あれから55年・・アンヌのひとりごと

ズバリ!団塊の世代。ひし美ゆり子のブログsince・06・1・14

野方時代の記憶のあれこれ・・団塊世代のひとりごとPー3

2007年02月28日 01時27分31秒 | 地谷子のひとりごと
野方駅の踏切りの横に「西武座」と云う映画館があった。
6才の時、母に生まれて初めて映画館に連れていかれた。
今井正監督の「ひめゆりの塔」内容は全く憶えていないが、
ただひとつおぼろげだが兵隊さんがおねしょしたシーンだけ憶えている。
子供らしい記憶でしょ。

「長いな~」何時間経ったのだろうか?
あの暗い小さな劇場に居ることが苦痛で苦痛で堪らなくなり、
「ねぇまだ終らないの~ねぇまだ~」の連発だ。
「シーッもう一寸我慢して」母に何回諭されたことか。

映画館を出た瞬間あれほど太陽の眩しさが嬉しいと思ったことはない。
「あれ~まだ昼間なんだ!」
眼が馴れるまであちこち総てが黄色くみえて、
ちょうど昼寝(うたた寝)から覚めた時
「アレッ今何時だ。朝かな?夕方かな?」
って辺りを見回す・・そんな感じだ。

幼稚園児に長篇のひめゆりの塔はチト厳しかったかも。
あれ以来、暗い映画館の中は丸で苦手で、
いまだに映画嫌いは三つ子の魂なのだろう。
結局母と一緒に映画を観たのはあれが最初で最後だった。


当時、野方にはパチンコ屋さんが一軒あった。
あの頃のパチンコ屋さんの記憶は外にまで大きく響く流行歌だ。
「お富さん」の曲を聴くと=「野方のパチンコ屋」と連想が働きます。

近所のマアちゃんのお母さんが割烹着姿で
パチンコに夢中になっている姿を母と買い物帰りに見つけた。
きっとご主人に内緒でパチンコ屋で遊んでいたんだろう。
母が苦笑していたのが印象的で、
今でこそ女性がパチンコ屋に出入りしてもあまり違和感ないが、
あの時代はチョット女性のパチンコは下品だったのかもしれない。
立ったまま球を一個づつ入れてはじくやつだ。

マアちゃんのお父さんは
1メートル四方もの銅板を布に磨き粉みたいなものをつけて
シュシュシュと音を立て毎日黙々と磨いていた。
何に使うモノなのか分からないが銅板の研磨職人とでもいうのかな。

買い物は野方か都立家政が近場だったが
チョイト足を延ばして徒歩30分程度の所に高円寺駅があった。
高円寺までの買い物は母は外出着に着替えて姉を伴い、
幼い私は足手纏いなのかいっつも捲かれたのだ。
置き去りにされた悔しさと寂しさから
母の脱ぎ捨てた着物に顔を埋めて残り香を嗅ぎ
帰宅するまでズっ~と泣いていたのも懐かしい思い出だ。
母の匂いは乳臭く大好きな匂いだった。

そういや私ってあの頃から匂いフェチなのかな。
父の煙草両切りピースの銀紙の匂いも大好きだし、
キャラメルやチョコレートやチューインガムの包み紙は
むいて捨てる前に必ず匂いを嗅がなきゃ気が済まない癖がある。
また小学校入学時のランドセルの皮の匂いも懐かしい。
未だに好きな匂いや残り香を楽しむ癖は変らない。

昭和29年8月(若宮小学校1年の夏休み)
父も年貢の納め時と察したか中野の家を処分して井の頭の借家に移り住んだ。

真夜中にお菓子が宙を飛ぶ・・団塊世代のひとりごとPー2

2007年02月25日 12時45分54秒 | 地谷子のひとりごと
昭和22年6月10日生、地谷子(ちやこ)と名付けられた。
「地の谷の子?」妙な名前でしょ。地獄の谷に落ちた子みたいで。
由来はいまだにはっきりしない。
母にきいても「八卦に付けてもらった」としか言ってくれないし。
まさに戦後のベビーブーム世代で出生した新生児は未だ戦後最高の記録だ。

生家の辺りは一軒が割にゆったりしていて土地持ちの農家のほかは
早稲田大学沿線でもあり大学教授や会社社長の新しい邸宅が多かった。
父がそこへ居を構えたのは昭和18年戦争の真っただ中、
エンジニアとして従事した兵器の会社から賞与で家が貰えたらしい。
戦争で財を成したなんて皮肉なもんですね。

8才年上の姉が度々自慢していた。
「お父さんは戦争中黒塗りの車でお抱え運転手の送り迎え、
 家には2人のお手伝いさんがいて私とぼうや(長兄)は
 乳母日傘(おんばひがさ)で育てられたのよ」と。
でも本当のところは分かりませんっ!私の生まれる前なんだから。

戦後は転身していて父自身が発明した拡大器の会社
「スミラ工藝社」を興していたのだった。
拡大器とは相似を利用して地図等を描く、
いわば手動式の拡大コピー機といったところです。
ひとつ百円で単純なものですがあの時代は
「菱見時彦先生の驚異的な発明!」
ともてはやされ神田の三省堂に売り場コーナーが有り、又
講談社の少年雑誌の通販でも一時ブームで飛ぶように売れたらしい。
調子に乗った父は入る日銭で毎日宴会をつづけ、
まったく先見の明のかけらもなかったのでしょう。

私が物心付いた頃は下降気味で一家の生活は大きく変っていたのです。
すでに外注に出す余裕もなくまさに家内制手工業状態で、
姉や長兄が鉛筆を削ったり箱を折ったりして手伝い、
母はせっせと商品を組み立ておまけに8畳の間(ま)には
寝たきりの姑のしもの世話までやってたんです。

ひきかえ眼が醒めぬ父は酒びたりで連日連夜帰りが遅く、
母の心中は穏やかではなかったでしょう。
いつしか暗い無口な母親になっていました。
世間では優しくおとなしい地味めな人と思われがちだが、
ところがドッコイ私たちが寝入った頃を見計らって
父への真夜中の逆襲を挑んでいたんです。
末っ子の私が一番よく分っていたはずです。

いつも母の布団に同衾していた私は何度も目の当たりにしました。
母の尖り声で眼を覚まし恐ろしさのあまり布団をかぶり
ひとりさめざめと泣いたこともしばしばです。
時には父がご機嫌取りに買って来た土産菓子が
なんと宙をとんで玄関に叩き付けられていたのです。
あくる朝玄関のタタキにはカリントウやマコロンのお菓子が散乱ていたのが
母の逆襲の凄さを物語っていました。

翌朝兄たちと拾ってフ~フ~息を吹きかけゴミを払って食べたのものです。
しかし両親の喧嘩のことは子供たちの間では誰の口からも出なかった。
子供ながらにもお互い触れてはいけないものだと只々黙々と拾って食べたのでした。

そんな暗くなっていた家庭に祖母の葬式が出た。
来客など殆どなくなっていた我が家に人々が集まりお酒が振舞われ果物やご馳走が出、
幼い私には葬式といえどワクワクお祭り気分で一杯だった。

そういえばあの頃・・
母の写ってる写真は総べてが母の顔だけ丸くちぎられていた。
子供心にとても不思議だったが、私と親子程違う従兄の口から解き明かされた。
「僕はおばさんを洋風な顔で綺麗な人だと思ってたけど、
 見合いで嫁に来た当時、日舞の家元だった姑や小姑に
 その洋風な顔がウンヌンとかなりいじめられたんだ。
 それを気にして自分自身の写真を破ったのだと思うよ」

従兄からその謎を聞かされたのはず~っと後の事、
祖母の葬式以来30年振りに再会した父の葬儀の時だった。

『緑の長靴』(団塊の世代のひとりごと・・Pー1)

2007年02月24日 16時29分25秒 | 地谷子のひとりごと
私の生家は新宿駅から15分圏内の中野区(現若宮1丁目)
昭和28年4月のある朝、父が一緒に出かけるよう私を急き立てた。
「どこいくの?」
「いい所に連れてってあげる。」
外出は父との事が断然多かった私。
前日に新調した緑の長靴を履いて父に手を引かれ連れていかれた。

何と、その日は幼稚園入園式だった。
四人姉兄の末っ子の私だが当日まで入園を知らされなかったのは
端(はた)から見れば一風変った水臭い家族に見えるだろうが、
留守がちな父と寡黙な母だもの我が家にとっちゃ決して珍しい事ではない。
その上、姉兄はクラスメートとの遊びに夢中で私はいつも味噌っかす。
入園までひとり遊びの毎日だった。

野方駅あたりを南に下って家から徒歩10分程「大和幼稚園」はあった。
近くに妙少寺川が流れていて辺りは畑も多く風向きでソースの匂りがした。
後で人伝てに知ったのだが当時近くにソース工場があったらしい。

2軒隣に引っ越して来たばかりの某化粧品会社のお偉いさんの邸宅があった。
そこのおぼっちゃまヤスタカちゃんと幼稚園入園によって知り合った。
彼は色白で利発そうで、いでたちはいつも良家の子息といった風貌だった。
私は一年中、四季天候に拘らずあの緑の長靴を履かされて通園していた。
子供心にも少々恥ずかしかったが、家業と4人の子供の世話に追われていた母には
今思うとそこまで構っている余裕はなかったのだろう。

ヤスタカちゃんとお手て繋いで一年間幼稚園生活の始まりだ。
長靴のせいではないがある日幼稚園帰りに転んで左腕を骨折した。
大泣きをしている私を「痛い?大丈夫?大丈夫?」
その優しさ労りの言葉に生まれて初めての感動を覚え、ふと泣き止んだ。
家まで送り届けてくれた彼はまるで王子さまにみえた。

かと言ってカルピスの味ではない。私は彼のお母さんのほうが憧れだった。
私の母は40才に手の届くいつも化粧気のない地味な和装姿だったが、
彼のお母さんはまだ20代だろうか若くて綺麗でいつもモダンな洋服姿だ。
少女心にいつも羨望の眼差しでみている変な私。今で言うストーカーか。
ある日、当時としては珍しい「ストッキング」を履くお姿を垣間見てしまった時、
はっと一瞬息を呑みしばらく胸の鼓動が治まらなかった。
少年だったらあり得る話だろうが少女の私が血が騒いでどうするんだ。

そういえば幼稚園でパーマネントをかけていたフジノナツコちゃん。
口も利いたこともなかったが50年以上経って未だフルネームで憶えているのは
今思うと私って単純にモダンな人に異常に憧れる女の子だったようですね。
無い物ねだりの心境かな。

ちょうどこの頃七五三を迎えたのだった。
記念写真に洋服姿で腕を吊ってる痛々しい写真を見た記憶があるけど、
その写真は紛失して今になっては定かじゃないが足下は長靴だったかどうなのか?

大人になった今でも笑い話しのように姉に言われる。
「地谷子はいっつも緑の長靴を履いてたわね~ふふふ。
 鼻水拭いてクワンクワンに乾いたセーターの両袖がピカピカひかってた。
 汚かったわぁ連れて歩けなかった。あの頃誰にも構って貰えなかったものね」

『緑の長靴』・・未だに忘れられないフレーズだ。

香港のサイトに書き込み・・

2007年02月23日 09時59分29秒 | アンヌのひとりごと
今朝は雨、花粉症の方は少しは楽なのでしょうか?

さて最近面白いBBSに書き込みしちゃった。
私のこのgooブログに毎日どこのSITEから見に来ているか知らせてくれるのです。
いつも一番多いのは私のHP「ゆり子の部屋」2番目は「mixi」から
3番目はその日によってクルクル変るのですが、一昨日は外国のSITEからでした。

『機戦之地』と云って所々漢字が書いてあるので中国のサイトの様でした。
ガンダムみたいなアイコンがあって、どうやら特撮&アニメの板のようです。
文字化けしてたり解り辛いのですが何方かここのアドレスを貼付けた様です。


一昨日、私が日本語で↓↓
『ここは何処の国の板ですか?私のブログに沢山見に来てくれて有り難う』
ってカキコしたらレスがつきました。

『ここは香港のWEBSITEです』
『しがし、なんの”ここのBBSから私のブログに沢山来て”ですか?私達も迷惑です。』
どうやら私が文句云ったと勘違いしている様です(笑)

ウルトラセブン知っていると思われる方は・・文字化けも多いですが何となく解ります。
コピペしますね。
『歡迎 七星?的女主角...?位機地人用機地的LINK到?網頁留言?...大汗』
『ウルトラセブンの... =0=||||||||』
『ウルトラセブン...香港の再放送は約1X年の前私の子供の頃...感動です....頑張って頼みます』
『凄ii!』
・・・・・・等々

ウフフ大体解りますが、人によっちゃ本人じゃなく誰かの悪戯と思っているのですね。
昨日は「mixi」をぬいて2番目の訪問者数でした~。(笑)

「アンヌ缶」・・

2007年02月20日 13時01分32秒 | アンヌのひとりごと
40年前・・・
多くの子供達は日曜夕7時になるとテレビの前でクギ付けだったそう。
そうっ、今年はその「ウルトラセブン」放映開始から40年だ。

記憶が定かなら・・
アンヌ役のオーディションは'67年7月14日に行われた。
ちょうどその日にセブン本編の撮影が開始されたのだ。
既に配役されていたダンが隊員服姿で初日のロケから戻った時に
まだアンヌ役には決まってない私が恐る恐る隊員服に着替え、
例のポインターの前でダンとアンヌのツーショットの数々を撮ったのだ。

ゆえに・・
'67年7月14日~'68年8月8日撮影終了。
たった1年余りであの49本が制作されたのだ。
まさか誰も予測もできなかっただろう。
40年経った今を・・
リアルタイム世代だけでなく再放送世代やビデオ世代・DVD世代と
当時まだ誕生してなかったセブンファンも沢山いるのだ。

「アンヌ隊員」・・
という称号を頂いた私は何と云う運命なのだろう。
私の人生が決定付けられた・・と言っても過言ではない。

ウフフ・・ちょっと気張り過ぎだったかしら。
それにしても今年は40周年記念なる「フォトパネル」やら
これまた驚きの「アンヌ缶」なる缶コーヒーも発売されるのですとっ。
この不思議な巡り合わせ『身に余る光栄』の一言です。

確定申告受け付けスタート・・

2007年02月17日 11時31分11秒 | 地谷子のひとりごと
きのう所要で”納税証明書”の請求に税務署に行った。
それにしても人の往来が凄い。
「あっそうかっ、きょうから確定申告のスタートだった。」
いつも止められる署内の駐車場は使用禁止だし、
10分ほど離れた所にコインPを見つけやっと署に辿り着いた。
のにぃ~ガックリ、納税証明書の申請に書類不備があり再度出直しだ。

再び行った。
単に納税証明書と言っても複雑に分かれている。
「その1」「その2」「その3」「その3の2」「その3の3」「その4」
フ~~理解するのも大変だったが無事申請してしばらく待った。
場内を見渡すと確定申告をする人達でもうもう溢れ返っている。

待ってた場所が納税支払い会計窓口のすぐ脇だったのでしばらくウォッチ。
納税者のキャラはまちまちだ。
初老のご婦人は4000円払っておつりを貰い丁寧に頭を下げて帰った。
次のご婦人は8万幾ら払ってまたまた一礼して帰った。
次の男性は百万円の札束をおもむろに取り出し4-5束ドサッ!
ウワ~何でこんな高額を現金でっ?銀行引き落としにしたらイイのに。
・・と思ったが余計なお世話だ。その人なりの支払い意図があるのだろう。

それにしても次から次にこんな大変な思いして申告する人に頭が下がる。
ここ20年ちかく確定申告は会計事務所にお願いしているが、
私自身でやってたあの頃の煩わしさが懐かしく思い出された。

国も税金を大切に使ってもらいたいものだ。

ところで余計なコトかも知れないが
確定申告時期にイメージキャラクターっているでしょ。
最近ではパソコンで書類作成を勧めてる例のCM、
毎年活躍中の女優さんやタレントさんが起用されてるけど
あの方達って、無償のボランティアでやってるの?
まさかネェ、意外に高額なギャラ貰ってるのじゃないの?
もしそうだとしたら何処からギャラが出るのだろう?
やはり税金からしかないよねっ!?

きょうはバレンタインデー・・かっ

2007年02月14日 10時00分57秒 | 地谷子のひとりごと
昨日、新宿の伊○丹デパートまで車をとばし、
そこでしか入手できない一寸した小物を買いに出かけた。

連休明けの道路は思った程の混雑はなくスイスイで
我が家から30分足らずで駐車場に到着。
が、珍しく駐車場が混んでいて20分も待たされた。

5分程度で目的の商品を買い求め、
折角だから地下の食料品売り場でお惣菜でも買おう・・
と、エスカレーターを下ると・・な・なんじゃこりゃ!?
昼間から何でこんなに混んでるんだろう!?

あるコーナーは列がはみだして人が右往左往。
納得~!あしたはバレンタインデーなんだ。
私ゃそういう風習ないので無縁な光景だった。
せっかちな私は見ただけでイヤになりUターン。
駐車時間たった10分で帰路に就く。

と、言うコトで今日はバレンタインデーなのですね。

ウチの店も本場インド人のシェフが作る『チョコレートナン』
炭火のタンドールで焼いてます。美味しいですよ。
一度お試しあ~れ。

プラネットアース・・

2007年02月11日 22時35分34秒 | Weblog
NHK「プラネットアース」最終回を見た。
俳優の緒形拳さんが「しんかい6500」に乗って
深度1500mの海底撮影に挑む。

途中なんなんだかとっても幸せな気持ちになりました。
身体の力が抜けちゃって何ともいえぬ心地よい気分。
今まで力を入れて生きて来た自分は何だったのか?
・・と、
幸せ気分に浸っていたら見ながらうたた寝していました。
ウ~~ン、いま目が覚めた。

我が家は皆アナログ人間・・

2007年02月10日 22時44分05秒 | 地谷子のひとりごと
我が家にPC(パソコン)がやってきて早や十年。
ネットで自分のHPを見るためにと勧められたのが初めの一歩です。
あの頃はHPがあるのも珍しかった。
あの円谷プロよりもひし美ゆり子のHPは早かったのです。エッヘン

が、あれから10年・・気付いてみるとっ、
周りはドンドン進んでて、今や動画やら何やらと私は着いて行けません。

我が家の家族は誰一人PCにあまり興味を示しません。
8歳年下の夫は・・昔は私がキーボード打っている姿に、
『ウワ~ママ凄い!惚れ惚れするよ~』
と、おだてたのにぃ~、最近は・・
『またパソコンやっているのかっ』なのです。
未だに夫はPCに触ったコトさえありません。

息子は17歳、ふつうMYパソ欲しがる年齢なのに何故だか欲しがらないし
成人した娘二人も各々ノートパソあるのにあまり活用していません。

ウチの家族は皆アナログ人間なのでしょうか?
私以外はほとんど家には居ず、外で仕事に遊びにと跳び回っています。

かくいうこの私、PC先駆者でいるつもりでしたが、
ウ~~ン気が付きゃ、十年経っても何一つ進歩していません。
友人はPC駆使して音楽・デザイン・帳簿・年賀状・等々やっているのに、
私ゃ10年経ってもそれらの総て手作業のアナログ生活なのでした。トホホ

結局この10年、私自身はネットだけしか活用していませんでした。
所詮、私を筆頭にウチの家族はアナログ人間なのですねぇ。

「特撮ニュータイプ」にモノ申す・・

2007年02月05日 10時44分32秒 | アンヌのひとりごと
「特撮ニュータイプ」の
実相寺監督への追悼コメントの原文をここにあげたので
皆さんには解ってもらえると思いますが・・
何故に誤字を平気で載せてるの?
私が間違えたのじゃないのにぃ。理不尽だわ~。
校正とか校閲ってないの??

私の原文は『自信のない東宝の新人女優』と書いてるのに
紙面では『自身のない東宝の新人女優』と誤記されている。
まだある。
原文『今度固い話はヌキにしてお会いしましょう』
紙面『今後は固い話を抜きにしてお会いしましょう』
これじゃ今度一席設けましょう・・と言ってる意味が通らないじゃない。


まだ納得いかないところがあるっ。
Tプロの会長さんだけ特別にコメントが筆頭に掲載されていて
以下23人のコメントが五十音順になっている。
彼のコメントの内容は素晴らしいが、何故に特別扱い?
人間に差をつけてイイのか?
『たとえ宇宙人だろうと人間だろうとダンはダンに変りないじゃないの』
こんな名セリフを残した金城さんがきっと怒るよねぇ。
いやいや会長さんが悪い訳じゃないのですよ。


スミマセ~ン!
私って最近お歳のせいか?小言が多いかもしれないわね(笑)
最後に桜井さんのところの下りがカットされてたのは非常に残念だ。
書いた本人に許可無しに。。

原文はこう・・

2007年02月03日 22時47分34秒 | アンヌのひとりごと
きょう角川書店から『特撮ニュータイプ』が送られて来た。
えっ?何か取材を受けたっけ?
あっそうそう!そう言えば実相寺監督への追悼コメントを書いたんだった。
読むとかなりカットされていた。文字数の関係か?それとも・・??
折角書いたのに勿体ないから原文をここにあげますネ。
駄文だけど原文はこう・・↓↓↓

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『実相寺監督とアンヌの関係』
二十歳になったばかりの私はいつも自信のない東宝の新人女優だった。
「ウルトラセブン」の撮影が始まって3ヶ月ほど経った頃やっとレギュラ-陣とも慣れてきた。
そんな時に実相寺監督がメガホンをとることに決まった。フルハシ隊員曰く
「実相寺昭雄はすごいぞ~。すごい映像をとるぞ~、ウルトラマンの時だって・・・」
暗示にかかりやすい私は鬼才だとか映像の妙手だとかを小耳に挟むともうもうビビッてしまう。
女優という職業に成りきれなかったのは偉い人には弱いという私の悲しい性(さが)だ。

撮影が始まった。
すでに私は監督から逃げていた。口も利けないしいつも眼を反らしていた。
ちょうど私と年齢も差程変らない桜井浩子さんをゲストでお迎えした時だった。
「カントク~!衣装はこれでイイかしらっ。私が編んだセーターなんだけどっ。」
彼女が監督と対等にお話しできている状況を諸に見せつけられたという感じだった。
隠れながらも羨望の眼差しで見ていたから鮮明に憶えている。
性格の差なのか?自信の差なのか?キャリアの差なのか?
その後、彼女は映画等にも監督とのおつき合いは長く続いたらしい。

あれから35年ほど経った頃、実相寺監督とやっとお話出来る機会が来た。
アンヌ隊員を浮き彫りにしたDVDが作られる時だった。
前記のように実相寺監督から逃げていた私だったのに時が経つと勝手なもので
いつしか「私は実相寺監督に嫌われていた」・・と言うようになっていた。

その言葉に興味を持ったあるプロデューサーが真相を解き明かしたいと
『アンヌVS実相寺』対談が企画されたのだ。
「僕は君を嫌ってなんかいないよ。あなたが一方的に逃げていた」
「でも今の方がイイ感じになっているよ。今度固い話はヌキにしてお会いしましょう」

それから4年ほど経った。
やっと再会が叶ったのが「シルバー假面」のゼロ号の試写室ロビーだった。
目が合った瞬間、監督自ら手を差しのべて握手をして下さった。
「体調崩しちゃってねぇ。」
あの言葉は約束が叶えられなくてゴメンネといっているようだった。
奇しくもそれから9日後に天に召されていったのです。

セブン撮影後その2度しか会っていないけれど点と線で結べる単純明解な関係なのだ。

魔性の女 VS まっ正直な女・・

2007年02月02日 10時17分34秒 | アンヌのひとりごと
青森県住宅供給公社から14億円も横領したバカな職員に
莫大なカネを貢がしたこれまたバカ毒婦アニータとか云う女。
今や母国では祭り上げられたスターなのか?
テレビクルーを引き連れてまたお騒がせしてるけど、
何なんだ~!!
悪びれた様子もなく涼しい顔してよくも来れるよ。

母国チリの何かの番組の取材来日らしいけど、
日本のマスコミもバカだね~。あんな女に翻弄されて。
無視すりゃイイのに、向こうの思うツボじゃないかぁ。
まさに日本国の恥の上塗りだね。

チリに帰ったらバカ日本男児を生んだ国はこうだと・・
せせら笑われるに違いない。きっと視聴率も上がるだろうねっ。


昨日は一日家でデスクワーク。
稼業の帳簿付けやら税金の胸算用に悲観ぎみの私にとっちゃ、
側のテレビから流れるそのニュースを横目に、
あ~ぁ・・・アニータは「魔性の女」で、
かたやアンヌは「まっ正直な女」なのかっ。
シャレにならないけど、
女の立場を比べてひとり溜息をついていた私なのでした。