物事を直感的にわかる人と、論理的に考えて、理解する人がいるらしい。
私の場合は、まず感じて、それがなぜなんだろうと考え、伝える時に相手にも、こういえば分ってもらえるかと例を考える場合が多い。
例えば、去年からの放射性物質の除染とか、拡散に対して、有識者がいろいろと言っているけれど、どうもピンとこなかった。
できるだけ1か所に集めるのがいいと言う事を言っている人がいて、そのことにとてもひかれ、何でだろうと思い、いろいろ考えた。
その結果、気が付いたのは、放射性物質を目に見える物と置き換えると言う事だった。
彼は汚物を例にしているし、他のサイトでは『赤いつぶつぶ』と表現していたけれど、どうもいまひとつわかりにくかった。
そこで、パチンコ玉を感じた。
パチンコ玉は入れ物に入っていればどこにあっても問題は無いけれど、これがばらまかれたら大変だ。
もし、あちこちにパチンコ玉がばらまかれたら、それを集めて1か所にしまうと言う事が一番適切だろう。
これを、もっと広い範囲にばらまこうとは思わないはずだ。
それと同じことを放射性物質でも行いべきではないだろうか?
目に見えない大量のパチンコ玉。
でも、これを踏んだら、転んで怪我をする。
広い地域に少しずつばら撒いても、それを踏んで怪我をする人はいるわけだが、ちゃんと集めて管理すれば踏んで怪我をする人はいない。
第一、どこにパチンコ玉が有るかわからない状況では安心して街を歩けないではないか・・・・
福一から放出されたすべての放射性物質を集めることは難しいかもしれないが、少しでも集めて、少しでも安心して生活できるようにするのは、だれの責任なんだろうか?