・!?
小学校3年の頃、念願の新品自転車を買って貰った。
翌日に、勇んで学校から帰ったら、その自転車は既に質草に・・
お金に困った母は月賦で購入した自転車を換金したのだ、
いわゆるこれが本当の自転車操業??
アパートの雨漏りはひどいし、水道は止められるし、
タンスには赤紙が貼られる・・といった想像を絶する生活。
そんな話、私には何だか映画で見ている様な世界だ。
一番トラウマになってるのは学校の運動会だったと思われる。
寡黙な主人の口から3回ほど聞いているから分かる。
運動会のお弁当のコトだ。皆、敷きゴザの上でご馳走拡げて
家族輪になってお昼を食べているのを横目でみながら
独りウロウロ当てにならない母が弁当を持って来るのを待ったコト・・
結局来なかったのだそうな。ウ~~ン何とも可哀想。
でも、話の中には一寸矛盾もある。母が毛皮のコートを着て
授業参観に来るのは綺麗で鼻が高かった・・とも耳にしている。
たぶんお金の使い方が下手な母親なのかもしれない。
やがて父親から連絡が入り「こっちに来るか?」
迷いもせず「ウン!」と兄は一目散に父親の元にとんでいった。
少しして上の妹も来た・・そして下の妹も結局3人とも父親の手元に。
泣きじゃくりながら追いすがる幼い末妹を、母の手から兄が引き離し、
坂を泣きながら下って行った母の後ろ姿・・それが最後だった。
昭和40年夏まだ9才だった。その後2度3度、中学・高校の頃か?
瞼の母逢いたさに何度か厳しい継母の目を逃れ、家出を図って
母の田舎を訪ねたらしいが、行方知れずで再会は叶わなかった。
昨日我が家のポストに「重要書在中」なる封書が届いた。
差出人は○○株式会社・債券管理本部となっている。
それは主人の母が消費者金融から借りたと思われる返済通知だ。
再婚したらしく借りた時の姓は違っていたがその後に
離婚したと思われる。
昭和54年に借りた20万円が1283040円にもなっていて、
残念ながら既に他界してますので調査した結果
相続人である貴方さまが民法○○条により返済する事に
なるでしょう。と・・
5年ほど前にも別会社からそのような通知が主人とふたりの妹
のところへ届いた。その事で母が亡くなったことを知らされた。
慌てて弁護士さんに頼んで相続放棄の手続きをした事があった。
でも9才の時に別れたままの母の借金が、辿り辿って何とも
理不尽であろう。ましてや母親の顔も知らない妹達は尚更だろう。
フ~~ッ・・明日また弁護士さんに連絡しなきゃ。
払わなくたって大丈夫に決まっているけど、
女房としてもまたこんな厄介な事、些か閉口している。
理不尽・・。
夫は台湾人の父と日本人の母の間に昭和30年11月に生まれた。
やがて35年12月・・37年1月にふたりの妹が次々生まれた。
・・そんな頃、父親が他の女性に走ってしまった。
残された4人の母子家庭、妹ふたりを兄の7才の少年に託し、
毎晩、母は割烹料理の仲居さんで日給を稼ぎに出掛けていった。
ピィピィ泣く妹達にご飯やミルクをあげ、おしめを替える、
これがたった7才の少年の日課か・・!?
小学校3年の頃、念願の新品自転車を買って貰った。
翌日に、勇んで学校から帰ったら、その自転車は既に質草に・・
お金に困った母は月賦で購入した自転車を換金したのだ、
いわゆるこれが本当の自転車操業??
アパートの雨漏りはひどいし、水道は止められるし、
タンスには赤紙が貼られる・・といった想像を絶する生活。
そんな話、私には何だか映画で見ている様な世界だ。
一番トラウマになってるのは学校の運動会だったと思われる。
寡黙な主人の口から3回ほど聞いているから分かる。
運動会のお弁当のコトだ。皆、敷きゴザの上でご馳走拡げて
家族輪になってお昼を食べているのを横目でみながら
独りウロウロ当てにならない母が弁当を持って来るのを待ったコト・・
結局来なかったのだそうな。ウ~~ン何とも可哀想。
でも、話の中には一寸矛盾もある。母が毛皮のコートを着て
授業参観に来るのは綺麗で鼻が高かった・・とも耳にしている。
たぶんお金の使い方が下手な母親なのかもしれない。
やがて父親から連絡が入り「こっちに来るか?」
迷いもせず「ウン!」と兄は一目散に父親の元にとんでいった。
少しして上の妹も来た・・そして下の妹も結局3人とも父親の手元に。
泣きじゃくりながら追いすがる幼い末妹を、母の手から兄が引き離し、
坂を泣きながら下って行った母の後ろ姿・・それが最後だった。
昭和40年夏まだ9才だった。その後2度3度、中学・高校の頃か?
瞼の母逢いたさに何度か厳しい継母の目を逃れ、家出を図って
母の田舎を訪ねたらしいが、行方知れずで再会は叶わなかった。
昨日我が家のポストに「重要書在中」なる封書が届いた。
差出人は○○株式会社・債券管理本部となっている。
それは主人の母が消費者金融から借りたと思われる返済通知だ。
再婚したらしく借りた時の姓は違っていたがその後に
離婚したと思われる。
昭和54年に借りた20万円が1283040円にもなっていて、
残念ながら既に他界してますので調査した結果
相続人である貴方さまが民法○○条により返済する事に
なるでしょう。と・・
5年ほど前にも別会社からそのような通知が主人とふたりの妹
のところへ届いた。その事で母が亡くなったことを知らされた。
慌てて弁護士さんに頼んで相続放棄の手続きをした事があった。
でも9才の時に別れたままの母の借金が、辿り辿って何とも
理不尽であろう。ましてや母親の顔も知らない妹達は尚更だろう。
フ~~ッ・・明日また弁護士さんに連絡しなきゃ。
払わなくたって大丈夫に決まっているけど、
女房としてもまたこんな厄介な事、些か閉口している。
理不尽・・。
相続放棄されたと言う事で問題無いと思います。私よりご主人の方が少しお兄さんですが、時代背景を考えますと大変なご苦労されたと思います。
ただ、この件とは別でご主人の母への思いをお察しします。
きっと弁護士さんはよいようにやってくれると思います。ただご主人の気持ちを考えると、せつないですね。
でも、気持ち切り替えてお茶飲みましょう!!
なんともやり切れませんね。
回収先が見つからず債権譲渡した結果でしょう。
金利自体は法定金利内のようですが・・・
相続放棄しているのでまずは問題ないと思いますが
落ち着かないことと思います。
それにしても何故今頃なんでしょうね。
相続人を探したのなら、
相続放棄していることも調べれば良いのに
ホントに理不尽な話ですね。
私もそのへんについては勉強したので、
わかります。
財産を受け継ぐって借金まで受け継ぐんですよね。
ほんと理不尽ですよね。
気が休まらないことが多いゆり子さん、
肩でも揉ませてください。w
あ、お茶いれましょう^^
一息ついてくださいね。
知らなければ晴天の霹靂、
父親に育てられながらも兄妹3人の戸籍は
母の私生児になっていたから大変。
国際結婚は特に難しいです。
あなたも大変ご苦労なさったご様子、
でもスルツカヤの言葉「それが人生よ」
ホントホント、人生色々ですね。
コメント有り難うー!
私は昭和43年生まれなので、セブンはリアルタイム世代ではありませんが(ウルトラマンAくらいからリアルで見ていた)、何気なくセブンのDVDを借りてみたら、すっかりハマってしまいました。
皆さん言われるように、アンヌ隊員は確かに美しいですね。
でも、軍医なのに戦いの現場にも出て行くのが、少しだけ疑問ですが
私の母は私が生まれた直後に父と離婚し、私は父の顔を知らないまま大人になりました。
27歳の時に、突然職場に「父危篤」の電話があり、急いで飛行機で駆けつけると父は既に死亡していました。結局一度も生前の父と会えなかった事になります。
その後はお決まりの遺産相続争い。
後妻とその息子(義理の弟)、父の愛人(内縁の妻)、そして私の3者での争いです。
当初私は相続放棄しようと思っていた(血の繋がった父とは言え、現実には顔も知らない人だし)のですが、それもさせてもらえず、争いの渦中へ。
しばらくして、住宅債券の支払い通知が我が家に届きました。
銀行に確認したところ、相続争いの最中なので、通帳や有価証券は全て凍結されており、決着がつくまではそこから払う事はできない。
したがって、相続人が自腹を切って払うしかないとの事。
この時、内縁は正式な相続人じゃないから支払い通知は届かないんですよ。払うのは戸籍上の繋がりがある私と、後妻およびその息子だけ。
それなのに、債権発生の元になった家には、内縁が住み着いちゃってるんだから、もう訳が分からないですよね。
私が支払いを拒否したら、銀行が強制的に競売にかけると言い出し、構わないと突っぱねました。だってそんな家が競売で無くなっても私には関係無いし。
でも内縁にとっては住んでいる家を追い出される事になるわけです。
そこで困った内縁が隠し持ってた現金(父が死ぬ直前に、かなりの預貯金が内縁の手によって解約されていた)で払ったと思いますが、よく憶えていません。
相続争いは3年以上にわたって続き、結局私が手にしたのは、遺産総額のほんの一部の僅かな現金だけ。
法律では4分の1の相続権があるはずなのに・・・まあ、今となってはどっちでも良いですけど。
理不尽だなぁと憤慨した事も有りましたが、フィギュアスケートのスルツカヤ選手の言葉を借りれば「それが人生よ」って諦めました。