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言葉溢れる情報社会の悩み【動画紹介】ヒトコトリのコトノハ vol.83

2024年12月20日 | 動画紹介
☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
 ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!

 ●本日のコトノハ●
  人間の本性には限界というものがある。喜びにしろ、悲しみにしろ、苦しみにしろ、ある限度までは我慢がなるが、
  そいつを越えると人間はたちまち破滅してしまう。だからこの場合は強いか弱いかが問題じゃなくて、
  自分の苦しみの限度を持ちこたえることができるかどうかが問題なのだ。―精神的にせよ、肉体的にせよだ。
  だからぼくは自殺する人を卑怯だというのは、悪性の熱病で死ぬ人を卑怯だというのと同じように
  少々おかしかろうっていうんだ。

 『若きウェルテルの悩み』ゲーテ著/竹内道雄訳(1951)新潮社より


 『若きウェルテルの悩み』はドイツの文学者ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテによる著作で、発行当時から大人気となった作品です。
 一説には、ナポレオンが愛読書として常にこの作品を肌身離さず持って歩いたといいます。一時はヨーロッパに皇帝として君臨し、世の中を混沌へと導いた修羅の人といっても過言ではないナポレオンと、ウェルテルの恋物語の共通点はあまりなさそうに思えるのですが、意外と人妻との道ならぬ恋に憧れでもあったのでしょうか。
 こればかりは、ナポレオンに直接聞いてみなければ真相は分かりません。

 ところで、この小説の人気及び影響力は凄まじいもので、中には主人公ウェルテルと同じ服装をして自殺をする青年まで現れたとか。
 ゲーテ自身、自分の作品が自殺を推奨するような役割を演じてしまったことに、誰よりもショックを受けたことでしょう。
 文学作品の中に見られる「自殺」や「死」が、現実世界ではしばしば美化されてしまうようです。
 日本の戦国時代や江戸時代の「切腹」という武士階級におけるけじめのつけ方が、外国の人から見れば「ハラキリ」という少々パフォーマンスじみた儀式と捉えられてしまうようなものかもしれません。

 武士は必ず「切腹」をするわけではありませんし、そこに何らかの美学があるわけでもありません。(あるとすれば、後付けの美学です。)
 今で言えば、死刑判決を自分で執行しているだけにすぎませんし、死刑を廃止しようという傾向にある中では野蛮な行為だと思う人もいるでしょう。
 ゲーテは確かに、ウェルテルの口を通して「自殺した人を責めてはいけない」というようなことを主張しましたが、それは自殺を肯定するものでも、推進するものでもありませんでした。

 世の中のある事象について、はっきりNo!と言わないのなら、それはYes!であり、More!であると考える人がいます。
 それは物事を白黒つける以上に、勝手に自分の考えを他人の考えの上に着色しているようなものです。
 相手の意見を正しく受け取らず、そればかりか自分ではなく他人の意見として都合よく捻じ曲げた主張をふりかざすなど、なんと卑怯で卑劣な行為でしょうか。

 言葉は一度発信されると、発信者の意図とは関係なく理解され、引用されてしまうものです。
 ゲーテは『ウェルテル』を自殺者の罪悪感を軽減するために書いたわけでは決してなかったでしょう。
 ゲーテは自殺が許される条件を提示さたのではなく、自殺者を出してしまうような社会の問題点を描きたかったのではないでしょうか。
 この作品のタイトルは『若きウェルテルの悩み』ですが、決して『恋の悩み』とは書いていないのです。

 確かに、想い人に気持ちが届かなかったことが、ウェルテルに自死を決意させた要因の一つであることは間違いないと思います。
 一方で、もしこのウェルテルという青年が社会的に認められ、安定した地位を築くことができていたなら、失恋を理由に自ら死を選ぶという精神状態になったでしょうか。
 自分が受け入れられたいと願う集団から拒絶され、社会の中でどこにも自分の根付く場所がない、存在していて良いのだという確信が得られない、身も心も不安定であり、どこにも誰にも受け入れてもらえないという孤独と、それを解消できる希望が見つけられないという絶望の中で、最も心を通わせたいと思う相手とも良好な関係を築くことができない。
 「恋がダメなら、仕事に打ち込めばいいさ」という逃げの手段が、ウェルテルには用意されていないのです。

 ウェルテルは社会から「締め出し」をくらったと感じたことでしょう。
 自分が「つながる」場所がない、自分と「つながる」人間がいないことが、人を孤独にし、絶望させてしまうのは現代社会にも言えることだと思います。
 失業したり、無職でいる経験があれば、誰でも似たような思いを感じたことがあるかもしれません。
 ただ、ウェルテルの時代と違って、今は一人でも楽しめる娯楽が沢山あるので、そういった孤独や挫折から逃げることができます。
 (現実は変わりませんが...)

 どんな生き方が正しいか決められているわけではないのと同様、どんな死に方が良いとかいうことも決まっていません。
 にもかかわらず、当事者ではない全くの他人が、誰かの生き方や死に方に難癖をつけるのは、ゲーテの時代も現代もさほど変わりはありません。
 ITだ、情報社会だ、AI革命だなんて、さも人類は進化しているような錯覚、あるいは幻想を見ているようですが、人間の本質は何世紀過ぎようと相変わらず未熟で愚かなままなのです。
 (人類が進化していると言うのならば、戦争も犯罪もなくなっているはずだと私は思うのですが、実際どうなのでしょうか。)

 宗教的な視点からすれば、キリスト教では自殺した者の魂は救済されないと言われていますが、仏教においてはあまり拘りがないようです。
 死んだ後も自分の姿形を残して仏となる「即身仏」という概念がある位ですし、すべての生命が輪廻転生のサイクルの中で新しく生まれ変わると信じられており、そこで自ら死を選んだかどうかはあまり問題にされていないようです。(宗派によっていろいろあるようですが)

 だからといって、仏教が自殺を容認しているとか、推奨していると考えるのは間違いです。
 ゲーテも仏教もそんなことは一言も言っていません。
 それらの言葉を勝手に曲解し、自分に都合のよい解釈を上乗せして吹聴しまくる輩がいつの時代もいるものです。

 そんな卑怯者の言葉に踊らされて、自分もまた誰かを傷つけてしまわぬよう、社会に出回る情報や言葉の扱いには気をつけようと思います。



ヒトコトリのコトノハ vol.83


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