これから京都の歴史を訪ねて歩いたスポットを幾つか紹介します。
今回は京都の修学院離宮を紹介します。
2024年12月14日、午後、小雨の中、拝観させて頂きました。
人数が制限され、時間毎の予約が必要ですが、無料で80分間の案内が付いていました。
紅葉は最盛期を過ぎていましたが、十分楽しめました。
この離宮は江戸時代、最初に宮廷文化を復活させた後水尾天皇が築いたものです。
これは代表的な宮廷庭園ですが、他とは趣が異なるようです。
「修学院離宮は中心部から比叡山の登山口に至る途中にある、上が北」
この修学院離宮は、有名な宮廷庭園である桂離宮、仙洞御所、京都御所と違い、辺鄙な山裾の高台に造られた。
しかも当時から畑に囲まれた離宮だったはずです。
最も有名な桂離宮は、後水尾天皇の1代前の天皇の弟が築き、古くは藤原道長の別邸があった桂川沿いにある。
後水尾天皇もここに訪れていた。
「修学院離宮の衛星写真、上が東」
下に広がる住宅街の上限に離宮の入り口があり、さらに上側の森林までが離宮の範囲です。
離宮内には三つの離宮(御茶屋)があり、下中央、少し上の右側、さらに左上に別れている。
「修学院離宮の正式な案内図」
現在、上離宮の建物の幾つかは修復中でした。
案内の順路は赤の破線の通りです。
以下の写真は、ほぼ順路通りに並んでいます。
先ずは下離宮から
「寿月観」 ここは上皇が日帰り来られるところでした。
案内では、建物の中に入ってみることが出来ませんが、外から襖絵や欄間等が見られるようになっています。
すべて説明があります。
参加者が多いので、人が写らないように撮影するのは難しい。
参加者に、フランス人女性と白人夫婦がおられました。
これから下離宮を出て、中離宮に向かいます。
「下離宮を出た所、東側を望む」
晴れていれば、左側に比叡山が見えるはずです。
「上離宮に行く松並木の道」
ここからは中離宮になります。
「中門、新しく葺かれた屋根が美しい」
「この中離宮は、後水尾天皇の皇女の一人が、後に造られたものです」
「客殿の中を覗く」
ここからは上離宮です。
「隣雲亭前の広場から眺める」
晴れていれば鞍馬の方が見えます。
実に雄大な借景です。
「隣雲亭のすぐ右(東)にある雄滝」
滝は思ったより大きく、自然が生かされている。
「隣雲亭が左上に見える。前のせせらぎの左上流に雄滝がある」
後水尾上皇は、隣雲亭の縁側に座り、この滝の音を聞きながら、歌を色紙に書いたことだろう。
彼は生涯百以上の和歌を残し、さらに後水尾院御集で、1420余首の歌に注解を付し、歌壇を牽引した。
彼の歌風は、藤原道長の子供に始まる伝統(二条家流)を直伝で受け継いだものでした。
さらに立花や茶道、能に造詣が深く、江戸文化の隆盛に貢献した。
「浴龍池に浮かぶ島」
「浴龍池の奥の高台に隣雲亭が見える」
この池の傍にはいくつかの名所があるのですが、2ヵ所が修復中でした。
浴龍池は非常に浅い。
「西浜から大刈込越しに京都の中心部を見下ろす。」
畑の向こうに、御所や下賀茂神社の森が見える。
辺鄙な地にある離宮だと思っていたが、上皇が暮らす御所、さらに徳川家の二条城が見下ろせるにのには驚いた。
「隣雲亭を見上げる」
亭の下の斜面には、様々な木々が植えられ、刈り込まれている。
普通なら刈込用の低木を植えないだろう(地盤が軟弱なせいもあるらしい)。
私の知る限り、普通、日本庭園は四季を愛で、日本の名所や自然を凝縮した形で、再現している場合が多いと思う。
しかしこの上離宮は異なる。
上皇は、のびのびした風景、畑も含めて遠くに街並み山々が見晴らせる、この地を選んだのだろう。
かつて天皇家や公家の誰も、この地に別邸等を造らなかったこの地に。
後水尾上皇は、天皇の地位が衰退し続ける中にあって特異で目立つ存在でした。
徳川幕府が天下を治め始めると、天皇家と公家への締め付けが強くなった。
天皇家の所領は、鎌倉時代から徐々に減り始め、戦国時代末期になり幾らか任命権等の権限が復活していたが、
徳川家康から秀忠にかけて、天皇の所領は数万石まで減らされ、さらに天皇は政治に一切口出し出来ず、文芸に専念せよと命じられる始末でした。
遂には、徳川は外戚を狙って秀忠の娘を天皇の中宮に迎えるように圧力を掛ける。
後水尾天皇は、これまで、様々な徳川家の圧力に対して、数少ない抵抗手段である譲位を幾度もほのめかして来た。
結局は、娶ることになり、間に生まれた内親王(娘)が7歳になると、本当に譲位してしまった。
その後、長く院政を行い、多くの子供も造り、長生きした。
終わります。