キャンプ・ハンセンの名前の由来は、
「反戦」でアメリカンジョークかと若い頃は思っていました(笑)
キャンプ・シュワブ、キャンプ・マクトリアス、キャンプ・コートニー等の
他の沖縄の米軍基地同様、沖縄戦で戦死し、
名誉勲章を受章した兵士の名前にちなんで名付けられています。
ちなみに、沖縄本島南部の糸満市にある「平和の礎」にも
彼らの名前は刻銘されています。
国籍を問わず、また、軍人、民間人の別なく、全ての戦没者の氏名が刻まれている。
趣旨は、沖縄戦などでなくなられた全ての戦没者を追悼し、
恒久平和の希求と悲惨な戦争の教訓を正しく継承するとともに、
平和学習の拠点とするためです。(県営平和祈念公園より引用)
敵、味方区別なく刻銘した沖縄人の心情をくみ取り、
辺野古移設は断念してもらいたい。
平成27年度 平和の礎 沖縄県市町村別、各都道府県別 刻銘者数一覧表
沖縄タイムスプラス2016年4月3日の記事を紹介します。
米軍キャンプ・ハンセン返還延長要求は「基地依存」か?【誤解だらけの沖縄基地・25】
基地からのお金がないと困るから返還に反対している-。米軍キャンプ・ハンセンの一部返還が決まり、名護市の稲嶺進市長が返還期限の延長を求めると、インターネット上にはこうした書き込みがあふれた。市は「基地依存」で「基地を使い続けてほしい」と言っているのか。
ハンセンの一部返還は、4市町村にまたがる計5118ヘクタールのうち、市の東シナ海側斜面の162ヘクタールを返すというもの。1976年7月7月の日米安全保障協議委員会で了承されたが、これまでに3度、返還が延期された。傾斜地で跡地利用が難しいと訴える歴代市長や地元住民の訴えが配慮された経緯がある。
162ヘクタールはほとんどが市有地で、喜瀬、許田、幸喜の3区にまたがる。日米合同委員会は2013年9月、幸喜区の55ヘクタールは14年6月末、喜瀬区と許田区の残り107ヘクタールは17年6月末、と2段階で返還する内容で合意した。
合意を受け、稲嶺市長は沖縄防衛局に武田博史局長(当時)を訪ね、返還期限の延長を要請。市に限定した返還で、地形的にも跡地利用が難しく、さらに段階的な返還は3区間に差異が生じるため混乱を招く-といった理由からだった。
ところが、ネット上では「基地に反対しているのにカネは欲しい」「基地収入が手放せないからだ」といった書き込みが相次いだ。本当にそうなのか。
確かに、ハンセンがあることで、市には軍用地料として1億3千万円が入り、そのうち4割は3区に分収金として配分される。
しかし、市の14年度の基地関連収入は約25億円(うち軍用地料は約21億円)で、一般会計歳入の6・7%しかない。ハンセンに市有地を賃貸して得る軍用地料1億3千万円が財政に与える影響は微々たるもので、「金目当てで使い続けてほしいと言っている」という見方は当てはまらない。
それどころか、稲嶺市長は要請当時、「いつまでも米軍に提供するわけにはいかない」と断言している。
一部返還をめぐり、市が最も問題視しているのは、2段階で返すという3区を分断する“手法”だ。
許田区と喜瀬区は11年9月、ハンセンの継続使用を求める要請文に米軍普天間飛行場の辺野古移設を支持する文言を盛り込み、沖縄防衛局に提出。幸喜区だけは辺野古移設と絡めた要請文に反対意見が続出し、要請しなかった。
2段階の返還に、市議会与党系議員や地元住民は“辺野古の踏み絵”と批判を強め、分収金を受け取れなくなった地域にはしこりが残った。
市企画部の仲宗根勤参事は「許田、喜瀬、幸喜は三共地区と呼ばれるつながりのある地域。一部返還には跡地利用の問題もあるが、何よりおかしいのは地域を分断した返し方だ」と話した。(「沖縄基地」取材班)
当時の武田局長(左)に米軍キャンプ・シュワブの返還期限の延長を求める稲嶺市長(右)=2013年9月6日、嘉手納町・沖縄防衛局