世間で広く評価されているものより、自分が好きだと思えるものの方が優れていると感じることはありませんか?
私にとって、ハイドン Franz Joseph Haydn(1732-1809)はそんな作曲家です。
ハイドンは18世紀オーストリアの作曲家です。ボヘミアやハンガリーの宮廷楽長として、室内楽や交響曲、鍵盤楽器のための曲、オペラやオラトリオ等の声楽曲など、沢山の作品を残しました。
私はたまに、オーケストラや室内楽でハイドンの作品を演奏する好運に恵まれるのですが、実際に演奏してみて、モーツアルトやベートーヴェンよりもハイドンの作品に魅力を感じることが多いのです。
もちろん、モーツアルトやベートーヴェンの作品にもそれぞれ魅力はありますし、その他の作曲家の作品もそうです。
にもかかわらず、どうも一般的にクラシック音楽の代表といえばモーツアルト、ベートーヴェンという傾向にあるように私には感じられます。
クラシック音楽に興味のない人にはどうでもいいことかもしれませんが、仮に、自分が応援しているバンドによく似てはいても、自分は全く違うと思っている他のバンドばかりがテレビ番組で取り上げられていたり、お店に行っても、そのバンドの曲がやたらとかかっていたりしたら、きっと、自分が応援しているバンドの方が数倍良いのに…と思うのではないでしょうか。
人の好みは様々です。金子みすずさんの詩は本当に心理を語っています。
『みんなちがって、みんないい。』のです。
さて、音楽に優劣をつけるとしたら、どのような方法があるでしょうか。
実際、音楽のコンクールでは審査員のつける点数によって良し悪しが決定されます。
しかし、果たして、本当にその方法で音楽を評価できるのでしょうか?
確かに、ある程度の判断基準は作れると思います。
例えば、正しい音程で弾けているか、リズムは間違っていないかという点について。
しかし、その演奏がどれくらい「音楽的か」という点については、審査員の音楽経験による感覚に判断が任されており、明確な判断基準が決まっていないのが現状です。
つまり、フィギュアスケートのように、どんなジャンプを何回跳んで、決められたステップや回転を決められた基準を満たすように滑れば良いという、分かりやすい決まりがないのです。
そして、フィギュア界で時折問題になるように、演技の出来とは関係ない、何らかの外的要因による加点、減点が音楽のコンクールでもひっそりと噂されることもあります。
(事の真偽は分かりかねますが…)
このように、実質的に限りなく曖昧な判断によって受賞したものでも、世間的にはたいしたものだと一目置かれますし、なにより音楽人生のキャリアとして、プロフィールに書き加えることができるという利点があります。
受賞歴があるかないかということは、演奏家の優劣を決める根拠の一つになるのは間違いありません。
今回、【本の林】で取り上げた《ユダヤ人音楽家 ―その受難と栄光》牛山剛(1991 ミルトス)の中で、メンデルスゾーンについてのワーグナーの記述が紹介されています。
【本の林】第八冊《ユダヤ人音楽家 ―その受難と栄光》牛山剛(1991 ミルトス)
※コチラをクリックして動画が再生されない場合は、「本の林」で動画検索をお願いします。
ワーグナーは1850年に、「音楽におけるユダヤ主義」という論文を書き、ユダヤ人には自己の言語がないことを根拠に、他人の言語を使って創造ではなく真似をしているだけだと主張したのです。
メンデルスゾーンが優れた音楽家であり、ドイツの音楽文化に多大な貢献をしたことは言うまでもないことですが、ワーグナーが書いたこの論文は、ヨーロッパでの反ユダヤ主義を増長させ、後にナチス党によるユダヤ人排斥を正当化する材料になりました。
メンデルスゾーンの曲は一切演奏されなくなり、音楽の教科書から名前が消され、楽譜の出版も禁止されてしまいました。
ここでの問題は、メンデルスゾーンの作品の優劣を、彼がユダヤ人であることで判断していることにあります。
この判断が、冷静に考えれば間違っていることが一目瞭然であるにも関わらず、1945年にナチス政権が崩壊するまで、誰もこれをやめようと主張されることなく、メンデルスゾーンがドイツの音楽史から抹殺され続けたという事実を考えると、当時の社会、そこに生きていた人々の狂気のようなものを感じます。
音楽は平和の象徴であり、人を傷つけることはないと考えていたのですが、人間が関わる全ての現象には、もちろん人の悪意をも反映されるのだと思わざるを得ません。
TwitterやFacebookなどのSNSでは、現実の人間関係で起こる不都合で不愉快なことはないと思いがちかもしれませんが、使用しているのが人間である限り、面倒なこと、煩わしいことはついて回るのです。
音楽も人から生まれ、人が関わって育っていきます。
圧倒的大多数の支持を受けているものが、必ずしも最善のものとは限りません。
大切なことは、自分の本音を無視しないことです。
他の人がダメだと言っても、自分が良いと思うなら、それは良いものなのです。
友達と好きなものが違ってもいいのです。
『みんなちがって、みんないい。』のですから。
私にとって、ハイドン Franz Joseph Haydn(1732-1809)はそんな作曲家です。
ハイドンは18世紀オーストリアの作曲家です。ボヘミアやハンガリーの宮廷楽長として、室内楽や交響曲、鍵盤楽器のための曲、オペラやオラトリオ等の声楽曲など、沢山の作品を残しました。
私はたまに、オーケストラや室内楽でハイドンの作品を演奏する好運に恵まれるのですが、実際に演奏してみて、モーツアルトやベートーヴェンよりもハイドンの作品に魅力を感じることが多いのです。
もちろん、モーツアルトやベートーヴェンの作品にもそれぞれ魅力はありますし、その他の作曲家の作品もそうです。
にもかかわらず、どうも一般的にクラシック音楽の代表といえばモーツアルト、ベートーヴェンという傾向にあるように私には感じられます。
クラシック音楽に興味のない人にはどうでもいいことかもしれませんが、仮に、自分が応援しているバンドによく似てはいても、自分は全く違うと思っている他のバンドばかりがテレビ番組で取り上げられていたり、お店に行っても、そのバンドの曲がやたらとかかっていたりしたら、きっと、自分が応援しているバンドの方が数倍良いのに…と思うのではないでしょうか。
人の好みは様々です。金子みすずさんの詩は本当に心理を語っています。
『みんなちがって、みんないい。』のです。
さて、音楽に優劣をつけるとしたら、どのような方法があるでしょうか。
実際、音楽のコンクールでは審査員のつける点数によって良し悪しが決定されます。
しかし、果たして、本当にその方法で音楽を評価できるのでしょうか?
確かに、ある程度の判断基準は作れると思います。
例えば、正しい音程で弾けているか、リズムは間違っていないかという点について。
しかし、その演奏がどれくらい「音楽的か」という点については、審査員の音楽経験による感覚に判断が任されており、明確な判断基準が決まっていないのが現状です。
つまり、フィギュアスケートのように、どんなジャンプを何回跳んで、決められたステップや回転を決められた基準を満たすように滑れば良いという、分かりやすい決まりがないのです。
そして、フィギュア界で時折問題になるように、演技の出来とは関係ない、何らかの外的要因による加点、減点が音楽のコンクールでもひっそりと噂されることもあります。
(事の真偽は分かりかねますが…)
このように、実質的に限りなく曖昧な判断によって受賞したものでも、世間的にはたいしたものだと一目置かれますし、なにより音楽人生のキャリアとして、プロフィールに書き加えることができるという利点があります。
受賞歴があるかないかということは、演奏家の優劣を決める根拠の一つになるのは間違いありません。
今回、【本の林】で取り上げた《ユダヤ人音楽家 ―その受難と栄光》牛山剛(1991 ミルトス)の中で、メンデルスゾーンについてのワーグナーの記述が紹介されています。
【本の林】第八冊《ユダヤ人音楽家 ―その受難と栄光》牛山剛(1991 ミルトス)
※コチラをクリックして動画が再生されない場合は、「本の林」で動画検索をお願いします。
ワーグナーは1850年に、「音楽におけるユダヤ主義」という論文を書き、ユダヤ人には自己の言語がないことを根拠に、他人の言語を使って創造ではなく真似をしているだけだと主張したのです。
メンデルスゾーンが優れた音楽家であり、ドイツの音楽文化に多大な貢献をしたことは言うまでもないことですが、ワーグナーが書いたこの論文は、ヨーロッパでの反ユダヤ主義を増長させ、後にナチス党によるユダヤ人排斥を正当化する材料になりました。
メンデルスゾーンの曲は一切演奏されなくなり、音楽の教科書から名前が消され、楽譜の出版も禁止されてしまいました。
ここでの問題は、メンデルスゾーンの作品の優劣を、彼がユダヤ人であることで判断していることにあります。
この判断が、冷静に考えれば間違っていることが一目瞭然であるにも関わらず、1945年にナチス政権が崩壊するまで、誰もこれをやめようと主張されることなく、メンデルスゾーンがドイツの音楽史から抹殺され続けたという事実を考えると、当時の社会、そこに生きていた人々の狂気のようなものを感じます。
音楽は平和の象徴であり、人を傷つけることはないと考えていたのですが、人間が関わる全ての現象には、もちろん人の悪意をも反映されるのだと思わざるを得ません。
TwitterやFacebookなどのSNSでは、現実の人間関係で起こる不都合で不愉快なことはないと思いがちかもしれませんが、使用しているのが人間である限り、面倒なこと、煩わしいことはついて回るのです。
音楽も人から生まれ、人が関わって育っていきます。
圧倒的大多数の支持を受けているものが、必ずしも最善のものとは限りません。
大切なことは、自分の本音を無視しないことです。
他の人がダメだと言っても、自分が良いと思うなら、それは良いものなのです。
友達と好きなものが違ってもいいのです。
『みんなちがって、みんないい。』のですから。
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