☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
たとえば男女の愛欲の心には、どこまでもどこまでも相手のすべてを所有したいという欲望や執着がかくれている。
相手の心と肉体とを完全に所有したいというこの欲望は、神と完全に合致したいという信仰者の熱望とあまりにも
似ているではないか。
愛する女のためにすべてを犠牲にする男がいる。恋人のために知りつつどんな罪でも犯す女がいる。この自己犠牲の
気持ちはすべてを棄てて神のために生涯を捧げる聖者の心理にあまりにも似ている。
『心の夜想曲(ノクターン)』遠藤周作(1989)文藝春秋より
宗教って何だろう?とふと考えることがあります。
人は何故、宗教を必要とするのでしょうか?
私の両親にとって、一人目の子供には重度の障害がありました。
そのことを知った父の親戚の一人は、ある時、「子供に障害があるのは何かの祟りだから、霊験あらたかなお寺にお祓いに行くように」と言ってきたと、母から聞いたことがあります。
母は、第二次世界大戦の時にキリスト教信者のいる長崎に、同じくキリスト教を信じる国の人である米兵が原爆を落としたことや、イスラム教の聖戦という概念について大いに疑問を持っていて、宗教には正義も真実もないと主張するくらいだったので、どの宗教にも入信しませんでした。
やはり、両親に障害を持つ子供がいるということで、とある宗教へ勧誘してきた知人もいたようですが、母はもちろんのこと、父も宗教には無関心で、勧誘に応じることがありませんでした。(ちなみに、うちには昔からお墓がありません。)
「神」というものが存在するかということは、よく議論されるテーマではありますが、私は逆に、人が何故「神」について考えたいと思うのかが理解できません。
興味関心のない事柄について、人は考えたりしません。私は「宗教」という自分にとっては不可解な集団、またその集団が生じる現象について考えることはありますが、「神」がいるかどうかとか、「神」を信じるかということについて、真剣に考えたりはしないのです。
「神」を信じない人間は危険なのでしょうか?宗教を持たない人間は「けしからん」のでしょうか?
周囲の人々への思いやりを忘れず、自分にも他人にも誠実さを持ち、社会の一員としての義務を怠らず、地球環境にも配慮し、日々を丁寧に生きるだけではいけないのでしょうか?
また、そのような暮らしは、何か特定の宗教に属していなければできないことでしょうか?
私は決して、宗教を信じることを否定しませんし、何かを信じることができるのは素晴らしいことだと思います。
日本では、たいていの宗教を信じる自由が保障されています。
しかし同時に、宗教を信じない自由もまた守られていることを忘れてはいけないと思います。
一部の宗教の信者から感じられる利己的な言動、自分の主張をするばかりで相手の言葉を一切聞こうとしない態度は、まるで人を騙して利益を得ようとする詐欺師のようですし、状況を一切認識しようとしない様は、やはり異常なものに思えます。
失礼だけれど、「この人、大丈夫かな?」と恐怖を覚えもするのです。
その人が、元からそういう異常な人だったのか、あるいは、その宗教に入信したために、そのような人間性になったのかは分かりません。
ただ、「神」を信じることは、恋愛状態にあるようなものだという、この言葉を読むと、なるほど、冷静な判断のできる状態ではないのだなと、妙に頷くことができるのです。
それならば、時々、何の前触れもなく家にやって来て、意味不明なことを好き勝手に言ってくる宗教勧誘の人たちを怖がらずに、「ああ、この人たちは今、恋に落ちていて、自分のことも周りのことも見えないくらい浮かれているのだな」と一歩退いた視点で見ることができそうです。
何せ、恋は盲目。お医者様でも治せない病気なのですから。(困惑することに違いはないのですが。。。)
ヒトコトリのコトノハ vol.58
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
たとえば男女の愛欲の心には、どこまでもどこまでも相手のすべてを所有したいという欲望や執着がかくれている。
相手の心と肉体とを完全に所有したいというこの欲望は、神と完全に合致したいという信仰者の熱望とあまりにも
似ているではないか。
愛する女のためにすべてを犠牲にする男がいる。恋人のために知りつつどんな罪でも犯す女がいる。この自己犠牲の
気持ちはすべてを棄てて神のために生涯を捧げる聖者の心理にあまりにも似ている。
『心の夜想曲(ノクターン)』遠藤周作(1989)文藝春秋より
宗教って何だろう?とふと考えることがあります。
人は何故、宗教を必要とするのでしょうか?
私の両親にとって、一人目の子供には重度の障害がありました。
そのことを知った父の親戚の一人は、ある時、「子供に障害があるのは何かの祟りだから、霊験あらたかなお寺にお祓いに行くように」と言ってきたと、母から聞いたことがあります。
母は、第二次世界大戦の時にキリスト教信者のいる長崎に、同じくキリスト教を信じる国の人である米兵が原爆を落としたことや、イスラム教の聖戦という概念について大いに疑問を持っていて、宗教には正義も真実もないと主張するくらいだったので、どの宗教にも入信しませんでした。
やはり、両親に障害を持つ子供がいるということで、とある宗教へ勧誘してきた知人もいたようですが、母はもちろんのこと、父も宗教には無関心で、勧誘に応じることがありませんでした。(ちなみに、うちには昔からお墓がありません。)
「神」というものが存在するかということは、よく議論されるテーマではありますが、私は逆に、人が何故「神」について考えたいと思うのかが理解できません。
興味関心のない事柄について、人は考えたりしません。私は「宗教」という自分にとっては不可解な集団、またその集団が生じる現象について考えることはありますが、「神」がいるかどうかとか、「神」を信じるかということについて、真剣に考えたりはしないのです。
「神」を信じない人間は危険なのでしょうか?宗教を持たない人間は「けしからん」のでしょうか?
周囲の人々への思いやりを忘れず、自分にも他人にも誠実さを持ち、社会の一員としての義務を怠らず、地球環境にも配慮し、日々を丁寧に生きるだけではいけないのでしょうか?
また、そのような暮らしは、何か特定の宗教に属していなければできないことでしょうか?
私は決して、宗教を信じることを否定しませんし、何かを信じることができるのは素晴らしいことだと思います。
日本では、たいていの宗教を信じる自由が保障されています。
しかし同時に、宗教を信じない自由もまた守られていることを忘れてはいけないと思います。
一部の宗教の信者から感じられる利己的な言動、自分の主張をするばかりで相手の言葉を一切聞こうとしない態度は、まるで人を騙して利益を得ようとする詐欺師のようですし、状況を一切認識しようとしない様は、やはり異常なものに思えます。
失礼だけれど、「この人、大丈夫かな?」と恐怖を覚えもするのです。
その人が、元からそういう異常な人だったのか、あるいは、その宗教に入信したために、そのような人間性になったのかは分かりません。
ただ、「神」を信じることは、恋愛状態にあるようなものだという、この言葉を読むと、なるほど、冷静な判断のできる状態ではないのだなと、妙に頷くことができるのです。
それならば、時々、何の前触れもなく家にやって来て、意味不明なことを好き勝手に言ってくる宗教勧誘の人たちを怖がらずに、「ああ、この人たちは今、恋に落ちていて、自分のことも周りのことも見えないくらい浮かれているのだな」と一歩退いた視点で見ることができそうです。
何せ、恋は盲目。お医者様でも治せない病気なのですから。(困惑することに違いはないのですが。。。)
ヒトコトリのコトノハ vol.58
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