☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
だが私に言わせれば、ヴァイオリンという楽器の弾き比べをして性能を競わせ、判定するという行為が無意味である。
何故なら、一つの楽器を自分の音楽的意志と一体化させるという作業には、厖大な年月と、弾き手の努力が必要だからである。
『ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢』中野雄著(2017)文藝春秋より
実際に体験してみないと分からないことがあります。
そして、体験したとしても分からない人もいます。
私の拙い経験の中で、何かを体験することでそれ以前とは考えを変える人と、まったく考えを変えようとしない人の、どちらのタイプも存在するということを学びました。
どちらが良いとか、正しいということではなく、人間とはそういう生き物なのだと自分自身を納得させるようにしています。
私は音楽教室でバイオリンを教えているのですが、教室にやってくる生徒さんたちは、一人一人レッスンへの取り組み方が異なります。
テキストを忠実に練習する人がいれば、テキストなどは必要ないと、自分の弾きたい曲だけを弾く人もいます。
また、講師である私の言葉に耳を傾けて、その通り実践してくれる人もいれば、私の話などはなから聞かず好き放題に弾いて帰る人もいます。
リズムや音の高さを正しく弾こうとする人もいますし、反対に何一つ正しくないやり方で音を出して満足する人もいます。
テキストをちゃんと読んで、内容を理解し、私の言葉を聞き流すことなく、自らの奏法に活かそうとする人は時間はかかっても確実に上手に弾けるようになりますが、テキストを無視し、自分の好きなように弾く人は、何年経っても一曲もまともに弾けるようにはなりません。
それでも、それがその人の楽しみ方なのだと納得するようにしています。
私がバイオリンを習い始めた30~40年前は、先生の言うことは絶対で、レッスン中に自由気ままな言動をすることなど考えられない蛮行でしたが、今の時代、弾きたがらない子供に無理矢理やらせることは虐待だと言われかねません。
つまり、体験の仕方も今や人それぞれであり、それが許されているのです。
そのような価値観の中で、バイオリンの音色の弾き比べをして何の意味があるのでしょう?
バイオリンの歴史の中で、先人たちが伝え残してくれている弾き方でさえ、「自己流」や「個性」という免罪符を掲げて無視しようとする現代の風潮では、バイオリンが持つ本質的な響きを見極めようと思う人は皆無に等しいのではないでしょうか。
世間一般では正しいやり方よりも、「バイオリン」という楽器によって連想されるブランドイメージばかりが求められているのかもしれません。
「厖大な年月と、弾き手の努力」によって奏でられる楽器の音色が理解される日は訪れるのでしょうか。
私にはとうてい想像もできません。
ヒトコトリのコトノハ vol.28
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だが私に言わせれば、ヴァイオリンという楽器の弾き比べをして性能を競わせ、判定するという行為が無意味である。
何故なら、一つの楽器を自分の音楽的意志と一体化させるという作業には、厖大な年月と、弾き手の努力が必要だからである。
『ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢』中野雄著(2017)文藝春秋より
実際に体験してみないと分からないことがあります。
そして、体験したとしても分からない人もいます。
私の拙い経験の中で、何かを体験することでそれ以前とは考えを変える人と、まったく考えを変えようとしない人の、どちらのタイプも存在するということを学びました。
どちらが良いとか、正しいということではなく、人間とはそういう生き物なのだと自分自身を納得させるようにしています。
私は音楽教室でバイオリンを教えているのですが、教室にやってくる生徒さんたちは、一人一人レッスンへの取り組み方が異なります。
テキストを忠実に練習する人がいれば、テキストなどは必要ないと、自分の弾きたい曲だけを弾く人もいます。
また、講師である私の言葉に耳を傾けて、その通り実践してくれる人もいれば、私の話などはなから聞かず好き放題に弾いて帰る人もいます。
リズムや音の高さを正しく弾こうとする人もいますし、反対に何一つ正しくないやり方で音を出して満足する人もいます。
テキストをちゃんと読んで、内容を理解し、私の言葉を聞き流すことなく、自らの奏法に活かそうとする人は時間はかかっても確実に上手に弾けるようになりますが、テキストを無視し、自分の好きなように弾く人は、何年経っても一曲もまともに弾けるようにはなりません。
それでも、それがその人の楽しみ方なのだと納得するようにしています。
私がバイオリンを習い始めた30~40年前は、先生の言うことは絶対で、レッスン中に自由気ままな言動をすることなど考えられない蛮行でしたが、今の時代、弾きたがらない子供に無理矢理やらせることは虐待だと言われかねません。
つまり、体験の仕方も今や人それぞれであり、それが許されているのです。
そのような価値観の中で、バイオリンの音色の弾き比べをして何の意味があるのでしょう?
バイオリンの歴史の中で、先人たちが伝え残してくれている弾き方でさえ、「自己流」や「個性」という免罪符を掲げて無視しようとする現代の風潮では、バイオリンが持つ本質的な響きを見極めようと思う人は皆無に等しいのではないでしょうか。
世間一般では正しいやり方よりも、「バイオリン」という楽器によって連想されるブランドイメージばかりが求められているのかもしれません。
「厖大な年月と、弾き手の努力」によって奏でられる楽器の音色が理解される日は訪れるのでしょうか。
私にはとうてい想像もできません。
ヒトコトリのコトノハ vol.28
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