☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
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●本日のコトノハ●
少年の日の孤独。それをもっともみごとに描いたのは、小説『車輪の下』であろうが、その中で彼が描いたのは、
管理制度が進むにつれて、人間の価値を問わぬ進学のための勉学を強制する社会への、孤独な少年のむなしく悲しい
反抗であった。現代文学はこの作品ではじめて学校批判と少年の日の孤独とを結びつけたと言っていい。
それは画一的な教育への激越な批判をなしたニーチェの影響も受けているだろう。そしてその批判は、現在の
日本の教育にも充分すぎるほどあてはまるのではないだろうか。
『愛と孤独の作家たち』小塩節(1977)主婦の友社より
私は保育園から市立の小学校、中学校、県立の高校へ進学し、大学は私立の四大に入り、そのまま大学院に進み、29歳まで学生を経験しました。
大学院に進学したのは、学士号取得の時点で、世間的に就職難であったこと、そして音楽という特殊な分野を専攻していたことで、普通に生活が安定するような仕事に就くことができないだろうと思われたからです。
そして、自身は高卒が最終学歴であった母の「高度な教育を受けて欲しい」という望みもありました。
当時の母は、「高学歴ワーキングプア」という言葉を知らなかったであろうし、音楽大学を卒業した人間が一般の就活では不利な立場に立たされることも分かっていなかったと思います。
東京大空襲を5歳で経験した母の世代では、高校を卒業していることも十分評価されることではないかと、私は思っていました。
さらに、母は高校卒業後、知り合いのツテで大手乳業会社の工場に採用され、高校を卒業しているということで、工場のラインから検査室に配置換えになり、最終的には東京の本社勤めとなりました。
それから、父と出会い結婚したのですが、まだ職業の定まっていなかった父の代わりに、会社勤めの母の社会的信用度があったおかげで住居の契約などが滞ることなくできたという話を母から聞いたことがあります。(ちなみに、父も高卒です。)
学歴や職業は、社会を生きる中ではある程度重要な意味を持ちます。
大抵の人は、その人がどんな身分でどんな人間であるかということを、この2つの情報によって判断するでしょう。
ですから、学生が抱きがちな疑問「なんのために勉強をするのか」というものに答えるとするなら、「社会の中で自分にとってなるべく優位になるような地位と信用を築くため」と答えることができるかもしれません。
もちろん、答えは一つではありませんし、この答えは間違いだと言いたい人もいると思います。
現に、私自身は自分がしてきた勉強が、優位な地位と信用を築くことに繋がっていないのですが、それでも、だいたいこの答えで合っていると考えています。
いくら教育制度が批判されようとも、社会の仕組みが学歴を必要としている以上、人々はそれに合わせて勉強をし、より良い大学を受験し、より良い成績で卒業しなければいけません。
それが悪いことだと言うのならば、いったい、どんなふうに変えるべきなのか、それによって社会の仕組みはどうなっていくのか、果たしてそれは無理なく持続可能なことなのか、そして、将来的に社会やそこに暮らす人々にどんな影響が出てくるのかということまで考えられなければいけないのだと思います。
時代の移り変わりと共に、日本の社会は変化し続けています。
大人になっても新しく勉強しなくてはいけないことは沢山あります。
そして、決して変わらないものがこの世に存在しないのと同様、私たち自身の好みや興味も、どんどん変わっていくのです。
学生の時は全く関心のなかったことを、知りたくて堪らなくなる時が来ないとも限りません。
「社会を生きるために学歴が必要だ」という考えだけに囚われず、「自分の人生を豊かにするための勉強だ」と思ってみるのもいいかもしれません。
お金は使えばなくなりますが、一度身につけた知識はいくら使っても減りませんしね。
「勉強ができる」ということは、テストの点数や成績が良いということではないと思います。
何歳になっても、新しい知識や技術について知ろうとしたり、自分の考えとは違う価値観や世界に対して、心を開くことが出来るとまではいかないものの、ある程度の理解を示すことができるということなのではないでしょうか。
ヒトコトリのコトノハ vol.55
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●本日のコトノハ●
少年の日の孤独。それをもっともみごとに描いたのは、小説『車輪の下』であろうが、その中で彼が描いたのは、
管理制度が進むにつれて、人間の価値を問わぬ進学のための勉学を強制する社会への、孤独な少年のむなしく悲しい
反抗であった。現代文学はこの作品ではじめて学校批判と少年の日の孤独とを結びつけたと言っていい。
それは画一的な教育への激越な批判をなしたニーチェの影響も受けているだろう。そしてその批判は、現在の
日本の教育にも充分すぎるほどあてはまるのではないだろうか。
『愛と孤独の作家たち』小塩節(1977)主婦の友社より
私は保育園から市立の小学校、中学校、県立の高校へ進学し、大学は私立の四大に入り、そのまま大学院に進み、29歳まで学生を経験しました。
大学院に進学したのは、学士号取得の時点で、世間的に就職難であったこと、そして音楽という特殊な分野を専攻していたことで、普通に生活が安定するような仕事に就くことができないだろうと思われたからです。
そして、自身は高卒が最終学歴であった母の「高度な教育を受けて欲しい」という望みもありました。
当時の母は、「高学歴ワーキングプア」という言葉を知らなかったであろうし、音楽大学を卒業した人間が一般の就活では不利な立場に立たされることも分かっていなかったと思います。
東京大空襲を5歳で経験した母の世代では、高校を卒業していることも十分評価されることではないかと、私は思っていました。
さらに、母は高校卒業後、知り合いのツテで大手乳業会社の工場に採用され、高校を卒業しているということで、工場のラインから検査室に配置換えになり、最終的には東京の本社勤めとなりました。
それから、父と出会い結婚したのですが、まだ職業の定まっていなかった父の代わりに、会社勤めの母の社会的信用度があったおかげで住居の契約などが滞ることなくできたという話を母から聞いたことがあります。(ちなみに、父も高卒です。)
学歴や職業は、社会を生きる中ではある程度重要な意味を持ちます。
大抵の人は、その人がどんな身分でどんな人間であるかということを、この2つの情報によって判断するでしょう。
ですから、学生が抱きがちな疑問「なんのために勉強をするのか」というものに答えるとするなら、「社会の中で自分にとってなるべく優位になるような地位と信用を築くため」と答えることができるかもしれません。
もちろん、答えは一つではありませんし、この答えは間違いだと言いたい人もいると思います。
現に、私自身は自分がしてきた勉強が、優位な地位と信用を築くことに繋がっていないのですが、それでも、だいたいこの答えで合っていると考えています。
いくら教育制度が批判されようとも、社会の仕組みが学歴を必要としている以上、人々はそれに合わせて勉強をし、より良い大学を受験し、より良い成績で卒業しなければいけません。
それが悪いことだと言うのならば、いったい、どんなふうに変えるべきなのか、それによって社会の仕組みはどうなっていくのか、果たしてそれは無理なく持続可能なことなのか、そして、将来的に社会やそこに暮らす人々にどんな影響が出てくるのかということまで考えられなければいけないのだと思います。
時代の移り変わりと共に、日本の社会は変化し続けています。
大人になっても新しく勉強しなくてはいけないことは沢山あります。
そして、決して変わらないものがこの世に存在しないのと同様、私たち自身の好みや興味も、どんどん変わっていくのです。
学生の時は全く関心のなかったことを、知りたくて堪らなくなる時が来ないとも限りません。
「社会を生きるために学歴が必要だ」という考えだけに囚われず、「自分の人生を豊かにするための勉強だ」と思ってみるのもいいかもしれません。
お金は使えばなくなりますが、一度身につけた知識はいくら使っても減りませんしね。
「勉強ができる」ということは、テストの点数や成績が良いということではないと思います。
何歳になっても、新しい知識や技術について知ろうとしたり、自分の考えとは違う価値観や世界に対して、心を開くことが出来るとまではいかないものの、ある程度の理解を示すことができるということなのではないでしょうか。
ヒトコトリのコトノハ vol.55
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