☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
カモシカは夏、沢すじに出現し、ミズを好んで食べる。茎の上半分を刈りとるように食べ、根っこを残す。
資源を食いつぶさない。動物はすべて植物に依存して生きている。植物(生態系の生産者)を破壊しない
ことが動物(消費者)の生活の基本ルールなのである。
ミズは山菜として売れる。それで最近、ミズを根こそぎ採っていく人があらわれた。こんな採りかたを
三、四年もつづけると、その谷からミズは消えてしまう。人間の行動を見ていると、なにごとにも
その場かぎりである。野生動物はすべて、資源を消費しつくさないような行動をしているのに、知能の
発達したヒトが、将来のことを考えない、その場かぎりの行動をとるのはどうしてだろうか。
『ブナの森を楽しむ』西口親雄(1996)岩波書店より
時々、ふと疑問に思うことがあります。人は進化しているのだろうか?と。
確かに、昔と比べるといろいろと便利になり、暮らし方も、物の考え方も、政治や経済といった国の在り様までもが変化しているとは思います。
しかし、それはあくまでも「変化」であって、必ずしも「進化」とは言えないのではないかと疑いたくなることが、現代社会には多くあります。
そもそも、「進化」とはどういう状態を言うのでしょうか。
私には、現状での問題が解消され、誰もが幸せに暮らせることが「進化」なのではないかと思えます。
オール電化とか、自動運転とか、先進的だと考えられる技術は、反面、人間の運動能力を低下させたり、注意力や反射神経を鈍らせる原因になっているのかもしれません。
ずい分前のことですが、洋式トイレが主流になってしばらく経った頃、しゃがんだり、立ったりする運動が苦手な子供が増えていると話題になったことがありました。
これも生活習慣の変化が、足腰の筋肉や関節の成長に影響を及ぼした例の一つと言えるのではないでしょうか。
話を戻します。人間にとって、本質的な意味での「進化」とは人間自身が愚かな行動をしなくなることだと思うのですが、現状、人と人とが殺し合う紛争やテロなどは相変わらず地球のどこかでは起こっていますし、選ばれる人と選ばれない人がいるという不公平な仕組みが依然として残っています。
不公平は人々の不満の種となりますし、不満があればいずれは争いが起こります。人間は歴史の中で、この図式を幾度となく繰り返していますし、争いが生む悲劇を十分知り尽くしているにもかかわらず、一向にこの問題が解消されることはありません。
同じことの繰り返しでは、もはや「進化」どころか「変化」もしていないのが人間の本質なのではないかと思えてきます。
悪知恵ばかりが働いて、目の前にある恩恵に感謝もせず、そんな態度を反省もできない、ただの野蛮人にすぎないのかもしれません。
このことに気がついている人もいれば、考えもしない人もいると思います。
さらには、自らの幸福さえ確保できればそれでいいと思っている人もいるでしょう。人の考えは十人十色です。
生態系を破壊しないように慎重に生活する人もいれば、目先の利益だけを考え、貴重な種を根絶やしにする人もいるのです。
それが昔から変わらない人類の姿なのだと思います。
今、地球上で人類が絶滅していないのは、様々な偶然や必然が複雑に作用しながら、奇跡のバランスを保っているからにすぎないからだと感じます。
何か確証があるわけではありませんが、いつか、そのバランスがふとした瞬間に崩れ、その時までに人間たちがしてきた行いの積み重ねによって、まるでドミノ倒しのようにあれよあれよという間に滅んでしまうかもしれない。そんな危うさは十分に孕んでいる世界を生きているという気がします。
かといって、そんな現状を変えられるような打開策が思い浮かぶほど、私は優秀ではありません。
また、人間が良かれと思ってしたことが、かえって地球環境に悪影響を及ぼしてしまった例が今までになかったわけではないのです。
自分一人が日々を生きることで手一杯の私には、それを単純に「人間の浅知恵」と非難することはできません。
仮に今、人類が滅亡に向かっているとしても、滅びるままに任せるしかない運命なのかもしれません。
とりあえず、ゴミの分別をちゃんとしようと思います。
ヒトコトリのコトノハ vol.52
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●本日のコトノハ●
カモシカは夏、沢すじに出現し、ミズを好んで食べる。茎の上半分を刈りとるように食べ、根っこを残す。
資源を食いつぶさない。動物はすべて植物に依存して生きている。植物(生態系の生産者)を破壊しない
ことが動物(消費者)の生活の基本ルールなのである。
ミズは山菜として売れる。それで最近、ミズを根こそぎ採っていく人があらわれた。こんな採りかたを
三、四年もつづけると、その谷からミズは消えてしまう。人間の行動を見ていると、なにごとにも
その場かぎりである。野生動物はすべて、資源を消費しつくさないような行動をしているのに、知能の
発達したヒトが、将来のことを考えない、その場かぎりの行動をとるのはどうしてだろうか。
『ブナの森を楽しむ』西口親雄(1996)岩波書店より
時々、ふと疑問に思うことがあります。人は進化しているのだろうか?と。
確かに、昔と比べるといろいろと便利になり、暮らし方も、物の考え方も、政治や経済といった国の在り様までもが変化しているとは思います。
しかし、それはあくまでも「変化」であって、必ずしも「進化」とは言えないのではないかと疑いたくなることが、現代社会には多くあります。
そもそも、「進化」とはどういう状態を言うのでしょうか。
私には、現状での問題が解消され、誰もが幸せに暮らせることが「進化」なのではないかと思えます。
オール電化とか、自動運転とか、先進的だと考えられる技術は、反面、人間の運動能力を低下させたり、注意力や反射神経を鈍らせる原因になっているのかもしれません。
ずい分前のことですが、洋式トイレが主流になってしばらく経った頃、しゃがんだり、立ったりする運動が苦手な子供が増えていると話題になったことがありました。
これも生活習慣の変化が、足腰の筋肉や関節の成長に影響を及ぼした例の一つと言えるのではないでしょうか。
話を戻します。人間にとって、本質的な意味での「進化」とは人間自身が愚かな行動をしなくなることだと思うのですが、現状、人と人とが殺し合う紛争やテロなどは相変わらず地球のどこかでは起こっていますし、選ばれる人と選ばれない人がいるという不公平な仕組みが依然として残っています。
不公平は人々の不満の種となりますし、不満があればいずれは争いが起こります。人間は歴史の中で、この図式を幾度となく繰り返していますし、争いが生む悲劇を十分知り尽くしているにもかかわらず、一向にこの問題が解消されることはありません。
同じことの繰り返しでは、もはや「進化」どころか「変化」もしていないのが人間の本質なのではないかと思えてきます。
悪知恵ばかりが働いて、目の前にある恩恵に感謝もせず、そんな態度を反省もできない、ただの野蛮人にすぎないのかもしれません。
このことに気がついている人もいれば、考えもしない人もいると思います。
さらには、自らの幸福さえ確保できればそれでいいと思っている人もいるでしょう。人の考えは十人十色です。
生態系を破壊しないように慎重に生活する人もいれば、目先の利益だけを考え、貴重な種を根絶やしにする人もいるのです。
それが昔から変わらない人類の姿なのだと思います。
今、地球上で人類が絶滅していないのは、様々な偶然や必然が複雑に作用しながら、奇跡のバランスを保っているからにすぎないからだと感じます。
何か確証があるわけではありませんが、いつか、そのバランスがふとした瞬間に崩れ、その時までに人間たちがしてきた行いの積み重ねによって、まるでドミノ倒しのようにあれよあれよという間に滅んでしまうかもしれない。そんな危うさは十分に孕んでいる世界を生きているという気がします。
かといって、そんな現状を変えられるような打開策が思い浮かぶほど、私は優秀ではありません。
また、人間が良かれと思ってしたことが、かえって地球環境に悪影響を及ぼしてしまった例が今までになかったわけではないのです。
自分一人が日々を生きることで手一杯の私には、それを単純に「人間の浅知恵」と非難することはできません。
仮に今、人類が滅亡に向かっているとしても、滅びるままに任せるしかない運命なのかもしれません。
とりあえず、ゴミの分別をちゃんとしようと思います。
ヒトコトリのコトノハ vol.52
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