エクレアのあのねのね

大と為せば、以って大と為すに足らず

















なページ

存在の耐えられない軽さ

2008年11月11日 12時46分15秒 | 徒然日記の50
「存在の耐えられない軽さ」
こんなタイトルの洋画がありましたね。

全然関係ないのですが、ネットは中年にはきつすぎる世界。

このブログのアーカイブを見ると2005年3月から書いている。
ブログとの付き合いはここより2年前には楽天のブログを開設していて、そこにログを残し始めたのが始まり。
当時、ブログなるものがここまで市民権を得るとも思っていなかったし、ネット上にログを残すことの意味も見出せなかった。継続しているうちに一種の記録媒体としての利用価値がある事に気が付く。ある程度貯まればそれは財産と言うことなんだろう。

そんなこんなで5年以上、ネット上にログを残してきました。

もう辞めようと思います。

一応キリのいい来年2月一杯ぐらいで良いかなと。それでgooブログは丸4年になりますので。

3日、3ヶ月、3年

我慢の単位ですね。3日我慢できれば3ヶ月我慢できる、3ヶ月我慢できれば3年我慢できるってやつです。一応3年以上続けたので自己満足も出来ています。そろそろ新しい物を見つけに行こうと思います。

なんだかんだ言っても今回の筑紫哲也氏が亡くなったことは大きいですね。
彼自身が私に与えた影響は殆どありません。この間書いたエピソードと他に少しぐらいです。
でも彼の死に対する2ちゃんねらー達の誹謗中傷は我慢できる範囲を超えています。
本日板を確認すると54まで伸びていました。板一つが1000ですから単純に54000回も死人に石を投げているわけです。哀悼の意など数えるほどです。

死人に石を投げる様を容認できるほど昭和生まれの私の精神は強くありません。

こういう奴らのいる世界にログを残していること自体が耐えられなくなってしまいました。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いってやつです。この世界にログを残している自分が許せなくなりました。同じ空気を吸うのがもう我慢できません。
勿論、私はねらーではありません。でも空間として共有しているわけです。

仕事で使う関係上ネット全般を否定することは今後も出来ませんが、もう無機質なただの仕事用のツールに戻そうと思います。

言葉には気持ちがあり、心の形があると信じています。それを理解できない人のいる世界でログを残して何かの役に立てばなんて気はもう失せてしまいました。
残念ながら失望してしまったわけです。

言葉を発するには意味があり、届いて欲しい願いがある。でも、届かない言葉なら語るだけ無用だと、遅まきながら結論出すことになるのです。

まあ何年か続けていれば、それなりに理解を示してくれる人もいるわけで、それはそれで感謝しております。ゆっこママさんや、いろりさんなどいつも見てくれている人には有り難い限りですね。一方通行でも何だか繋がっている感じは嬉しかったですね。

そういう数少ない自分を認めてくれる貴重な方達には申し訳ないですが、始まりがあれば終わりもあって良いと思います。

昔、中島みゆきさんが言ってました。
「言葉が刃になる瞬間がある」
って。
慰めも出来る言葉。でも光と影。もう語るは無用かと。
私の言葉で救える事はもうありそうにないです。

私が私であるために”知恵の悲しみ”を一つ減らそうと思います。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。