【阿多羅しい古事記/熊棲む地なり】

皇居の奥の、一般には知らされていない真実のあれこれ・・・/荒木田神家に祀られし姫神尊の祭祀継承者

熊棲む地なり

2024年03月02日 | 歴史

 

 

そもそも、皇后良子が蚕の世話をするのが厭だと言ったことから、始まった。
皇居にある斎服殿でのことだ。神前に供える絹を織るための、茅葺の農家に似た、小さな建物だった・・・

 

 

数日前、我が家に宮内庁から使いの者が訪ねて来て、曾祖父が暗い座敷で古い書物を開いていた。
「荒木田神家の末裔」というわけで、戦後の宮中祭祀についての意見を求められたのだ。奈良時代に書かれたという古書には、絹を織るのは身分の高い女性もしくは女児、と限定されていた。曾祖父が上京する時、親族数人が付き添って行ったが、その中に四歳の私もいた。
そして、二度目からは私一人で行くことになった。

 

 

皇后は和服を着て、草履を履いていた。
現代では周知のことだが、倭錦は邪馬台国時代に中国へ朝貢された貴重品である。そのため、この蚕を宮殿内では「神子」と呼んでいた。
それを、皇后は「これがか?」と言って、摘まんだ虫を足下に放り投げ、草履で踏み潰したのだった。
私は叫びそうになるのを堪えて、後ずさりに戸口を出た。
外にいた侍従が不審そうに「どうかしましたか?」と尋ねた。しかし、狭い建物だ、セメントの床に虫の残骸がこびり付いているのも、また、それを皇后が棚の下に隠そうとして、慌てて草履で蹴ったのも、見えていたはずだ。
侍従は慇懃にお辞儀をして、それから私に言った、「あなたが踏んだのですよ。皇后様に謝りなさい。」

 

 


私は謝らなかった。

こうごうさまが、ふんだのだ。

 

 

言い張っているところへ、男が一人来て、暢気に「何があったんだい?」と訊いた。これが東久邇だった。
期待はしていなかったが、私はとりあえずこの男に事情を訴えてみた。
洒落たタイを首に巻いたその男は、男子禁制の斎服殿を覗き込んで、「そりゃあ大変だ。」と言ったきり、何処かへ行ってしまった。

 

 

次に来たのは天皇裕仁だった。
宮内庁という所は「何事も無いのが良い」のだから、わざわざ侍従らが知らせたとは思えない。
暇を持て余していた裕仁が、自ら見物に来たのだろう。
時代ドラマで、道端に土下座している町人がいきなり殿様の行列の前へ身を挺するように、私は天皇に駆け寄った。
「こうごうさまがお蚕を踏んだのです。私は何もしておりません。」
裕仁は信じられないといった顔で、「良子がかね?」と妻の名を口に出したが、すぐに側近ともども、その場から消えてしまった。

 

 

天皇が居なくなった途端、侍従の顔が険しくなった。
「強情」の貼り紙とともに、私は護衛官に睡眠薬の注射を打たれて、荷物のように公用車に放り込まれた。
しかし、薬剤の効果はすぐに切れた。まだ皇居を出てから幾らも経っていない道中、朝から絶食だった私を吐き気が襲った。
泣き出すと、助手席の男が振り返り、私の腕を掴んで、二本目の注射を打った。恐怖で、私は一層声を上げた。その口にも針が刺さった。
家に着いた時、私は玄関の板間にうつ伏せの状態で置かれたのだったが、床に押し潰された鼻が痛くて、意識が戻って来た。
どうにか顔をわずかに横へ向けて、「注射をされた・・・」と家の者に言おうとしたら、
自分の口が開いたまま、そこから舌がだらりと垂れているのに気がついた。
涎が止まらなかった。

 

 

「二度と皇居へは行かない。」と私は言い、曾祖父もまた「行かなくて良い。」と言った。
だが、選択の自由は我々には無かった。「迎えの車」が来たのだ。皇后が謝罪に来いと言うのだった。
障子を閉てた母屋から、「いったい祭祀をどうなさるおつもりですか。これでは済みませんよ。」と、朝から女の金切り声が絶えなかった。
窮した曾祖父は、とうとう紋付に着替えて、家族が見送る中を宮内庁の車に乗り込んで行った。
翌日になって車が戻って来た時、運転手が開けるドアから降りた曾祖父は、五、六歩よろよろ歩いて、庭に倒れた。
「今度は、自分が謝りに行く。」と私は言った。

 

 

そうして、また一張羅の振袖を着せられて、私は公用車に乗せられた。
事態は、すでに私が蚕を踏み潰したことになっており、皇居の正殿に通された私は、祭壇の前で懺悔するよう命ぜられた。
先祖神に嘘をつくのが嫌だった私は、祭壇の正面まで進み出て、お辞儀だけしようと決心した。
ところが、和服を着せられた子供の腹には太い帯が堅く締められていたのだ。
本当なら、頭を腰の位置より下げて平伏せねばならないのだが、筒状になった帯は子供の体を「くの字」にしただけだった。
すると、背後に付いていた護衛官が、毒針で私の腰のあたりを刺した。もっと曲げろと言うのだ。

二度、曲げたが、二度、刺された。
祭壇に背を向けることは禁じられていたが、私は踵を返して、走った。
廊下に出たところで護衛官に捉って、今度は注射を打たれた。麻酔に似た催眠剤だった。私は失神し、床に倒れた。

 

 

何故、私がこんな目に会わなければならないのか? 
まるで家畜を殴るように、まだ言葉も未発達な子供を虐待する、その男の名前さえ私は知らなかった。
意識が遠のく間に、ふっと自分がその男に何か悪いことをしたのだろうか、と考えた。否。では、この男は命令に従うだけの兵隊なのか? 
毒が回るに連れて、振袖を着せられた子供の足はもつれた。それを、男は面白そうに嗤っていた。

 

倒れた私は誰かに抱きかかえられて、客室らしい部屋へ運ばれた。
苦悶している私が吐くと思ったのか、担いでいた者は、私をベッドではなく、床に転がした。
そして、それっきり、いつまで待っても誰も現れなかった。
放置されることに慣れていた私は直ぐにあきらめて、猛烈な吐き気を堪えながら、浴室まで這って行き、片手で浴槽の縁に掴まりながら、蛇口をひねって、身体を洗った。
タオルは頭上に掛けられてあったが、手が届かなかった。私の体が小さいのだった。
ずぶ濡れのまま、また箪笥の前まで這って戻り、ようやくのこと、ブラウスとスカートを穿いた。
が、それが限界だった。そのまま、仰向けに床に倒れてしまった。
疲労で、憤怒は私の体を抜け出ていき、替わって、冷ややかな怨恨が降りて来た。

 

 

気が付くと、いつの間にか頭上に女の顔が二つ現れて、脱ぎ捨てられた着物と私を見下ろしていた。
一人が「起きなさい。」と命じたが、できるはずもない。
別の女が「お着物はどうなさいますか?」と訊いたので、「持って帰るから、風呂敷にでも包んで欲しい。」と答えた。
当たり前だ、私の着物なのだから。

 

 

家に戻った私が真っ先にしたことは、曾祖父に皇后の血統を訊ねることだった。
「久邇宮だ。」とあっさり曾祖父は教えてくれた。
我が家と天皇家とは姻戚関係があって、辿れば同じ血で繋がっているというのが信じられなかった。
私がそう言うと、薬剤で赤黒い斑点が浮いた私の顔を、曾祖父が見すえて、「島津だ。」と付け加えた。

 


翌日、我が家の狭い座敷に、親族が集められた。
曾祖父は惣領として、私の身に起こった事態を伝えておかねばならないと考えたのだろう。
長い話の後で、奥から一本の瓶が持ち出された。青酸カリ入りの酒だという。戦時中に天皇が配ったものだ。
「何で、うちに?・・・」 おおかたが百姓のせがれで、せいぜい牛車の車輪を直せるのが自慢な男らは、日焼けした顔を歪めた。
「何だあ。自分で飲めばええがな・・・」

 

 

着物を汚したせいで、代わりに着て帰った洋服は、宮内庁の備品だった。
捨ててやろうかと一時怒りが込み上げたが、結局、洗濯して、仕舞っておいた。案の定、二週間も経った頃、侍女が取りに来た。
洗濯機がまだ無い時代なので、上質なブラウスも乾いた時には皺々になっていた。
「これじゃあ、もう使えないわ。」女はさも落胆した様子で、「こういう場合は、汚さないように綺麗な布に包んでそのまま返して欲しい。」と母に説明していた。

 

 

裕仁について、もう一つ書いて置かねばならない。
或る日、蚕に餌をやった後で、舞踏殿という広間へ連れて行かれたことがあった。
そこでは様々な民族衣装を着た人々がそれぞれの国の民族舞踊を稽古していたが、私が広間へ入った時、丁度、辮髪の男が五人か六人、素早く回転しながら踊っていた。

裕仁は、奥の間から出て来た。すると、突然、辮髪の男等が平伏したのだ。
体が柔かい彼等は板間の上で紙のように折れて、床を舐めるように這いつくばった。そして、そのまま天皇の足に額づいたのだった。
裕仁は愉快そうに笑った。「これらは、いつもこうなんだよ。」
平伏した男等は土偶のように動かなかった。

 

 

別の機会に、密かに訊いてみた。「おじさんたちは何処の国の人ですか?」 
すると、満州族だと彼らは答えた。
また違う一組に訊いてみると、琉球人だと答えた。天皇は自分が支配していた国の人々を奴婢として囲っているのだった。
その中に、隼人舞いをしている男たちがいたので、同じことを訊いてみると、こちらは宮内庁の職員だと答えた。
天皇が出て来たら平伏するのか、という質問には、することもある、という答えだった。

 

 

・・・皇后が蚕の世話をしないので、一ヶ月も経たないうちに、虫は全部、干からびて死んでしまった。
そして、驚いたことに、天皇も祭祀を放棄したせいで、神田はひび割れ、雑草がはびこって、わずかばかりの稲も枯れてしまった。
現在、祭祀に使っている蚕や稲は、その後、何処かで品種改良されたものである。

 

 

 

 

 

Mayumi Araki