下記記事でいう「」は、沖縄では、集落、村落、区の意味です。
誤解する人が本土の方には多いようです。
姪が栃木の中学で「沖縄県○○町○○の出身です。」と自己紹介すると、
一部から怪訝な目で見られたという話を思い出しました(笑)
沖縄では昔は田舎はどこも「」と呼んでいたと思います。
本土(特に西日本?)で、差別的な意味があると分かったのは、
大人になってからです
沖縄タイムスプラス2016年3月27日の記事を紹介します。
米軍キャンプ・シュワブは地元が誘致した?【誤解だらけの沖縄基地・24】
「キャンプ・シュワブは辺野古区が誘致した」という言説がある。大抵の場合、だから「新基地も積極的に誘致している」「地元が賛成なのだから、沖縄は新基地を認めるべきだ」と続く。
「誘致でも強制でもない。昔も今も」。保守系の元名護市議で辺野古に生まれ育った島袋権勇さん(67)。新基地に絡む歴史論争に少し疲れた様子だ。
シュワブの土地使用契約が結ばれたのは1956年。当時を知る長老を訪ね資料を集めて、「辺野古誌」(98年発行)に経緯を記録した。
米軍は55年、広大な土地接収を久志村(現名護市)に通告。村議会や辺野古区総会が反対を決議し、村長も反対を陳情した。しかし、米軍側の態度は強硬だった。
「もしこれ以上反対を続行するならば、(住宅)地域も接収地に線引きして強制立ち退き行使も辞さず、しかも一切の補償も拒否する」(辺野古誌)
絶対の権力を誇った米軍を前に、区は交渉に応じるほかなかった。区長ら5人を交渉役に選び、「銃剣とブルドーザー」による強制接収があった宜野湾村(当時)伊佐浜も視察。余剰電力と水道の供給、適正補償など、条件を付けて接収を容認することになった。
折しも、土地接収に反対する「島ぐるみ闘争」の真っ最中。瀬長亀次郎さん、安里積千代さんら革新系の大物立法院議員も「水を差す」と辺野古の説得に訪れたが、拒絶した。
権勇さんは「先輩方は相当腹をくくって、団結して地域の利益を守った」とみる。辺野古新基地をめぐる今の動きと「状況は似ている」と言いつつ、念を押した。「誘致じゃなくて、条件付きの容認だ」
もう一つ、辺野古区とシュワブとの友好関係も「新基地建設の絶好の候補地」とする理由に挙げられることがある。
10班まである区が、シュワブを「11番目の班」と認めて班旗を授与している。米兵が住民と共に綱引きやハーレーといった地域行事に参加する姿は、特に本土の人からは驚きを持って見られる。
だが、地元に住む島袋利治さん(75)の見方は違う。区長や保守市政の収入役、市軍用地等地主会の会長を歴任したが、「戦後、軍に対する感情は決していいものではなかった」と振り返る。
「基地が来たからには、ただ反目し合っては利益がない。事件をなくすためにも、感情的にも、うまく付き合う方がベター。生活の知恵だ」。友好的だから新基地も、という見方には「ふに落ちない」と語った。(「沖縄基地」取材班)
辺野古区のハーレーに参加した米兵=2015年6月