アジア系の子供は欧米系の子供より成績が良い、15~16歳になるとその差は最大に…勤勉さゆえに積極性・社交性に欠く面も(Record Chinaの記事より)
日本人全員が物心ついた頃から強制的に参加させられる競技、それはずばり『勉強』です。
数字で成績と順位がはっきりと出る厳しい世界で、得意といえる人はその中のわずか5%程度です。
そんなわけで多くの人に拭いがたいコンプレックスを植え付けることとなります。
ある人が学歴が全ての価値基準のように言えば、ある人は「勉強ができるのと頭の良さは無関係だ」と全否定します。
僕はどちらも正しいとは思えませんが、勉強ができる人特有の弱点というのはある気がします。
人は勉強をすることによって、抽象的な思考力や分析力を鍛えることができます。
例えば、言葉なら文法に、数字なら公式に分解し理解し、それをまた違う具体例に当てはめたりするわけです。
言い換えれば、複雑に組み合わさったパズルを解いたり、また組み合わせたりが得意になるのです。
こういう訓練をひたすら20年近く受け、その中でもトップの成績をとってきたエリートが社会に出たとします。
やはり、どんな分野の仕事でも得意の分析力を生かして即座に理解し対応していくはずです。
例えば、太陽の周りを地球が回っているのは重力の法則があるからです。
それと同じように、自分の会社の製品が売れないのだって勉強が出来る人なら簡単に分析できるかもしれません。
しかし、ここに落とし穴があります。
分析はあくまでの「現状を捉えること」です。
これがないと話になりませんが、その現状をどう変えていくかは全く別の話です。
むしろ、勉強のできる人ほど自社が売れない商品しか作れない必然性をより深く納得してしまう可能性もあります。
ですから分析力に優れた人ほど物事を変える機運を生み出す力に欠ける傾向はある気がします。
行き過ぎたエリート官僚主義が社会の停滞をもたらす例は、世界史の教科書に山ほどありますから。
「生ものダメだから火を通して!」を拒んだ日本のすし店主を中国人女子学生が批判、反対に中国ネットで責められる(XINHUA.JPの記事より)
新鮮な肉を見た時の各国の反応…
中国人「とりあえず炒めよう」
アメリカ人「とりあえず焼こう」
スウェーデン人「とりあえず塩漬けだ」
カナダ人「とりあえず炙ろう」
ドイツ人「こいつの小腸を探してこい!」
イタリア人「オリーブオイルを用意しよう」
フランス人「どんなソースとワインがあうかな」
日本人「とりあえず醤油つけよう」
インド人「…牛肉なら食べないよ」
ユダヤ人「…豚肉なら食べないよ」
以上、個人的な独断と偏見に基づく勝手な妄想です。
すみません、次回から頑張ります。
女性客に利尿剤入りの菓子、トイレに行かせず高速へ 「我慢するしぐさに興奮」 タクシー運転手逮捕(時事通信の記事より)
子供の頃、近所のSちゃんの家でかくれんぼをして遊んでいたときのことです。
彼女のお父さんの部屋のベッドの下に隠れていたHくんが、何やら怪しい本とともに発見されました。
皆興味津々に眺めていましたが、僕は「裸の女の人が男の人にいじめられてる…!」と思ったのを憶えています。
確かに、あの最中の女性はまるで苦しんでいるようにも見えます。
困ったことに男性からすれば、その姿により興奮してしまうのです。
実はこれには科学的な根拠もあります。
男性の脳内で性的な刺激を感じる部分と攻撃性を司る部分は隣り合っており深い関係があるそうです。
考えてみれば恐ろしいことですが、そういうわけで男性にとってエロとは若干の嗜虐性を伴っています。
男性の端くれの僕自身、紳士の嗜みとしてアレな動画を観ていると、怒りに似た情動を感じることがあります。
そしてこの傾向が強まると、女性を困らせるそのこと自体に性的興奮を覚える変態が出てきます。
上記事の人がまさにそうですが、もっと早くにとっつかまえておくべき非道でした。
変態とはいわば、まだ脳が未発達だった頃に構造上起こってしまった「勘違い」が原因です。
ですから、性癖は多くの場合、子供の頃の体験に基づいています。
ほとんどの人は経験を通じてその勘違いを修正していくことができます。
しかし、精神的に大人になりきれない人がいるように、そういった性癖を卒業できない人もいます。
人に迷惑かけなければ趣味の範囲ですが、残念ながらそうでない人もたくさんいるのです。
テレビ番組で小保方氏のモノマネを放送し炎上(リアルライブの記事より)
今を遡ること30年前、日本航空350便が墜落する事故がありました。
死者24人を出した大事故だったのですが、その原因となった機体の「逆噴射」が話題となりました。
その年の流行語ともなったこの「逆噴射」、当時のバラエティで取り上げられることもあったようです。
今だったらちょっと考えられないですが、昭和の御代は色々といい加減なところがありました。
ビートたけしさんいわく「笑いとは暴力」だそうです。
確かに笑いとは何かを馬鹿にすることで生まれます。
人や物事を馬鹿にするか、そうでなければ自分を馬鹿にします。
意図せず人に笑われて気分のいい人はいませんから、やっぱり笑いは暴力です。
一方で、笑いとは「理不尽」や「不条理」になことが起きると生まれます。
歩いている人がいきなり転んだり、言い間違いで笑いが起きます。
変に心配されたり注意されるより、笑われることでその場が収まることも結構あります。
例えば、ホスト風芸人ヒロシさんは自虐的な笑いが受けていました。
しがないホスト時代の自分をヒントに、日常の失敗談を笑いに変えます。
ネタもちょっと悲しい出来事だったりするのですが、ヒロシさん自身笑われることで救われている気がするのです。
観ているこちらも笑うと同時にどこか癒やされている面もあります。
笑いとはこうした「理不尽」や「不条理」に対する「救い」の面というのもあります。
「暴力」を「救い」の両面は、その対象となる人や対象とする人によってどちらに転ぶかは様々です。
上記事の小保方さんはきっと前者と受け取られたのでしょう。
けど、こればっかりは時代やする人のニュアンスによって真逆に受け止められることもある難しい問題です。
私事で恐縮ですが、昨日千葉は上総国の神社ばかりを巡り雨に降られぼろぞーきんのようになってました。
途中、近年人身事故が急増している駅を通り過ぎ、連休明けから何事もないことを祈りました。
休みが続くと緊張の糸がぷつりと切れてしまい、仕事に行くのが本当に嫌になる経験は誰しもあるはずです。
休暇中の長旅から帰ってきて「やっぱり家が一番やわあ」と言う人がいます。
しかし、僕にはあんまり良くわからない感覚でした。
好きで行く旅行ですし、願わくばいつまでもそうしていたいと家に帰るのが嫌になります。
それがいい旅であればあるほど、その後に待っている日常とのギャップに家へ帰る道すがら暗澹たる気分になるのです。
たまにペットを飼う勇気が出ない理由に「死んだ時悲しい」ことを挙げる人がいますが、あれに近いでしょうか。
我ながらネガティブにも程があると思いますが、やはりこれではいけません。
例えば、休みに趣味や旅行でリフレッシュして「今までなんて小さなことで悩んでたんだろう」そう思えることがあります。
何もする気が起きずぼーっとしている時でも「休み明けのパワーをためているところなのだ」と思ってみるのもいいです。
それを「このままずっと夜が明けなければいいのに」と思ったとたん翌朝起きるのが本当に苦しくなります。
休暇を日常の逃避先にしてはいけません。
そこでの経験を日常に還元していく意識こそが大切です。
自戒を込めて。
同性婚挙式の会社を設立、増毛出身の慶大生…「個々の違い、受け止める社会に」「性別に関係なく、すべての人が幸せな社会に」(北海道新聞の記事より)
よく同性愛者の方をひきあいにして、既存の「性別」への偏見を捨て差別なくしていこうと訴える人がいます。
要は、男らしさや女らしさにこだわるのはやめよう、というようなやつです。
例えば、上記事もその類のような気がしなくもありません。
しかし、これは同性愛者の味方のふりをして実のところちょっとズレているんじゃないかと感じることもあります。
ゲイの人たちは、男と女が愛しあうという性別の常識にこだわらなかったから同性愛者になったわけではありません。
そうではなくて、異性愛者が異性を魅力的と感じるように、同性愛者は同性を魅力的と感じるだけです。
その証拠に、異性愛者が同性に恋愛感情を持てないように、同性愛者は異性に恋愛感情をもてないのです。
それは自分で考えてそうなったというよりは、生まれつきか、いつの間にかそうなった人が大半です。
ですから、自由な選択など初めからしていません。
むしろ同性しか好きになれないという意味で、ゲイの方も十二分に「性別」にこだわっています。
性同一性障害の人となれば一層同じことが言えます。
同性愛者はマイノリティーですから、どうしても左派的なイデオロギーと親和性が強くなりがちです。
伝統的な男女観を重んじる保守派は、同性愛に寛容でないようなイメージもなんとなくあります。
しかし、同性愛も人間の本性の一部ですから、もっと自然な形で受け入れられるのが一番だと僕は思うのです。
賛成するにせよ、同性愛というテーマを自ら思想の道具に使うことで差別を助長する可能性を考えてもらいたいです。
※web小説‐伝承軌道上の恋の歌‐初めから
女好きのイタリア人が仏でホモになって帰ってきたというヴィスコンティ監督。素質はあったにせよ珍しいかもです
「偽善だ」 ロマーリオ、反差別のバナナキャンペーンに異論(日刊スポーツの記事より)
人それぞれ容姿には個性がありますが、僕の場合特に耳が特徴です。
いわゆる「立ち耳」というやつで、我ながら猿っぽい大きな耳です。
例えば、そのせいで「猿」呼ばわりされ学生時代いじめられていたとします。
ある時、抗議の意味で「むしろこれがカッコイイんだぜ?」と帰りの会で演説をぶちました。
すると、それに正義感をくすぐられたクラスメイトがマギー審司さんよろしく大きい耳をつけて反差別のパフォーマンスをはじめます。
その運動は大きくなって学校中を巻き込んでいきました。
その時僕は何を思うでしょうか。
「いや、そういうことでもないんだけど…」
そんなわけで上記事のロマーリオさんの意見に半分くらいは共感します。
「猿」扱いする奴がしょうもないのであって、別に自分以外のみんなも「猿」になったところでさほど嬉しくもありません。
むしろ、なんだか余計に馬鹿にされている気すらしてきます。
投げ入れられたバナナを食べた、差別を鼻で笑うダニエウ・アウベス選手の行動はなかなかしゃれてると僕は思います。
ただ、便乗している他の人達に関してはやや趣旨がずれている気がしなくもありません。
僕がひねくれているだけならそれでいいのですけれど。
※web小説‐伝承軌道上の恋の歌‐挿絵(057-朽ちていくスフ
二股疑惑、竹田恒泰の女性観「自分は皇族の末裔だから、側室を置いても構わない」(週刊文春の記事より)
昭和歌謡曲を最近良く聴いているのですが、改めて思うのはとにかく別れた恋人を思う歌ばかりということです。
寺尾聰さんの『ルビーの指輪』は別れた恋人と似たコート姿の女性を見つけては、自分がプレゼントした指輪をつけてないか探してしまう振られ男の歌です。
この歌詞には二重のつっこみどころがあります。
まず、別れて二年も経っているのにまだ未練がましく思って恋人を探してしまう点がひとつ。
さらにはその彼女がルビーの指輪をまだつけていてくれてるんじゃないかと淡い期待をしている点がもうひとつです。
この哀愁というにはちょっと情けなさすぎる感じがこの歌詞の魅力です。
他にも故・尾崎紀世彦さんの『また会う日まで』も題名とは裏腹にもう二度と会いたくないという内容で一体どっちなんだと言いたくなります。
その点杏里さんの『オリビアを聴きながら』の歌詞は女性の恋愛強者ぶりを感じさせます。
オリビア・ニュートン・ジョンの歌声とジャスミンティーでおしゃれに心を癒やしながら相手をひたすら諭す歌詞です。
『もうすんだこと』『二度と電話してこないで』『疲れたあなたは私の幻を愛しただけ』とかつて愛した人への憐憫はみじんも感じさせません。
この歌詞にかぎらず、女性は別れた相手を嫌いになる人って結構多い気がします。
女性は恋愛に関して男性より相手に一途であることは一般的に言えると思います。
浮気症な男性に比べて損な気がするかもしれませんが、これにはものすごく大きなメリットがあります。
それは、別れた後新しい恋人ができれば過去を忘れられるところです。
まあ、小坂明子さんの『あなた』のように女性が別れた相手を想う歌もあるにはあります。
ただ、女性歌手でも「女々しい」歌詞は男性の作詞家によるものが多い印象です。
共和党の次期大統領候補、弟ブッシュ氏が首位に 前大統領「出馬してほしい」(msn産経ニュースの記事より)
かつて西洋文明を取り入れるためアメリカに赴いた福沢諭吉が現地の人にこんな質問をしました。
「英雄ワシントンの子孫は今何をしているのか?」
英雄の子孫だけに今でもセレブなのだろうと想像していると、その答えは意外なものでした。
「彼の子孫が何をしてるかだって?ハハハ、洒落たジョークだぜ、カウボーイ。そんなことはグーグル先生にでも聞くこった」
これが本場の『でもくらしぃ』なるものかと福沢は敬服したと今に伝わります。
そんな米国流デモクラシーの伝統は今も健在でしょうか?
例えば、前々回の大統領選では民主党の大統領候補は黒人のオバマと女性ヒラリー・クリントンでした。
どちらが大統領になっても歴史上初のことです。
売れないハリウッド俳優あるいは女性や黒人でも努力と才能で大統領になれる。
さすがは民主主義の本場アメリカと思わせます。
しかし、よく考えてみると案外そうでもありません。
上記事にあるとおり、共和党はブッシュ・ジュニアの弟さんが大統領選の候補に上がっています。
合衆国大統領の地位をパパ・ブッシュから親子二代どころか更に兄弟の間でまでたらい回そうという魂胆です。
保守的な共和党だから古臭いところがあるのだろうかと言えば、民主党も負けてません。
そもそもヒラリーさんが夫のビル・クリントンからのたらい回しです。
恐らく暗殺されなければ、ジョン・F・ケネディの弟ロバート・ケネディも大統領になっていたでしょう。
ようはアメリカだって歴史を経て社会的な階級が固定化されてきているという話です。
世襲制を擁護するわけではありませんが、これが世の常のようです。
昔『出羽守(ではのかみ)』という表現がありました。
「どこそこの国では…」と何かと外国を引き合いにして日本をあげつらう人のことを言います。
確かに他の国のいいところは見習うべきですけど、それほど良いことづくめというわけでもなさそうです。
鈍足、背が低い、視野狭い、人気ない、生え際ヤバイ、でも岡崎が日本で一番点を取っている現実(サッカーキングの記事より)
下手の横好きでピアノをやっていて、つくづく思うことがあります。
自分なりにそこそこ弾けるようになったかなと、参考までにyoutubeでプロの演奏を観てみます。
すると、その度に頭を冷凍マグロで殴られたような衝撃をうけるのです。
比べるのもおこがましいですが、プロと僕のような素人で隔たりがあるのは、指先の技術だけではないような気がします。
表現力から何から、むしろその手前の頭の中のイメージこそ違います。
何を持って合格点とするかというゴールの設定自体を、プロは想像もつかないほど高いところに持っているのです。
それに比べて僕はせいぜい楽譜通り鍵盤が叩けた程度で、無意識に満足してしまっています。
そのくせ「自分はなんて才能がないのだろう」と自分勝手に葛藤するのでは、ピアノの神様に怒られてしまいます。
上記事の岡崎選手も散々な言われようですが、日本代表にまで上り詰められたのには理由があります。
例えば、動きの献身性に加え一瞬の身体のキレと足腰の強さは日本人離れしています。
ただ、確かにボール・コントロールの技術自体はプロとしてはそれほど高くありません。
たまの好プレーすらコントロールは失敗だが持ち前の体のキレで形にしているような危うさがありました。
ただ、ターンやトラップなどプレーのアイディアは昔から豊富で、失敗しつつも果敢にチャレンジしてたと思います。
そのせいかボールロストも多く余計に悪い印象ができてしまうのですが、岡崎選手はくじけませんでした。
最近のプレーを観ていると、ここに来て頭の中のイメージに足元の技術が急激に追いついてきている気がします。
技術は10歳までに完成されるというのがサッカー界での定説ですが、岡崎選手は今でもうまくなっているのです。
高いレベルのプレーを常にイメージし、それに追いつこうと日々努力する岡崎選手はプロ中のプロだと思います。