「セブン暗殺計画」(前後編)等をお書きになった脚本家・藤川桂介先生の喪中ハガキの文面があまりにも素晴らしいのでご紹介しちゃいます。
とうとう孤児になってしまった。
そんな気がしました。
心の支えであった母が、
百歳を超える天寿をまっとうして、
今春、鬼籍に入りました。
これからは、
思い出と共に生きる一人になりました。
いつも夕食時になると、
小説作法を熱っぽく語ってくれた父、
もの書きを目指して家を出る私に、
こっそりと、へそくりを渡してくれた母、
二つの灯りは、遠くなってしまいました。
新年を間近にしながら、
こんなご挨拶すること、ご容赦下さい。
あなたの新玉の年の豊穣を、
心からお祈りいたしております。
私にとっては、新たな旅立ちの時です。
どうか静かに、お見届け下さい。
平成二十五年師走
とうとう孤児になってしまった。
そんな気がしました。
心の支えであった母が、
百歳を超える天寿をまっとうして、
今春、鬼籍に入りました。
これからは、
思い出と共に生きる一人になりました。
いつも夕食時になると、
小説作法を熱っぽく語ってくれた父、
もの書きを目指して家を出る私に、
こっそりと、へそくりを渡してくれた母、
二つの灯りは、遠くなってしまいました。
新年を間近にしながら、
こんなご挨拶すること、ご容赦下さい。
あなたの新玉の年の豊穣を、
心からお祈りいたしております。
私にとっては、新たな旅立ちの時です。
どうか静かに、お見届け下さい。
平成二十五年師走
ともに過ごした日々を持つ近しい人が逝くことは、
築いた思い出が壊れてしまう気がするとともに、
「あの時、こうだったね」よか
「今だからきくけど、あの日どうだったの?」とか
過去を共有した人としか過ごせない未来もまた、
失ってしまうことなのですわぁ。
思い出は過去にあっても、
灯りは先を照らしてくれるものです。
本当にそうですね。
親にとって子供はいつまでも子供。
…私も今は介護施設に入っている末期ガンの父の世話をしております。
特殊な仕事の都合上、直接の世話は1週間に2度しかできないのではありますが。
先日そんな中、父が
「ありがとうな。お前がわしの息子で良かった。本当にありがとう」
と手を合わせて言ってくれました。
私も息子で良かったと思っていますし、今こうして残された時間に看取ることができることに有り難みを思っております。
アンヌさんも4年前、お母様を看取られたのでしたね。順繰り順繰りこうして時間を持てることは、つくづく有難いと噛み締めております。
来年も善い年でありますように…!
どうぞ、善いお年をお迎え下さい。
残った父が、今度は認知症になり、今は、私の事もわからず、施設で日々を送っています。
それでも、私の心の支えです。長生きしてほしいです。
ボクの方も今年の7月に父親の三回忌を迎えました。
(父親が亡くなった際は、こちらのブログで温かいコメントをいただきまして、深く感謝しております)
ボクの場合は社会人になって働き出してから、父親のことを尊敬できるようになりましたね。
(それまでは、あまり仲が良くなかったので…)
「オレも親孝行せなアカンなぁ…」と思い始めた矢先に逝ってしまったので、それがなんとも心残りで悔やまれますし、情けないことだなと思いました
また来年、墓参りに行こうと思います。
それでは、またです
藤川さんと張り合うつもりは毛頭ございませんが藤川さんの文面を拝読して今は警察の指示で止まっているFacebookで自分が今年3月に書いた文面を咄嗟に思い出したので長文ではございますが誠に勝手ながら引用させて頂きました。
(引用開始)
去る3月20日にお墓参りに行った川越の叔父は東日本大震災があった2011年に亡くなった後この地で眠っている。
叔父は父の末弟にあたり早くに両親(つまり自分の祖父と祖母)を亡くしたものの中学卒業後にホンダに入社、以後はホンダ一筋でアメリカや中国にも飛び回り自分たちにも初代シビックやS2000などのホンダ車に乗せてくれたり勤務先のアメリカや中国から珍しいお土産を持ってきたり自分の両親を沖縄やハワイへ連れて行ったり自分の体調の事を常に気遣ってくれたりと物静かだが非常に優しい人柄だった。
茨城県大洗町から埼玉県川越市周辺に移住したのもホンダに勤めてたからというのが理由の1つである。
自分と同じく石田家の後継の権利があったため原因不明の離婚はしたものの恋人ができた時は夫婦同然に付き合いつつ婿入りという結婚条件は断り続けていた。
そう言った意味でも叔父は石田家の重要な柱であった。
ホンダも無事、定年退職し後は恋人の故郷である西伊豆で安穏と送る生活が待っているはずだった。
その叔父が食道ガンになったという報が入ったのは2010年の団扇展の参加が決まった翌日の事だった。
アメリカで勤務してた頃から禁煙するなど健康的な生活を送っていた叔父だけに我が耳を疑った。
自分の母が看護婦なので病院を探し有明のがん研センターへ入院し大規模な手術が予定されていたが切除する事ができず放射線治療もできないという事で難航していた。
自分はその間、団扇展に没頭し、それが叔父のためになると思った。
叔父が2011年の年明けを乗り越えた後の3月11日に起こった東日本大震災で父と叔父が生まれ育った茨城県大洗町が被災し3月末にようやく現地の詳細な情報が入ってきたので4月3日の大洗行きの第一陣には病床の叔父の名代で叔父の長男(つまり自分の従兄弟)が同行する事となり自分もその方が良いと思い第一陣への同行は叔父の長男に譲った。
それからは更に大掛かりな治療を行っていた叔父だが2011年の秋のお彼岸の頃には一時的に体調が良くなり自分の両親と一緒にようやく大洗行きを果たす。
その頃には4月の頃と違って落ち着いてきてはいた大洗だが震災で粉砕したお墓などを見た叔父は果たして何を思ったのだろうか?
それは当人しか知る由もないが自分は叔父が被災した大洗へ行けた事に関して良かったとは思う、だって故郷なのだから。
それから2ヶ月ぐらい経った2011年11月に叔父は死去した、享年63歳。
皮肉にも自分の父と母の誕生日の間の日だった。
父の配慮で叔父の葬儀に自分と弟は参加しなかったが確実に言える事は叔父はガンの闘病と震災による故郷の被災で疲れてしまっていた、という事だった。
2011年の東日本大震災は闘病中だった叔父にダメージを与えた事は確かだった。
叔父が亡くなった事により石田家は、ほぼ自分の一家だけとなったのも同然になった。
そして2年後の今こうしてお墓参りがようやくできた。
今は静かに叔父は、この地で眠っている・・・。
(引用終了)
祖母と伯母夫婦に育てられた自分は両親が未だ健在ですが藤川さんの思いの込めた文面を拝読して亡くなった叔父と同じように大事にしてあげたい、親孝行したいと強く思うようになりました。
謹んでお悔やみ申し上げます。
そして更なるご発展がある事を祈っています。
ひし美さんも4年前にお母様を亡くされたとの事・・・さぞお辛かった事と存じ上げ奉りますが年末年始はつつがなくお迎え下さい。
なお長文と私信というニュアンスに近いコメントですので反映されなくても構いません。
ブログで繋がりを持たせていただいて
いるだけでもホント奇跡に感じております(^^)
いつだったかのアジタイイベントで
次女様とちらっとお話しさせていただいたことが
ありまして・・
こんなに熱心なファンをつないでいるお母さんって
凄いですね?って話しかけましたところ、
ゆっくり頷きながら
「はい。有難いことだと思います!大事にします!!」
っと静かながらもしっかりとおっしゃってました(^^)
素敵な娘様だなーと感心したのを覚えています♪
もう十分に伝わっているとは思いますが、
まだまだこれからも、ということで、
益々元気&素敵に輝いてくださいね!!
いつもコメント有り難うございます。
私も4年前に母を亡くしました。
親の有り難みって、居なくなってから、じわじわ思うものですね。
私も子供達にそう思われるよう頑張ります!
親と子の関係は
子が孫を持つような歳になっても不変なんだと・・
いてくれるのがなんとなく当たり前な存在である親、
頭では分かっていても別れの時がくることを認めたく
ない気持ちってありますよね。
謹んでお悔やみ申し上げます・・
と共に
新たな旅立ちのご多幸をお祈り申し上げます。
ゆり子さんも年末年始、お体大切に
素敵な新年をお迎えくださいね♪